怖いことなんて、何もない。




「藍染隊長!ちょっとこの人どうにかしてくださいっ!!」
賑やかな少女の声が無機質な部屋に響き渡った。肩までの黒髪を揺らし、秘色の色をした瞳を吊り上げて、表情豊かに怒りを出している。身に纏うのは黒の上下、死神が着る死覇装だ。腰には瞳の色と同じ組紐で飾られた一振りの太刀――斬魄刀がある。小柄な彼女はその細腕で自分より遥かに大きな男を引き摺ってやって来た。
「うるせーな。耳元ででけぇ声出すんじゃねーよ」
そんな彼女に伴われていたのはグリムジョーで。
「ムカつく!ちょっといっぺん魂葬されろ!」
「おやおや、どうしたんだい。そんなに興奮して」
ゆったりと椅子に座り、紅茶のカップを手にしながら藍染は歳の離れた親戚の子供を愛でるかのように優しく声をかける。その表情をそれまで傍にいて侵入者の行動パターンなどを報告していたウルキオラは少し驚きつつ無言で見つめる。表情には出さない。湖畔のような緑青の双眸に感情が垣間見える事など滅多に無い。
「だってグリムジョーがあたしの邪魔ばっかりするんですよ!?」
「邪魔なんかしてねーだろ」
「したじゃない!人が鍛錬してる傍で五月蝿くしてっ」
「はっ。あれが鍛錬?全然なっちゃいねえから俺が助言してやったんだろうが」
「何処が助言だったのよ!」
怒りに白い頬を紅く染め上げて、隣にだらしなく立つグリムジョーを睨み上げる。そこに彼女の声を聞きつけて市丸ギンがひょっこり顔を出した。
「なんやちゃん。そないに怒ってどうしたん?」
「隊長〜!!」
市丸の姿を認めた途端、今まで掴んでいたグリムジョーの腕をぞんざいに振り払って駆け寄っていく。まるで飼い主を発見した犬のようだ。
「よしよし。また苛められたんか。可哀想になぁ」
低い位置にあるの頭を優しく撫でる市丸と、彼に安心しきって身を任せている少女。
「相変わらずはギンにべったりだな」
微笑ましく笑み崩した頬のまま、藍染は二人を見つめている。
「藍染様」
すっかりその存在を忘れられていたウルキオラが声をかけると、
「ああ、すまないね。が来るとどうも和んでしまう。今日はもう仕舞いにしようか」
「では後日改めて」
「そうしてくれるかい」
一礼と共にその場を辞したウルキオラの耳に、背後から聞こえるのは未だ賑やかに続けられる喧騒。向かう先には白い静寂。その差に何の感慨も持つことなく、ウルキオラは無言で歩みを進めた。

「あ、ウルキオラだ」
「……
数十分後、広い廊下の真ん中ですれ違った少女は先程怒っていたのが嘘のようににこにこと笑っていた。死覇装の黒は、この場では目立ちすぎるほどくっきりと存在を主張する。そういえば、彼女は死神だ。市丸の元、三番隊に居たのだという。藍染が尺魂界を裏切った時、市丸についてこの地へやって来たのだと。
「衣を改めないのか」
「?」
以前から疑問に思っていた。藍染を始め、市丸も東仙も虚圏へやって来てからは死神の象徴とも言うべき漆黒の衣を脱ぎ去っている。しかし彼女だけは相変わらず黒を身に纏っているのだ。不自然だといえばそうとしか思えない。
「何故いつまでも其れを着る必要がある」
黒は死神が纏う彩だ。敵対する我らには相応しくない。ウルキオラの突然の言葉に面食らっているにそう続ければ、彼女は何度か瞬きを繰り返し、やがて声をあげて笑い出した。
「何が可笑しい」
「ううん。可笑しくなんて無い。ウルキオラが正しいよ」
答えになっていない応えを返す彼女にウルキオラの凪いだ心がざわめく。思えばを前にするといつもそうだ。一片の乱れも無い自らの内に、彼女はいつも一石を投じて水面を揺らす。そのこと自体に害は無い。だが僅かでも他人に己の心を乱される、その感覚が酷く厭だった。
「そっか、目立つよね。此処の人みんな真っ白だもんね」
改めて、といった風で己の装束を見下ろす。幼い造りの顔が無垢なままの感情を作り出す。彼女ほど感情豊かに在る存在はここでは酷く珍しい。此処に在る者達は皆、仮面を被っている。本心を隠すために。衣ばかりが白いだけで、その実内面は酷く澱んでいる。だがは。
「んー、でもなぁ。隊長があたしはこのままでいいって言ってるしなぁ」
袴を指で摘み、その場でくるりと回転してみせたは、ウルキオラの方を見てにこりと笑った。黒を纏うということは、白よりも尚、その本質が純粋であるということなのか。真白であれ、と。そう命じたのは彼女の上官、市丸であり、それは即ち藍染の意志であるということである。
「ダメかな?」
「いや……藍染様がお許しになるのならば、それでいい」
下から覗き込むように問うたにそう返すと、彼女は刹那、自嘲するように僅かに顔を歪めた。その歪みが酷く不釣合いで。
「ウルキオラはそれで納得しちゃうんだね」
くるり、と半回転してこちらに背を向けたの声は笑いを含んでいた。
「藍染隊長が言えば何でも従っちゃうんだ」
「藍染様は我らの創造主、逆らう方がどうかしている」
「うん、そうだよね。ウルキオラは正しいよ」
正しい、と彼女は言うが声音はそうは言っていない。何処か責める様に、しかし戸惑うように必死に何かを求めている。彼女が何を求めているのか。ウルキオラには分からない。
「ウルキオラは怖くなったりしないの?」
背を向けたままの小さな背中が問う。
「怖い?何に対してだ」
ウルキオラには分からない。彼女の恐怖が理解できない。
「何に、って。分かんないけど」
「分からないものに感じる恐怖など無い」
「分かんないからこそ怖いんじゃないの」
ざわめく心はすれ違う。ウルキオラに彼女の心が理解できないように、彼女にもこちらの心は理解することはないのだろう。
「不満があるのか」
ウルキオラには理解できない。の心情が、彼女の存在そのものが。藍染が何故、彼女を許しているのか。
「分かんない」
首を振って、彼女はつと歩き出す。歩幅は狭い。腕力も、見るだけで細いその腕には期待できない。霊力はどうかといえば、多少鬼道の技に長けてはいるが、此処で役に立つほどのものとは思えない。
「あたし考えるの嫌いだし、何も知らないままでここまで来ちゃったけど」
「後悔しているのか」
「してない」
弱気とも取れる言に鋭く問えば、意外にもきっぱりとした言葉が返ってきた。
「だって、怖いもん。自分のしたこと見つめ直すの」
「何もしていないだろう」
彼女の言葉を受けて僅かに思案した後、首を傾げて問い返せば彼女は情けない笑い声を上げた。
「うわ。言わないでよ」
「……後悔するのか。これから先、我らと共に在ることで」
ウルキオラには分からない。という存在が理解できないのだから。そもそも、後悔という感情そのものを持ち合わせていない。
「分かんない」
もう何度目か知れない、同じ答えを彼女は返す。
「怖いことなんて何もないよ。ただちょっと」



04. 後ろを振り向く勇気が無かっただけ




そう言って、彼女は顔を見せないまま狭い歩幅で前へ進む。



完成日
2007/12/24