あの人は、名前で呼ばれるのを酷く厭がった。
「」
呼べば、ふうわりと。春日にあたためられた花がほころぶように、微笑う。目顔で何か、と問いかけてくる彼女がただただ、あまりにもいとおしすぎて。
「……」
黙ってしまう、そんなリドルに彼女は優しく手をのばす。しっとりと、あたたかな温度でつつみこみ、そうして又、微笑う。ふわり、ふわり、と。たおやかに匂い咲く白百合のように。
「どうかしましたか」
細い首をことり、と傾げてはリドルをまっすぐに見上げた。黒曜石のような、無限の空の向こう側を模したその視線を紅玉の其れが見返すことはなかった。項垂れるように視線を足元に落としたままのリドル。彼の様子がいつもと違うことに気付いた少女は、小鳥の囀りのように心地よい音を唇で紡いで彼の名を呼ぶ。彼が返事をするまで何度も、何度も。
「リドル?」
「………」
「どうしたのですか、リドル?お身体の具合でも悪いのですか?」
心配する声には首を振り、リドルはしかし俯いたまま。
「リド」
ル、と続く声は引き寄せられた腕の中でくぐもった吐息に変わる。
「名前を」
腕の中に細い肢体を抱きこんだまま、自分より低い肩口にかかる黒髪に顔を埋める様にして、かすれた声で彼は言う。
「呼ばれるのが嫌なんだ。僕の名前は僕のものじゃないから。この名は僕の父と、祖父のものだ。僕個人の為のものじゃない」
「リド、ル……」
「君に僕の名を呼んでもらうことはとても嬉しいはずなのに。なのに、どうしてだか、僕は自分の名前が好きになれないんだ」
震えていた。少女を抱き締める腕も、語りかける声も。不安から、恐怖から、絶望から。逃れる術を知らぬ、抗う力すら持たぬ幼子のように無防備な姿で、縋るのは唯一心を許したいとおしい存在の体温。
「もっと、別の名があれば良かった。君が口にするのにふさわしい、もっと別の」
「……リドル」
「」
自らの名を厭う、太古の大魔法使いの末裔は、その代わりだとでも言うように、幾度も重ねていとしい恋人の名を呼ぶ。、とその名を呼べば応えてくれる。そんな当たり前の事が泣けるほどに切なくて。背中に回った細い腕がぎゅっとリドルを抱き締める。
「リドルは、リドルですわ」
少しだけ背伸びをして。彼の耳元に優しく囁く。
「わたくしにとって大切な、何よりもいとおしい、“リドル”は貴方一人しかおりませんわ」
だからどうか、泣かないでくださいな。
「……」
「はい、リドル。わたくしはここにおりますわ」
「、っ」
「はい」
呼べば、返してくれる。あたたかい陽だまりのような笑顔と、優しい体温を。吐き出した弱音を嗤うことなくただ微笑んで包み込んでくれる。そんな風に誰かに接してもらったことなど今まで経験したことがなかった。愛してもらえるだなんて、儚い望みだと諦めていた。そして何より、誰かを愛することなど、考えもしなかった。狂いそうなほどにリドルは愛情に飢えていた。誰かに愛されたくとも、誰かを愛したくとも。その方法が彼には判らなかった。
「大好きだよ、。愛してる。君以上に大切なものなんていらないよ。ずっとずっと、僕の傍にいて」
リドルの言葉には僅かに眉を下げ、壊れそうなほどに美しい微笑で応える。干乾び、ひび割れた大地にしみ込む雨のように。乾いたリドルを慈しんでくれる彼女が、いつまでも傍近くにあって欲しいと、そう願っては言いようの無い不安に駆られる。それは永遠を口にする度に彼女が曖昧に微笑むからだろう。
09. 自覚する前に狂いそうだった
『永遠』を望んだのは、彼女自身だった筈なのに。