小さい頃から憧れていた。本に囲まれ、本に触れ、本を扱う仕事に。生まれて初めての就職先も、当然選んだのは本に携わる仕事だ。
「……以上で説明は終わりですな。何か質問はおありかの?」
ロンドンのとある古ぼけたビル、その一室でが向かい合っているのは見事な髭と半月眼鏡が印象深い老人だ。彼の言葉に、と呼ばれた長い髪の少女(本当は女性、という方が正しい年齢なのだけれども)はふるり、と首を左右に振った。
「いいえ、ありません」
きっぱりと答えた彼女に老人は眼鏡の奥の水色のビーズのような瞳を細めて笑う。
「では新学期からよろしくお願いしますぞ」
「こちらこそ!よろしくお願いします!」
立ち上がり、握手を交わして。新しい上司となった老人をはまじまじと見つめる。どこか普通のお爺さんとは言い難い雰囲気を感じるのは気の所為だろうか。先に部屋を出ようとしていた老人が、ふと思い出したようにくるりと振り返る。
「ああ、ところでお嬢さん。不思議なことには慣れておりますかの?」
「はい?」
その変わった質問の意味を知る時は、新しい職場に赴任して一時間と経たない内にやってきた。


「あああ、ちょっと!待ってお願い飛んでいかないで〜!」
の職場は本が溢れていた。何しろ図書館がその仕事場だからだ。しかし彼女が今情けない声で懇願しているのは何も鳥とかうさぎとか、そういう小動物の類ではなく、あえて言うならば彼女の商売道具とさえ言える『本』そのものである。司書補佐として、がやってきたのはホグワーツ魔法魔術学校。魔法なんてものが本当にこの世にあったのか、とびっくりする前に彼女は自分が仕事をするその対象が普通のものではないことに泣きそうになっていた。何しろここの本ときたら、じっとしていない。隙を見てどこかへぱたぱたと飛んでいこうとするし、暇があれば勝手におしゃべりを始めるし(図書館ではお静かに!)利用者である生徒が気弱そうな子だと知るとページを開くのを断固拒否したりする。まるで聞き分けの無い子供が大勢いるようだ。そんな職場で来る日も来る日も過ごしていると、いちいち驚いていたら身がもたない。茫然自失して声を失ったのは最初の五分だけで、その後の彼女の奮闘ぶりは今や学校中の知るところだ。
「あれーさんまたやってるの?」
ぱたぱたと、新米司書をからかうように彼女が背伸びしても届かない高さまで飛んでいる飛行術の本を捕まえようと躍起になっている小柄な女性を書架の間で見つけたジェームズが後ろから声をかける。
「また、って!言わないでー!ああっもうちょっとなの!に!!」
最大限に腕を伸ばして本を捕まえようとしているだが、絶妙な高さを維持する飛行術の本には届かない。爪先立ちしている足元はバランスが悪く、今にも倒れそうだ。
「もう、ちょっと……ああっ」
ぐらり、と身体が傾いだ。狭い書棚の隙間で倒れたら。きっとこの両側にみっちりと詰まった本の下敷きになってしまうだろう。そうなったらタダではすまない。怪我をするとか、そういうこと以前に自分の上司であるマダム・ピンスに本を粗末に扱ったことを知られたら、それこそタダじゃ済まない。思わずぎゅっと目を閉じただったが、恐れていた衝撃はいつまで経ってもやってこない。代わりに腰に回された二本の腕と、背中に感じるあたたかい体温。
「危なかったね、さん」
「ったく、どう考えたって無理なんだから最初からやめとけよな」
恐る恐る目を開ければ、シリウスが飛行術の本を手にしていて、頭の上からする声は確かにリーマスのものだった。どうやら倒れそうになったをリーマスが支えてくれて、飛び回る本をシリウスが捕まえてくれたらしい。
「ありがとう〜」
とりあえず、マダム・ピンスの恐怖からは逃れられた安堵感でいっぱいになったは、膝から力が抜けてその場に座り込みそうになる。リーマスがすかさず腕に力を込めてそのままでいられたのだが。
「いつも大変だねー」
通路で傍観していたジェームズが苦笑しながらやってきた。
「だってこれがお仕事だもの。でも二人にはいつも助けてもらってるわね。ごめんね」
「いいんだって。この二人はそれなりに役得があるんだし」
「ジェームズ!」
「役得?」
さんは知らなくていいからね」
ジェームズが朗らかに笑いながら言った言葉にシリウスが真っ先に反応し、首を傾げるにリーマスが優しく「何でもないよ」と微笑みかける。その笑顔に何となくつられて笑い返していると、奥の棚から本が数冊ふよふよと空中散歩をしているのが目に入った。
「あああ、また飛び出して!いい子だから勝手に出歩かないでー!!」
慌てて本の後を追う。けれど肩越しに振り返って助けてくれた二人に礼を言うことも忘れない。苦笑したリーマスが頑張って、という励ましの言葉をくれた気がしたが、それどころじゃなかった。

「もう、どう、して、あなたたちは、散歩が大好きなのかしら!」
息も絶え絶えに図書室を走り回っていた私は、脇に抱えた本を元の書棚に戻している最中だ。あの後、大騒ぎで捕り物をしているところをマダム・ピンスに見つかり、こっぴどく叱られ、マダムの鶴の一声で大人しくなった本をこうして今元の位置に返している。それにしても、私の言うことはぜんぜん聞いてくれないくせに、マダムには従順だなんて。いくら本が大好きな私でもちょっと落ち込む。本が大好きだからこそ、その本達に軽く見られているようで意気消沈してしまう。それもこれも全て私が未熟な所為だ。悔しさに滲む涙が疎ましい。
「ああ、もう、と、届かない………っ!」
身長が足りない所為で棚の上の方に手が届かない。爪先立ちになっても無理なものは無理だ。それでも何とか頑張って、隙間に本を押し込もうとする。腕はぎりぎりいっぱいまで伸ばしているから痛い。爪先立ちになった足元のバランスも危うい。このままでは本日二度目の転倒だ。(一度目は未遂だったが)
「…………」
「あ」
後ろに倒れそうになった私の背を支えてくれる、男の子の手。見上げた少年は手入れをあまりされていないぼさぼさの黒髪と、不機嫌そうに寄せられた眉、そして薄暗い図書室の奥でさらに際立つ土気色の肌の持ち主だった。呆然と見上げたままの私の手からさっと本を取り上げると、いとも簡単に戻そうとしていた場所に収めてしまう。
「ふっ……うぅ」
ありがとう、と言おうとしたのに。私の口から漏れたのは涙をこらえる声でしかなかった。
「……!な、なぜ泣く……!?」
よもや彼も私が泣き出すとは思わなかっただろう。助けてくれた彼にそうするべきじゃないと頭の中では理解していても、私はこみ上げてくる涙を抑えることができなかった。
「だってぇぇぇ……私何の役にも立たないんだものぉぉ……」
あまつさえ、弱音。会ったばかりで名前さえ知らない少年の前で私は盛大に泣き出してしまった。私を助けてくれた少年は、何も言うでもなく、しかし立ち去ることもなく、ただその場に立っていた。困惑しているだろうことは、彼から発する雰囲気でなんとなく分かったが、自分が泣くのに忙しい私にはどうにもできなかった。



01. 僕に言えることは、

ひとつしかないから




「とりあえず、鼻水はふいておけ」
そう言って、差し出された水色のきっちりとアイロンされたハンカチで私は遠慮なく鼻をかんだ。
「……………」
隣の彼は僅かに眉を顰めただけで、何も言わなかった。