03. だから、ぼくは泣くのです。




「……という訳で、これは今日の夕刻までに決済を。それとこちらの――」
十三番隊の隊務で書類仕事等の事務処理は主に八席であるが統括している。上位席官ともなれば実戦に赴くべきはずなのだが、はほとんど尺魂界に残り、延々と事務処理を行っている。他の隊では一桁の席官がぬくぬくと椅子をあたためている状況にいい顔をしない。むしろ職務怠慢を理由に官位を下げるだろう。しかし十三番隊では、の場合に限りそれは当てはまらない。
「二日前に出された現世への派遣要請ですが、人選は隊に一任されておりますので明日朝までに決定を」
「ちょ、ちょっと」
「あと来月に予定されている隊内の親睦会の」
「ちょっと待ってくれ!」
「どうしましたか?浮竹隊長」
仕事の内容を淡々と伝える部下の声に悲鳴を上げたのは十三番隊隊長、浮竹十四郎。額にうっすらと汗をかき、メモを取ろうとした筆はとうに乾いて、手元にある書類は乱れてばらばら。
「そ、そんなにいっぺんに言わないでくれ。覚えきれないじゃないか」
「そうですか?でも八席はいつもこれで通されてましたが」
「そうなのか?いや、と一緒にしないでくれ」
普段の補佐を務めている若い女性死神はわずかに首を傾げると、腕に抱えた重そうな書類の束を抱えなおすと、やはり同じペースで口上を続ける。曰く、
「ゆっくりしてると終わりませんから」

「疲れた……」
午前の執務を終え、ぐったりと机に伏す浮竹。ちょうど外から帰ってきたばかりの副隊長、志波海燕がひょっこり顔を出してその姿を見て呆れた笑いを漏らした。
「何だよ隊長ーバテてんのか?」
「海燕……」
無遠慮に上がりこんで、散らかった書類をつまむとその内容を目で追う。
「あれ、そういやは?これあいつの仕事だろ?」
いつもなら隊内でやかましくも猛スピードであらゆる事務作業をこなしているその姿をそういえば今朝から見かけていない。隊舎の方でも見ていないので、てっきり浮竹と共に雨乾堂にいるものだとばかり思っていたのだが。
は今日は休みだ。少し風邪を引いてな」
「珍しいな。あいつでも風邪引くんだ」
「おいおい、を何だと思ってるんだ」
「え?」
苦笑しながら問われた言葉に海燕はしばし考え込み、それから真顔で首を傾げつつ「……馬鹿?」と答えた。
が聞いたら怒ると思うぞ」
「あっはっは、別にいいよ。恐くないし」
「いや、おまえ、は恐いぞ。本気で怒ると」
軽く笑い飛ばす副官に浮竹は言う。その言葉にきょとんとして海燕は「どんな風に?」と聞いていた。それに答える浮竹は少々青褪めた顔をして、真剣に言葉を紡いだ。
「飯を抜かれる」
「………はぁ?」
「俺の好物の梅干まで隠してしまうんだぞ!?」
「買えばいいじゃないんすか。梅干ぐらい」
「駄目だ駄目だ。が漬けたものじゃないと食べた気がしない」
「はぁ……」
「飯もだな、が作ってくれたものじゃないと最近は何を食べてもそれほど美味いと思わなくなってきてしまってな。今朝なんかは久々に台所に立とうとしたんだが、何をどうしていいやら見当もつかなくて結局昨日の冷や飯にお湯をかけて終わったよ」
「隊長、に餌付けされてんじゃねーの?って、ちょっと待て。隊長がそんな飯食ってきたってことは、はどうなってんだ!?風邪で寝込んでるんだろ!?」
独り身の男の朝など何処も大差ないだろう。浮竹の場合、が居候するようになってから衣食住の全権をほぼ彼に任せるようになり、生活水準が改善されたに過ぎない。しかもはそこらの主婦よりも出来る。料理も掃除も洗濯も何もかも完璧にこなしてみせる。何度か招かれて浮竹の家にの手料理をご馳走になりに行ったが、筆舌に尽しがたい味であった。作られた料理は決して派手ではない。何処でも手に入る普通の材料を使っている。なのにあの味はどうしたことか。一度口に入れると箸を置く間もないほど夢中になって食べた。それほどまでに美味しかったのだ。これなら毎日でも相伴に預かりたいものだ。そう思って、割と頻繁にふらふらと浮竹邸に現れる京楽隊長の気持ちが少し分かった気がした。こんなに美味い料理を毎日食べている隊長をかなり本気で羨んだ。とにかく、浮竹の家の家事一切は全てが仕切っているのだ。ではそのが動けない時には一体誰が代わりを務めるのか。もしかして放置?嫌な予感が胸を過ぎり、海燕は慌てて浮竹に詰め寄る。
「それなら大丈夫だ。朝一番に四番隊に連絡したからな。卯ノ花隊長直々に往診に来てくださるそうだから」
「ああ、なら大丈夫か。あーでも後で見舞いにでも行くかな。あいつ淋しがってるだろうから。なあ、隊長」
「そうだな。きっと喜ぶぞ」
海燕の言葉に浮竹は口元を緩めて微笑む。照れくさそうに顔を赤らめた副官は、それを払拭するかのようにその場に立ち上がると、びしりと机の上や脇に積みあがった紙束を指す。
「つう訳で、隊長はこの仕事しっかりやれよ。じゃねーと家に帰れねえからな!」
「な、ちょっと待て!手伝ってくれるんじゃないのか海燕!?」
「俺は俺でやる事あるんだよ。一人いないだけで隊内の庶務が滞ってんだ。まったく、あいついっつも一人でどんだけ仕事してんだ」
言ってさっさと退室していく海燕は、ぶつぶつと悪態をつきながらもその横顔は優しい。その表情はを好いているからこそだ。文句が出るのはが倒れるまで気付いてやれなかった自分の不甲斐なさに対して、だ。
、さっさと快復しないと海燕が怒るぞ」
副官の背を見送って、浮竹は筆を執る。夕刻までには片付けて、早く家に戻りたい。土産に蜜柑でも買って帰ろうか。そう思いながら積まれた仕事をこなすのだった。

「もう大丈夫ですね」
額に手を当てて、熱を測っていた四番隊隊長、卯ノ花烈はそう言って寝たままのを見下ろして微笑んだ。朝、十三番隊から至急来てくれと要請された時は彼の隊の隊長がまた倒れでもしたのかと、それは割合よく起こる出来事なのでそれほど気にせずに雨乾堂までやってきたのだが。今回の患者は浮竹隊長の方ではなく、だった。その事に驚き、慌てふためく自身の副官を一度叱って病状を診たが、軽い風邪だったようだ。とりあえず薬を処方して、何か腹に入れるものを勇音に作らせて、昼餉はの看病をしたいと群がる自隊の隊員の中から料理が得意な、それでいて大人しめの部下を選んで寄越し、そして夕方。今一度卯ノ花自らの病状を確かめにやって来たのだった。
「熱も下がりましたし、明日までゆっくり休んでいれば治りますよ」
「ありがとう烈さん。迷惑かけちゃってごめん」
布団の中のはいつもよりほんの少し情けない表情で礼を言う。忙しい隊長の手を煩わせてしまったという負い目があるのだろう。
さん、こういう時はそうではないのでしょう?」
卯ノ花がそう言えば、はしばし瞬いて。いつかの会話を思い出すと、
「そうだった。『ありがとう』、烈さん」
熱に疲れた顔ながらも、やわらかに笑ってみせた。その笑みに卯ノ花もつられて笑い返す。
「少し疲れがたまっていたのでしょう。身体が悲鳴を上げる前に次はご自分で気付いてくださいね」
諭すように言って、水差しから水を注ぎ、薬とともにに手渡す。起き上がったに羽織をかけてやると、彼は薬を飲み干してその苦さに一瞬顔をしかめた。
「やだなぁもう。俺ってかっこ悪いなぁ」
「あらあら。そんなことありませんよ」
「あの時とは逆になっちゃったな」
「そうですね」
情けない、と言いつつもその表情は何処か楽しそうだ。
「嬉しそうですね」
それもそのはず。の枕元にはたくさんの花や菓子、果物などの見舞いの品々が山となって積まれている。全て彼を慕う人物から贈られたものだ。所属する十三番隊の者達は勿論、他隊の者のみならず市井の者達も彼の為に心を砕いている。物が嬉しい、というよりもその心遣いが何よりも彼を喜ばせた。はそれらを見遣って、卯ノ花の言葉に幼い笑みを返す。
「うん。みんな優しいんだー」
「あなたが皆に優しいからですよ」
優しさは優しさで返ってくる。どんな形であれ、人にかけた情けは自分の為になるのだ。例えばこういう時。熱を出して寝込んでしまって、けれど誰も責めることなく労わりの言葉をかけてくれる。が寝込んだことで浮竹はまともな朝食が摂れなかったはずだ。けれど浮竹は「何とかなるだろ」と無理に起き上がろうとするを制してあっさり笑った。隊務だって、滞ってしまっただろう。の役割は決して前線に出ることがない、裏方の仕事だけれども。それでも誰かがやらなくては支障が出るものだ。まして自分の我儘で刀を手にすることを拒んでいるにとっては、己に課せられた仕事ぐらいは完璧にこなさなければならなかったのに。
「俺は全然優しくなんかないよ。だってこれは俺の我儘なんだもの」
我儘、と。は言ってくしゃりと顔を歪めた。十三番隊の八席、上位席官でありながら彼が戦の場に立つことはない。それは何故なのか。事情を知っているらしい、浮竹や京楽。そして山本総隊長は他の者には許さないこの事態を黙認している。誰もが疑問に思うはずなのに、疑念を持たせる暇も、またそれを口に出すことも許さない。だから卯ノ花自身も何故が虚討伐の前線に出ないのか知らない。
「それでも、あなたの優しさに救われる者もいるのですよ」
慈悲の表情で告げるものの、の頑なな心全ては溶かせない。彼の抱えているもの、それは深く根付いて今尚自身を苛んでいる。悔しいけれど、が何も話してくれない以上こちらからできることは限られている。
さん」
名を呼ぶ。手を取って、体温を分け与える。それから耳を澄ませて聞こえてくる足音と、少しだけ騒々しい会話を聞き取る。
「ほら」
それに気付くよう、を促すと俯けていた顔を上げたの、先程歪めたままの顔が今度は泣きそうになった。
「どうしよう。俺、泣いちゃいそう」
「どうぞあなたの心の向くままに。誰もあなたを悪く言わないのですから」
障子戸が開かれて、浮竹や海燕、清音に仙太郎。そして最後尾におずおずとついてくる朽木ルキアの姿。やかましくしているのは海燕と二人の三席で、だけれどもの顔を見た途端に清音が真っ先に離脱して「さん!大丈夫なんですか!?」と駆け寄ってくる。
「ずるいぞ清音!さんには俺が一番に見舞いの言葉をかけようとだな!」
「どうしたしまして!あんたなんか一生海燕副隊長と言い争ってなさいよ!」
「おまえら病人の傍では静かにしやがれ!それから見舞い品は割り勘だからな!」
「海燕副隊長せこいですよ!高給取りの癖に!!」
「喧しい!俺は平等が好きな男なんだ!」
「そんなだからいつまでも『副』隊長のままなんですよ!」
「何だと仙太郎…?てめ、もういっぺん言ってみろ!?」
そのままその場を離れていってしまった海燕と仙太郎。その背を見送って呑気に浮竹がの顔色を窺う。
「どうだ、調子は」
殿、具合はもうよろしいのですか?」
ルキアもそう言って、どうやら先程の見舞いの品であるらしい、大きなざるに乗せられたきのこや山菜、川魚等々の山の幸を差し出す。
「ありがとルキアちゃん。って、これは何?」
「海燕がな、が元気になったらこれで飯を作って欲しいんだと」
浮竹が朗らかに笑う。
「俺だけいつもの飯を食ってるのが気に入らないらしい」
「俺への見舞いじゃないのかよ……」
呆れたため息を吐き、庭先で仙太郎を追い掛け回す海燕の騒がしさに眉を顰める。新鮮な芳しい芳香漂う食材を見下ろす。それらを活かした献立を即座に考えてしまう、そんな自分がいることに対して。
「どうしよう、烈さん。俺ホントに泣いちゃいそう」
さっきと違う意味で。ぽつりと呟いたに、卯ノ花はゆるりと笑みを向けたのだった。


完成日
2007/11/04