くるくる廻る。日々も、世も、人の縁も。
あめのにおい
細められた両の瞳。桔梗色のそれは、常ならばあたたかな笑みをたたえているものだが、今は違う。触れれば即座に切り捨てられてしまうような、そんな鋭い刃の煌きを宿している。感情の篭らない双眸に映されて、藍染は思わず肌が粟立つ思いを味わった。
「知ってるか。藍染惣右介」
その声に名を呼ばれるだけで、屈服してしまいたくなるような。圧倒的な強さ。彼はこれほどの闘気を内に秘めたまま、それを周囲の誰にも悟らせること無くこれまでやってきたのか。と、そう思う藍染の胸が震える。
「何故、陵王に鞘がないのか」
陵王、は。の斬魄刀の名だ。以前、藍染が尺魂界を去る時に、一度だけ抜刀された其れを垣間見た。持ち主に負けず劣らず、美しい姿をした刀だった。
「知らないな。教えてくれるのかい?」
「ああ、教えてやるよ。陵王が唯一、同胞殺しの名を冠する理由を」
ぽつり、との白い頬に雨粒が落ちる。曇天は今にも泣き出しそうな雰囲気で、ここが何処であるかを錯覚しそうになる。此処は現世。限りある生を持つ者が住まう世界だ。
「要するに、君の斬魄刀は抑止力なんだよね」
火の入った煙管を咥え、煙をぷかりと吐き出しながら京楽は気だるげに呟く。
「尺魂界だって、いつの世も平和でいられる訳じゃない。特に今回みたいな事が過去にも数度起きているんだよ。表の歴史からは消されているけどね」
「裏切り者が出た場合の、その始末をがやっていたというのか」
「そう。浮竹は知らなかったの?」
愕然とした表情をする旧友を見ると、やはり知らされていなかったようだ。それは上の者が決めたのか、それとも自身が望んだのか。いずれにしろ、ここで僕が喋っちゃまずかったかなぁ、とさして後悔もしていないのに京楽は少しだけそう思う。心優しい浮竹のことだ。きっと心を痛めるだろう。けれど本当にを受け入れるつもりなら、上辺だけの生ぬるい覚悟ではいられない。
「そろそろ君も、それからボクも。本気で彼のことをどうするか、決めなくちゃいけないよ」
十三番隊隊舎、雨乾堂の外は雨が降っている。半分だけ閉じられた障子の向こうに、風景が、霞む。
「同胞殺しの力を持つ刀」
藍染のすぐ後ろに控えていたウルキオラが淡々と、今の口から出た言葉を繰り返す。その声には口の端をゆっくりと吊り上げる。
「そうだ。俺の陵王は、死神にこそ向けられるべき刃。あんたみたいな思い上がりを斬る為の刀だ」
そう言って、右腕を振ると先程まで何も持たなかった彼の手の内に剥き身の刀が納まっていた。柄に緋色の組紐が巻かれ、真っ直ぐな刀身は雨天の風景を鈍く映している。
「いつ見ても綺麗なものだね。君の斬魄刀は」
「褒めても何も出ないぞ」
「藍染様」
藍染の言葉に一段と闘気を増したを警戒してか、ウルキオラが前に出る。忠実に庇おうとする部下を片手で制し、下がらせる。口元に笑みを浮かべるが、それは決して余裕ばかりではない。じとりと汗を含み始めた背。気を抜けば、目の前の恐ろしいほどに美しい死神に切り伏せられてしまいそうになる。
「俺は言ったよな。あんたが嫌いだって」
「以前、聞いたね」
「訂正する」
俺はあんたが大嫌いだ、低く呟いて、は一度きつく目を閉じる。苦いものを噛み潰したような表情で、彼は呼ぶ。己の斬魄刀の名を。
「召しませ、陵王」
乱菊は目の前の状況が理解できなかった。なぜ、ここにあの日目の前から去っていったギンがいるのだろう。なぜ、そのギンが今自分に手を差し伸べているのだろう。そして、なぜ。それをきっぱりと拒絶できない自分がいるのだろう、と。
「聞こえんかった?」
あの懐かしい抑揚で、ギンはゆっくりと言葉を紡ぐ。甘く誘うように。
「僕と一緒においで、乱菊」
何を勝手な、と乱菊は戸惑う心中でまずそう思った。何も言わずにいなくなったのはギンではないか。置いていったのは彼で、置いていかれたのは乱菊だ。それを今更目の前に現れて、一緒においでなどと。どの口がそう言うのか。
「……っ!」
ぱん、と乾いた音がその場に響いた。
「……痛いやないの」
ギンの青白い頬が、ぶたれた部分だけ赤くなっていた。
「何、勝手なこと言ってるのよ!あんたの所為であたしも……も!」
「うん、そやね。そやから迎えに来たんや」
の名を出せば、ギンは微笑む。彼にとってこの世で一番大切な名。それは乱菊にとっても同じだ。
「の為に僕は世界を壊す。が自由になれるように」
微笑んだままの唇から吐き出された言葉に乱菊は咄嗟に反応できなかった。何を、誰の為に――?『の為に世界を壊す』――?
「ギン、あんた、何言って……」
乾いた唇が勝手に呆然と呟くのを乱菊自身はまるで他人事のように聞いていた。
「陵王の鞘に選ばれたその日から、は時を止められた」
「刀の鞘は老いず、死なず、久遠の時を刻む。次代の鞘を選ぶまで、ね」
浮竹の言葉に京楽がつまらなさそうに続ける。沈痛な面持ちで部下を思う浮竹を横目でちらりと見て、彼は面白くなさそうに煙管の灰を捨て、新しく詰めなおした葉に火を入れる。
「確かにその境遇には同情するよ。君がどれだけ辛い思いをしたのかも多少は知っているつもりだ。だけどね、浮竹。僕はまだ彼の全部を信用したわけじゃない」
辛辣に吐かれる言葉に浮竹は怒気を含んだ声で旧友の名を呼ぶが、京楽は構わずに続ける。
「強すぎる力っていうのは脅威なんだよ。それを持つ本人に振るう意思があろうとなかろうと、ね」
言葉を形にしながら京楽は空しさを感じずにはいられない。確かに彼の持つ力は恐ろしいほどの強さと影響力を持っている。それは脅威だ。いくら自身にそれを使うつもりがなくとも。抑止力というのは、使わずにいるからこそ意味のあるものだ。
「だがそれではがあまりにも不憫だ!」
「だけど決めたのは君でしょ。彼はね、自分で籠に入るのを望んだんだよ」
他に選びようが無かったんだけどね。とは、京楽は言わない。かわりに肺深く煙を吸い込み、そして雨空へと吐き出す。雨に紛れて煙はすぐに掻き消される。その様子を眺める京楽の隣で浮竹は固く握り締めた拳を畳に叩き付けた。
「いやだねぇ、本当に。ボクら結局、あの日から何も変わっちゃいないじゃないの」
空しく呟かれた声も、雨降る虚空へと吸い込まれていく。
ばかなこといわないで、と。目の前に立つ男に怒鳴ってやりたい。けれどかさかさに乾いた唇と喉は声を出すことを拒絶する。の為に、世界を壊す、だなんて。そんな馬鹿な事ってない。だっては世界を憎んでなんかいない。
「理解できへんみたいやね」
乱菊の戸惑う様子にギンは静かに言葉をかける。
「知らんのやったらそれでもええ。やけどな、乱菊。この世界がある限り、はずーっと自由になられへんのや。ずっと、ずぅっと、尺魂界に縛られて生きてなあかん」
「だって、は」
この世界を嫌いだなんて、一度も口にしたことがない。続ける言葉は喉の奥に絡まって、出てこない。
「そんなの、ひどいと思わん?何でがそんな目に遭わなあかんの?」
僕はが大好きやから。そやから世界を壊す。の為に壊すんや――不自由な喉と対照に、すらすらと思いの丈を紡いでゆく目の前の男が憎らしい。
「………ばかなこといわないで」
小さな声で否定になりきらない文言をようよう搾り出すことしかできない自分が、心底憎らしい。
具象化したの斬魄刀、『陵王』は金糸で豪奢な文様を織り込んだ緋色の袍を纏い、いかつい龍の仮面で覆った顔の下は無表情だ。右手に持った金色の桴をすっと藍染の方へ向ける。その美しい所作に藍染は感嘆の息を漏らす。美しい斬魄刀、それを持つに相応しい、美しい死神。
「やはり君は殺すには惜しいな。本当に僕の元へ来る気は」
「うるせえよ」
藍染の言葉を途中で遮って、は腰を落とし左足を後ろに引く。黒い死覇装の袖をはためかせ、まるで舞うような所作で構える。主のその姿に呼応するように、陵王も緋色の袍を翻す。黒と赤、対称的なそれらはまるで一対の舞を見ているようだ。未だ降り続く雨は、の着物と髪を濡らし雫を垂らす。湿った空気が大きく息を吸ったの肺を満たしてゆく。
「ふぅむ」
目の前の華麗な舞を顎に手を当てて観覧していた藍染は、
「藍染様、この者はいかが致しましょうか」
ぴたりと背後に付き従っていたウルキオラにそう問われ少しだけ考え込む。
「君の考えは分かるけれど、駄目だよウルキオラ。彼は殺してはいけない」
「しかし」
「僕は今、彼に嫌われているようだけれどね。何、人の事だ。明日にはどうなっているか分からないだろう?」
「どうもこうもねえよ。てめえなんざ未来永劫大嫌いだ」
二人の会話が耳に届いたが不愉快そうに吐き捨てるのを藍染はゆっくりと微笑んで受け止める。その表情がますますの癇に障ることすらも、藍染は知っている。知っていてわざとそうするのだから、嫌われても無理は無いのでは、と一部始終を眺めていたウルキオラは思う。思うが口には出さずに無表情で立っている。雨脚の強まった現世、空から降り落ちる一滴の雨粒がの斬魄刀の切っ先に触れるその瞬間。
「だから仕置きだ、藍染惣右介」
繰り出される一撃にすら、藍染は余裕の笑みを崩さない。
くるくる廻る。日々も、世も、人の縁も。変わってゆく風景。幼子は大きくなり、いつしか自分の背を超えた。寿命を迎え、朽ちてゆく木。人が増え、栄える町。人が減り、寂れる町。二度と同じ色を見せない空。雨粒はやがて岩を穿ち、穴をあける。くるくる廻る。変わってゆく。何もかも。けれど彼だけは、廻る輪の中心に。
完成日
2008/08/24