06. 帰ってくるまで、起きてるからね




「シリウス?」
夜中、隣で寝ていたはずのあたたかい体温がないことに気付いて起き上がると、珍しく慌てた様子のシリウスが着替えている最中だった。
「どうしたの?」
私の問いに彼は狼狽した様子で「ジェームズが」と、学生時代からの親友の名を口にする。
「何か、あった?」
「いや……まだ確信があるわけじゃない」
その名を耳にした自分の顔が強張ったのが分かった。在学中はレイブンクローに属していた私は直接の面識は無かったのだけれど、卒業後、シリウスとこうして同棲するようになってから何度か会った事がある。黒髪癖っ毛の眼鏡の、ぱっと見冴えない青年と、彼に不釣合いなほど美人でしっかりした奥さんは親しみやすく、彼らはとても仲の良い友人になった。ついこの間、二人の間に生まれた赤ちゃんへのお祝いを届けたばかりだ。
「胸騒ぎ?虫の知らせ?」
言葉を濁すシリウス。だがよほど動揺しているのか、手元が狂ってうまくシャツのボタンをはめられないでいる。私は見かねてベッドから降りると、彼の正面にまわって代わりにシャツのボタンを留めてやる。ちらりと見上げた彼の顔色はやはりよくない。
「大丈夫よ」
何の確信もなく、そう言った私にシリウスはぎこちなく微笑んでみせようとした。
「大丈夫よ、だって、ダンブルドアが魔法をかけて彼らを守っているんでしょう?」
「ああ、そうだな……」
ダンブルドア、その名を聞いてようやく彼の緊張が少しとけた。シャツの皺を伸ばす私の手を取ると、おもむろに唇に寄せてそのまま口付ける。
「シリウス?」
「大丈夫、大丈夫だ」
私に向けてか、自分に向けてか。小さく呟いて指先にキスを落とす。それはとても甘やかで、こんな時でもなければ雰囲気に酔ってしまいそうだった。どうしてこんなに彼が切ない目をするのか。灰色の瞳は不安に駆られながらも静かに凪いだ海のように落ち着いていた。
「シリウス……」
彼の手に捕らわれたままの手とは逆の手を、高い位置にある頬に寄せてそっとつつみこむように撫でる。つい先程まで、額を寄せ合って愛を交わしていた。その名残を惜しむかのように、彼は私の首元へ顔を埋める。

耳元に音で出来た愛を囁き、唇で肌に痕を残す。しかしそれだけでは足りなかったのか、彼は私の首、熱く流れる血潮が感じられる頚動脈へと勢いよく噛み付いた。不安な時に出る、彼の癖だ。かなり痛かったし、ぬるりとした感触が首にあるので血も流れたのだろう。思わず寄せた眉に気付く余裕すらなく、しかし本能的にか、彼のざらりとした舌が傷痕を舐めた。
「……先に、休んでていいから」
私のドレッサーの上には彼が誕生日の度に贈ってくれた香水の可愛らしい壜が並んでいる。赤や黄、青や緑のそれらの繊細なガラス細工に囲まれるように無造作に置かれたままのバイクのキーを渡すと彼はそう言って私の唇にゆるく噛み付いた。今度は血は出ない。ただ甘い痛みのみが痺れるように背筋を這い上がる。
「ううん。起きてるわ」
彼の気遣いに私は小さく首を振って答える。気をつけて、と小さく言えば、彼は灰色の双眸を僅かにやわらかく細めて「行ってくる」と言い、ドアから出て行った。後に残された私は首筋に滲む血をぬぐうわけでもなく、ただぼんやりとベッドに腰掛ける。願わくば、彼の大切な友人が無事でありますように。そしてどうか。シリウスが無事に此処へ帰ってきますように。祈る神をこれまで持たなかった私だが、今夜だけは何かに縋りたい気分だった。

けれど夜が過ぎ、朝がやってきて、私の首の傷痕が赤黒く乾いても、彼は帰って来なかった。



完成日
2006/12/29