05. 覆い、隠し、抱き締める
家はマルクト帝国の由緒正しい貴族である。爵位こそ五位の男爵であるが、その歴史は深く、長い。家柄と血統『だけ』は貴いのだ。しかしその実態はただの貧乏貴族。元々他者と政権を争おうだなんて考えもしない父親は、狭い領地、それもなんの特産物も無い辺境に押しやられても自分の趣味である古文書の解読がはかどってご機嫌だし、五人いる兄妹の中で家を継ぐのは長兄。その他の兄や姉たちはさっさと自分の生きる道を決めてしまっている。
そんな訳で家には現在末娘ののみが家に残されていたのだった。彼女は容姿も人並みで、特別秀でている訳ではない。しかし父親の影響か、本を読むのだけは殊更早く、一度読んだ本の内容の主旨を素早くまとめて言葉にするという実に文官向きの特技を持っている。そんな彼女に皇帝陛下の学友として城に登城するよう申し付けたのは、皇帝の不真面目さを嘆きに嘆いた城の重鎮達で。田舎に引き篭もってとにかくやることのなかったが暇つぶしにいいかと了承を伝えるのにそれほど時間もかからなかった。
かくしては現在マルクト皇帝ピオニー九世陛下の御前で学友というか、家庭教師みたいなことをやっているのだった。
「ですから陛下、お戯れもいいかげんになさって、こちらの書類に判をお願いします」
ため息をつきたい気持ちを飲み下すのは今日だけでもう何度目だろうか。少なくとも十では足りるまい。ずきずきと痛みを訴えてきたこめかみをもみほぐしたいのをこらえて、は書類の束を差し出すが。
「何だよつれないな。もう少しぐらい付き合ってくれてもいいだろう。というか、もっと俺の傍に来い」
マルクト皇帝ピオニー九世陛下はそんな彼女の気持ちなど何処吹く風、執務室のソファに深くおさまり、隣に座るよう催促をしてくる。時刻は昼の休憩を過ぎて一時間ほど。午後のお茶にするにはまだ早いし、何より生真面目なには時間前に休憩を取るなどという考えは微塵も起こらないらしい。いくらピオニーに仕事をするように言っても無駄だとようやく諦めた彼女は、彼がやる気を出した時に少しでも早く事が運ぶよう案件ごとに書類を整理し纏めていく。淡い水色の簡素なドレスの裾が忙しくひらめくのをピオニーが満足そうに、優しげに見つめていたことなど彼女は知らない。忙しそうに立ち回っていると、扉がノックされ、現れたのは皇帝の懐刀の名も覚えが高いジェイド・カーティス大佐。彼は部屋の中で小柄な体で精一杯動き回ると、その姿を片時も離さず見つめているピオニーの姿を認めると、紅い双眸を眼鏡の奥で細めて「おやおや」と小さく呟いた。
「」
あくせくと動き続ける女性に声をかけると、途端に鋭い蒼が横顔に突き刺さったような気分になるが、構わずに話しかける。
「あら大佐。すみません気付きませんでした」
突然耳に届いたピオニー以外の声に吃驚したのか、茶色い瞳を大きく瞬かせては振り返る。視界いっぱいに広がるマルクト軍の青色の制服に、にこやかな笑みを浮かべたジェイドの姿を確認するとようやく彼女もにこりと微笑んで会釈を返す。
「いえいえ。お忙しそうですね」
「ええ、それなりには。陛下がもう少しやる気を出してくださると嬉しいんですけど」
「……だ、そうですよ。陛下?」
「やかましい。俺より先にに声をかけるなんて、失礼なヤツだ」
「それはすみませんでした。何しろ陛下は白昼夢でも見ているかのように陶然となさっていらしたので、うっかりいい気分でいるところにお邪魔をするのも無粋でしょうからに声をかけさせていただいたのですが」
長いセリフをつらつらと舌を噛む事も無く言ってのけるジェイドにピオニーは歯噛みし、は何のことやら判らずに首を傾げる。
「その御様子ですと、私が取りに来た書類もまだ完成していないのでしょうね」
「す、すみません!わたしの力が至らない所為で」
「いえいえ、が謝る事などありませんよ。貴女は充分に働いている」
ため息と共に吐かれたジェイドの言葉には顔を青くして頭を下げる。確か今日の午後までに第三師団に届けなければならない書類があったのだ。朝からピオニーを椅子に縛り付ける事に精一杯になっていてすっかり忘れていたのだが。師団長直々に取りに来てもらうだなんて、畏れ多いもいいところだ。このままじゃ自分の首が飛んでしまうかもしれない。そうしたら家に仕送りもできないし、おんぼろ屋敷の雨漏れの修理費も出せやしない。大体家族の人数に対してあの家は広すぎるのだ。そりゃあ、小さい頃は兄さんも姉さんもいて、父方の祖父母も健在で少し、いやだいぶ狭かったのだが。今では家に残っているのは父親と長兄と、昔から変わらずに世話を焼いてくれるメイドのブランシェぐらいなものだ。そのブランシェもそろそろ年だ。いいかげん、故郷のエンゲーブに帰してあげたい。しかし今ブランシェにいなくなられると、家にいる父親と長兄がひからびる。絶対。父親にそもそも生活能力なんてないし、長兄は家の引継ぎで精一杯で、とてもじゃないが家事なんてやっている暇は無い。だから早く嫁を貰ってくれればいいのだが、こんな家柄だけが取り柄の貧乏を極めた名ばかりの貴族に嫁いできてくれるような奇特な娘はいない。だから長兄は適齢期を過ぎ去ろうとしている最中でも浮いた話一つないのだ。それもこれも、あれもどれも、全部が全部。
「ウチが貧乏な所為……ですよね………」
ジェイドのため息に顔を青くしたかと思えば、考えに耽りその眉間に皺がいくつも刻まれていく。仕舞いにはがっくりと項垂れてしまったをピオニーとジェイドは並んで眺めていた。
「陛下、あまりを苛めてはいけませんよ。彼女は真面目ないい子なんですから」
「おまえの口から『いい子』なんて聞くと鳥肌が立つ。それに俺は苛めてもからかってもふざけてもいないぞ」
「おや。では今現在があんな風に悩んでいる原因は陛下にないとでも?」
「う……いや、それは、だな」
「、。もうそれ以上悩むのはおやめなさい。陛下には今からきっちりと仕事をこなしていただきますから」
尚も考えに耽るを呼び、ピオニーが隣で「うげ」とか声を上げるのを無視してにこやかにジェイドが言うと、はほっとしたように安堵の息を漏らした。
「やっぱり大佐は頼りになります」
自分がいくら言ってもピオニーの政務がはかどる事などない。そのことに対してがジェイドに尊敬の念を抱いていることは周知の事実。その信頼が恋だとか愛だとかに発展する事は今のところないのだろう。だけれども、面白くないのはピオニー本人で。睨みつけてくる深い蒼に内心苦笑しながら、悪戯心の芽生えたジェイドは眼鏡を押さえての傍まで歩み寄る。
「では、私生活でも私に頼ってみませんか?」
「は?」
「・カーティスという名も中々いいとは思うのですが」
どうでしょう?と最後まで彼女に聞く前に、はジェイドの前にいなかった。軍人であるジェイドの目にも一瞬しか映らないほど鮮やかに、ピオニーの腕に攫われてしまったからだ。赤みがかった茶色い、ふわふわとした髪がピオニーの青い衣の隙間からはみ出ている。小柄な女性の体をぎゅうぎゅうと抱きこんだピオニーは、普段の余裕の態度を完璧に崩されて、何だか必死だ。
「ジェイド!おまえどういうつもりだ!?」
「どうもこうも。なら私も奥さんにしてみたい、と思ったことを素直に口にしただけですが?」
「な、な、な!は俺の」
「陛下の御学友であらせられますねぇ。でも陛下が口出しすることではないでしょう?」
「……くっ、ンの野郎、かわいくない………!」
「結構ですよ。陛下にかわいいなどと言われたくありませんので」
「いいか!よく聞け!は俺の」
「陛下、陛下。カッコつけて啖呵切る前に、そのが窒息しそうですよ」
ピオニーがジェイドの言葉に見下ろせば、無意識に力を強めていた所為か、酸欠で顔を真っ赤にしたが酸素を求めてもがもがと皇帝陛下の腕の中、もがいている最中だった。慌てて自分の胸に押さえつけていた彼女の顔を解放すると、は水中から上がった人のように「ぷはっ」と久しぶりに肺に酸素を送り込んでいた。涙目になった茶色い瞳だとか、赤くなったそばかすの残る白い肌だとか。決して美人の部類ではないけれど、彼女の普段からの姿を知っている人物であれば、一様に首を揃えて「可愛いなぁ」と思うであろう、その姿に。ピオニーは又しても感動して、を再び腕に閉じ込めた。
「へ、陛下!?何なんですか、もう、いいかげんに……」
事態をまったく飲み込めていないは、再び近くなった皇帝陛下の御胸を必死に遠ざけようと、腕を突っ張るが、成人男性の力には敵わない。むぎゅーっと音がしそうなほど強く抱きこまれ、耳に近い場所でやけに弾んだ声がする。
「あーもうおまえ本当に!嫁にこい!!一生愛して可愛がってやるぞ!!」
「はぁ!?」
あまりのことに抗議をしようと顔をあげたの頬にあたたかく湿った感触。それが畏れ多くもマルクト帝国皇帝ピオニー九世陛下の唇だと理解するまでに、の思考回路は十分ほど停止した。その後、理解したはいいものの、ピオニーが行った行為が彼女の容量を軽く超えていた為に、彼女が熱を出してばったりと倒れてしまったのは言うまでもない。