全てが終わり、人の気配がなくなって初めて、あの人がいなくなったことに気付いた。この広い家の何処にでも、あの人を思い出せるものはあるのに。あの人だけがどこにもいない。それは初めて感じる喪失感だった。ずっと一人でいたには、喪うものなど今までなかったのだ。




ゆきのにおい




ぽっかりと空いた胸の穴をどうすることもできずに持て余している。それでも日々は無情に過ぎてゆく。無情に、とは些か傲慢な表現かもしれない。世界に愛されたことのある者のみが、こう言えるのだろうから。
「俺には言う資格なんてないよ」
畳の上に脱力した四肢を投げ出したまま、一晩が経った。身につけているのは喪服だ。漆黒の衣装はきっとあの人の好みではない。葬儀が終わったのは昨日の夕刻。弔問に訪れたのはごく僅かであったから、準備も後片付けも楽だった。畳にごろりと寝転ぶと、線香の香りがした。変だ。昨日までこんなもの、縁がなかったはずなのに。
『やぁだ。何そんな辛気臭いモノ着てるのよ』
洒落者で知られたあの人のことだ。目に痛いほどの派手な色柄も、嫌味ではなく本当にさらりと着こなしてしまうのだから、同じく派手好きな京楽でさえも、
「う〜ん、僕には真似できないなぁ」
とぼやく程だった。衣桁にかけられたままの振袖、赤い地に大輪の牡丹の花をいくつも散らした鮮やかな模様のそれは、あの人が、胡蝶が好んでよく着ていたものだった。自分の名が蝶だから、花の柄を好むのだと戯言の様に言っていた。逆さまに見える振袖は、薄暗い室内には似合わない。視線を右に投じれば、ゆかしい香りが常に聞こえていた香炉。黒漆に金蒔絵の飾り櫛。燻し銀に紅珊瑚の簪。白椿の描かれた扇。朱塗りの文箱。畳の上に散らばる、そのどれもがもうここにはいない彼の人のよすがを思い起こさせるものばかり。
「なぜ」
僅かに開いた唇の隙間から零れ落ちる音は、静まり返った室内にあっさりと溶け込んだ。
「俺は『終わって』ないんだろう」
心の底から疑問に思う。答える者は誰も、いない。

「面倒をみるだって?」
たった今、友から聞いたその言葉に京楽は苦りきった表情を向ける。
「浮竹、君ねえ。お人好しなのもいい加減にしなよ」
「分かっている。だが誰かがあいつをみてやらなければならないんだろう?」
「そんなの、放っておけば上の人がするでしょ。閉じ込めるなり飼い殺しにするなり」
「それだ!」
さして興味もなさげに言った京楽の言葉に浮竹は語気を荒げる。目の前で話を聞いていた京楽が思わず耳を塞ぐほどの大声を出した彼は、病弱故に色の白い肌を怒りに染める。
「俺はそれが嫌なんだ。目の前で泣いている子供を放ってはおけん」
「子供って、ねえ。確かに若く見えるけど僕らより年上のはずだよ?」
灰ばかりになった煙草を煙管から落とし、新しい葉を詰めて再び火をつける。のんびりした動作とは裏腹に京楽の脳裏にはある少年の姿が浮かんでいた。この世のモノとは思えないほど美しく整った、其れが故にあの忌まわしい刀の鞘に望まれてしまった可哀想な少年。胡蝶が何を思って彼を拾ったのか。今や誰にも分からない。当の本人がいなくなってしまったのだから。
「無責任だよねえ。自分の叶えたいことだけさっさと叶えて、後に残される僕らの苦労なんて微塵も考えていないんだもの」
京楽とは飲み友達であった。洒脱で軽快な話口と、年恰好に似合わぬ深い知恵の持ち主だった胡蝶は、格好の話し相手だった。師である山本にも友である浮竹にも打ち明けられない秘め事をこっそりと教えるのが好きだった。だが、胡蝶は京楽には何も告げずに逝ってしまった。
「ほんと、自分勝手だよねぇ」
目の前で浮竹があれこれと思案をめぐらせるのをまるで他人事のように眺める。柄にもなく、感傷に浸っていたのかもしれない。

時の流れに取り残されていた。あれからどれだけ時間が経ったのか見当もつかない。閉め切った部屋の襖がふいに開いて、薄暗かった室内に真夏の陽光が差し込んだのを迷惑そうに見上げる自分を、怒った表情で見下ろす浮竹。
「いつまでそうしているつもりだ」
「いつまで、って」
死覇装の上に隊長格のみが許された白い羽織、背に十三の文字の刻まれたそれ。ずっと暗い場所に居たから、目に眩しい。桔梗色の目を細めていつまでも答えを返さない自分に痺れを切らしたのか、浮竹は普段温厚な彼にしては珍しく、語気を荒げて再び問う。
「おまえはいつまでここで無為に時を過ごすつもりだ!」
「終わるまで」
「何だ?」
「俺が、終わるまで」
「な!」
瞠目する浮竹に、薄い笑みを浮かべる。目の前で苦しげに眉を寄せる浮竹を見て、どうしてこの人がこんな顔をするのか心底不思議に思った。浮竹は、あの人の飲み友達である京楽の友である。特別親しい間柄ではなかったが、京楽に連れられてこの家にやって来る内に元来の気性の良さが胡蝶に気に入られ、宴会を催す時は必ず顔を出していた。
「ああ、そういえば。昨日は来てくれてありがとう。あの人もあんたに見送られたら寄り道せずにきちんと逝けるだろう」
通夜も、葬儀も。無感動に過ごしていた自分の隣であれこれと世話を焼いてくれていたような気がする。思い出して礼を言えば、律儀な彼らしく、「いや、大したことはしていない」と小さく言った。
「それよりおまえだ。あれから五日も経つんだぞ。いい加減にしたらどうなんだ」
「説教?いいご身分だな」
見下したような視線に怯まず、浮竹は続ける。
「俺はおまえを心配してるんだ。このままではいずれ中央の役人がやって来る。そうなれば」
「そうなれば、俺は一生奴らの言いなりになるな」
くつくつと喉の奥で笑う。外見に似合わず、すれた感じのするその笑い方に浮竹の表情が歪む。
「分かっているなら!」
「……いいんだよ」
桔梗色の瞳、綺麗な色のはずのそれが、目に痛いほど突き刺さる。
「もう、いいんだ。だってあの人がいないなら、俺が生きてる意味なんてないから」
何もかもを諦めた様子に、浮竹は己の甘さを呪った。ほんの少し、誰かが発破をかけさえすれば立ち直ると思ったのだ。その為の言葉も用意し、その後の待遇さえ悪いようにはしないつもりだった。けれど、肝心の本人の心持まで考慮していなかった。

脳裏を掠めるのはあの日の光景。夏だというのに寒々しく、世界が色を失った日。暗い空から降るのは夕立ではなく、雪だった。有り得ないと思ったが、だが現実だった。胸騒ぎがしてこの家に駆けつけてみれば、胡蝶の居室の襖も障子も全て開け放たれていた。夏の盛りの緑を茂らせた庭の木々には薄っすらと雪化粧が施されていた。そうして目に入った光景に浮竹は絶句したのだった。其処には降り積もった雪と、倒れて四肢を投げ出した胡蝶の身体と、全身を返り血に染め上げ、手に一振りの美しい刀を持ったまま呆然と立ち尽くす桔梗色の瞳の少年がいた。それが見知った相手でなければ。尚且つ現の出来事でさえなければ。少々猟奇的だが浮竹は確かに美しいと感じただろう。
「こ、胡蝶……?」
呼びかけは声になっただろうか。
「――」
赤い血に染まった胡蝶がこちらを見た気がした。血の気を失った唇が何事かを言った。浮竹に聞こえるほどの声の大きさではなかったが、傍に立つの肩がびくりと震えた。
「胡蝶!も、一体どうしたんだ!?何があったっ」
弾かれるように駆け出し、倒れる胡蝶の傍らに膝をつく。血色に染まった雪の色が目に鮮やかだ。
「……何も、ないわ。ただ、刀が次の鞘を選んだだけ」
それだけよ、と。今にも息絶えそうなか細い呼吸の合間に胡蝶は言う。その言葉の意味を浮竹は理解できずに、の顔を仰ぎ見る。少年の、表情は叱られた子供のように幼く、寄る辺の無い者のように頼りなかった。そんな彼に胡蝶は微笑む。そして、告げる言葉が最期となった。

「ふざけるな!俺は胡蝶におまえを任されたんだ!あれはそういう意味だと俺は思っている。だからこそ、俺はおまえがここでくたばるなんて許さないぞ!」
強い口調で詰め寄っても、生きる気力を失くした者には意味を持たないのだと知った。悲しいほど浮竹の叫びは伝わらない。それほどまでにこの少年の中で胡蝶の存在は大きかったのか。彼が自分自身を望まぬほどに絶対的なものだったのか。
「放っておけばいいだろ」
「放っておけないから此処に来たんだ!言っていただろう?あの時、胡蝶はおまえに」
「あの人の名前を軽々しく口に出すな!!」
ここに来て初めての少年の大音声に、夏の名残を鳴いていた庭のひぐらしが一斉に静かになった。黒髪の下から覗く桔梗の瞳が宿す苛烈な光に浮竹は肌がびりびりと震えるのを感じた。それが目の前の美しい造形の少年が発する霊圧だと気付くまでに僅かに時間が要った。今この状態を引き起こした斬魄刀、その鞘に見込まれたのは何も彼の姿形が綺麗に整っているばかりではなかったのだ。
「誰も彼も余計な真似しやがって!こんな命、いつ終わっても惜しくない!それなのにあの人が俺に名前を付けるから!俺に手を差し伸べるから……っ、だから、今こんなにっ!」
苦しげに顔を歪ませ、泣き叫ぶように声を張り上げる。だけど肝心の涙が一滴も流れない。ああ、そうか、と浮竹は得心する。泣けないから、彼は今こんなにも苦しんでいるのだ。
「放っておいてくれ!もう、俺に構わないでくれっ。最初から一人でいたら、こんな気持ち味わうことなんてなかったんだ!」
悲愴な叫びに浮竹はただその場に立ち尽くすことしかできない。ここに来れば、彼を救えると思った数刻前の己の浅はかな自信を恥じた。現実には泣きたいのに泣けない少年一人、満足に感情を吐露させてやることすら叶わない。両腕で顔を覆ってしまった少年に、かける言葉すら思いつかない。
「……
「……」
名を呼べど、返る反応はない。
「悪かった。俺の思い上がりでおまえには嫌な思いをさせてしまった。今日はもう帰るよ。だがな、。胡蝶が最期におまえに言った言葉を、もう一度よく思い出してくれ」
そう言って、浮竹はその場を立ち去った。また一人で残されたは、いつの間にか再び鳴き出したひぐらしの声を聞く。
「あの人の、さいごの」
小さく呟くの中に、未だ生々しく蘇る雪と血のにおい。白い雪の上に、銀色の髪を散らし、自身の流す血で色を添えた胡蝶。死に逝く瞬間にあの人はそれでも笑っていた。

『倖せになりなさい。あんたはまだまだ子供、世の中のことを何も判っちゃいない。喜びも哀しみも、憂いも惑いも後悔の数も、全然足りやしないわ。だからあんたは生き続けるの。ここで終わりにするだなんて、許さない』

「ゆるさない、か」
そうだ。あの人は、俺が一緒になって終わろうとすることを見抜いていたんだ。だからあんなことを言ったのだろう。
「そうやって、今度はいつまで俺を縛る気なんだ……」
顔を覆う腕は今は白い。しかしあの時、それは緋色に染まっていた。いやだ、と呟く声を聞く者はいない。それでも夜は明け、陽は昇る。永遠の常闇を望んでいたというのに、眩いばかりの光射す世界へ引き摺りだされ、もがく様を嗤われる。
「いやだ」
もう一度、小さく呟いては大きく息をついた。

結局、はあの家に一人で残ることとなった。敷地内に入っては来ないが、周辺に監視の目があることをは知っている。どこかへ出かける時には必ず気配が一つついて来る。常に誰かに見張られているという事実を除けば、概ね穏やかに彼は日々を過ごした。浮竹が根回しをしてくれたと知ったのは随分後になってだったが、今度は素直に感謝した。色々と考えて胡蝶の墓に名は刻まなかった。墓を立てた時、夏の空は蒼く太陽は眩しすぎるほどだった。花を添えて線香を立て、手を合わせて、立ち上がった時には眩暈がした。これで本当に、あの人はもう何処にもいないのだと、思い知らされた気がした。
「もう、行くよ」
墓に向かってそう言い置き、はゆっくりと踵を返す。ひとりきりで、あの家へ戻るために。



完成日
2008/10/05