君にあげる。
10. 幼い秘め事、危うい二人
「あたし、ロックオンがいなきゃ生きていけないかも」
唐突に呟いた彼女の聲ははっきりと耳に届いてしまった。
「……それはまた、光栄なことで」
「茶化さないで」
ぱちくりと、たっぷり間を空けた後の答えに彼女はすぐに噛み付いてきた。ベッドの上、枕を抱えて。黒髪はまっすぐに、重力に逆らわずに肩に落ちかかっている。ここ数ヶ月ですっかり伸びてしまった長い前髪の下から睨むようにロックオンにきつく視線を据えて、は枕を抱える腕に力を込めた。
「だって実際そうでしょ。あの時ロックオンがいなかったらあたし生きてない。あのままあそこで死んでいたか、生きてても碌な目にあってない」
突然引っ張られるようにしてこの時代に現れた。よりにもよって戦場に。運が良かったのは、彼に出会えたから。その性格故に貧乏くじを引きまくっているロックオン。しかしは彼の底なしのお人好しさに救われたと言っても過言ではない。例えばこれがアレルヤならば同じように助けてくれただろうが、ティエリアだったら、確実に見捨てられている。刹那は、ちょっとどうだろうか。精神的に未熟で幼い部分のあるあの少年は、未だに掴みきれない。
「ロックオンに会えて良かったよ」
ぎゅっと、枕を強く抱きしめて言う。死んでしまったら、終わりだ。喩え生きていても、地獄のような目に遭うのは耐えられない。だっては今まで何一つ命の危険に晒されるような生活をしていなかった。戦争なんて、遠い国の出来事で、それは確かに存在していたけれどリアルな現実ではなかった。
「……ホントに、よかった」
「?」
ぽつん、と。小さく呟く彼女の声にロックオンは訝しげに俯く小さな頭を見つめる。
「だからね、ロックオン」
あげる。
「なんだ?」
唇の動きだけで伝えられた言葉。読みきれずにロックオンはベッドに乗って、の顔を覗き込む。そんな彼に少しだけ躊躇して、それでもその細い両腕を廻して首に抱きつき、は耳元で同じ言葉を繰り返し囁く。
「あげる。あたしを」
だってあたしにはあげられるものが何もない。この命しか、持っていない。
「何言って」
「ちゃんと聞いて」
驚いて身を離そうとするロックオンをしっかりと捕まえたまま、続ける。
「ロックオンに助けてもらった命だよ。感謝してる。ありがとう。だからね、あげる。あたしをあげる」
「、ちょっと待て。それは一体どういう意味だ」
「意味なんて、ないよ。言葉の通りに取ってくれたらいい。あなたが拾った命、あなたがいらなくなったらすぐに捨ててもいい」
捨ててもいい。いらなくなったらすぐにでも、見捨てても構わない。元々イレギュラーな存在なのだ。いなくなったら、それが正常な状態だ。
「本気で言ってるのか」
怒気を孕んだ声がする。いつの間にか背に回された彼の腕がきつくの華奢な身体を締め付ける。ああ、怒ってる。当然だ。怒らせるようなことを言っているのだから。
「嘘なんてつかないよ。あなたには」
優しいあなた。その優しさでいつか身を滅ぼしてしまわないように。予想できるあらゆる障害は排除するべきなのだ。そしてその最たるものが、自分の存在だった。ただそれだけのこと。戦場で無力な者は死ぬしかない。身を守る術を持たないのなら、それは罪だ。弱いのは罪なのだ。
「どうしちまったんだ。おかしいぞ。誰かに何か言われたのか?ティエリアか?」
動揺しているのか、僅かに震えるロックオンの声には小さくかぶりを振って否定する。
「スメラギさんが。覚悟はある?って」
「あの人が……!」
覚悟。そう言われて真っ先に浮かんだのがロックオンの事だった。この先戦闘はさらに激しくなっていくだろう。ガンダムマイスターである彼らは、ぎりぎりの線で命の遣り取りをしなくてはならない。心の中にほんの少しでも迷いがあれば、即座に死へと繋がる。予想できるあらゆる可能性は、排除するべきなのだ。それが喩え自分の命であっても。
「覚悟、ってそんなものないけど、でも」
「、それ以上言うな」
懇願するように縋り付いて来る彼の背を優しく撫でる。腕の力はますます強くなり、息が詰まりそうだ。
「聞いて」
「いやだ」
「ロックオンが死ぬ、って考えたら怖かった。すごくすごく怖かった。それがもし、あたしの所為だったら、そんなの耐えられないよ」
だからその時が来たら。迷わずあたしを捨てて欲しい。あたしを見捨てて、そして生きて欲しい。
「我儘だって判ってる。自分がどれだけ残酷なこと言ってるか、ちゃんと知ってるつもり」
「!!」
「聞いて!」
お互い絞り出す声はもう悲鳴になっていた。ベッドの上、固く抱き合いながらどうしてこんなことを言い合っているのだろう。可笑しいな。ねえ、ロックオン可笑しいよね。何処で間違っちゃったんだろう。あたしがここにいることは、それは運命なんて重そうな、でも薄っぺらい言葉なんかじゃ片付けられないよ。
「ロックオンが、自分の命とあたしの命を天秤にかける時がきたら。その時がきたら迷わないでって言ってるの」
泣き声の混じった声は聞き苦しい。ロックオンみたいに耳に心地良い声ならよかったのに。涙で頬が濡れて、それでも生きているからすぐに乾いて肌ががさつく。そう。まだあたしは生きている。今言っているのは、先の事だ。それはもしかしたらずっとずっと未来かもしれないし、明日かもしれないけれど。
「でもね、だからね。その時が来るまでは」
我儘だ。あたしは人生で最大の我儘を彼に言おうとしている。何て酷い女だろう。彼にはこれ以上、背負うものを増やして欲しくないのに。
「傍にいても、いい?」
一番言いたいことなのに、涙でくぐもった声は一番情けなかった。拒絶されたら、どうしようか。ロックオンがいないとこの世界で生きていく事なんてできやしないのに。返事は、いつまで経ってもなかった。代わりにを抱く腕がするりと解ける。ああ、駄目だったかな。諦め混じりに再び溢れた涙を零そうとした、その瞬間。
「……っん」
唇に伝い落ちていた涙の雫ごと、吐息を奪われていた。深く貪るように、幾度も角度を変えて繰り返されるその行為に、酸素が不足し始めた思考は上手く回らない。
「俺が」
お互いが離れる寸暇を惜しむように交わされ続ける口付けのその僅かな合間に彼は言う。
「を見捨てると思うのか?」
「んんっ」
応えようにも、主導権を彼に奪われたまま言葉を紡ぐのは容易ではない。一度離れた彼の腕は、再びを固く抱きしめ離さない。片腕は後頭部にあって、身動きすら取れない。
「そんなに信用ないのか?」
息苦しくなって、それを彼に訴えようと両腕を突っ張るけれど無視された。全てを奪うようなくちづけが、ロックオンが怒っている事を如実に伝えてくる。
「俺は死なない。も見捨てない。だから、そんなに哀しいこと言うな」
「ロック、オ……ン」
ようよう搾り出した彼の名を、ロックオンは子供のように喜んで受け止める。ああ、何て残酷なことをあたしはしたのだろう。仲間内でも年嵩で、みんなの纏め役としていらぬ苦労を強いられている彼だけれども。考えてみればまだ若い、ついこの間までほんの少年だったはずなのだ。それなのに、あたしは彼を傷つけた。
「……ごめ、なさい……」
謝れば、彼はほっとしたように力を抜いてに凭れかかってきた。その体重を支えきれるわけも無く、そのまま二人、ベッドに沈み込む。
「次は許さないぞ。二度と言わないでくれ」
「うん……」
「を俺にくれるっていうんなら、勝手にいなくなるなんて、許さないからな」
「……………うん」
また、涙が溢れてくる。一番怖かったのは、存在を否定されること。否定されてしまったら、本当に生きている意味が分からなくなる。かつて平穏な暮らしの中では考えもしなかった、存在意義、生きる意味、目的。何も持たなくても毎日は過ぎていった。けれどここでは違う。己の中に確固たる信念がなければ生き延びる事すら許されない。必死になって見つけた、それがロックオン。彼の存在。
「眠いな。なあ、寝ちまおうか」
に覆いかぶさったまま、耳元で囁く。その声は何処か疲れていた。彼の癖の強い髪を優しく撫でながらも頷く。
「うん、おやすみロックオン」
「おやすみ、……」
寝息を立て始めたロックオンの広い背中に腕を伸ばす。
「ごめんね」
眠る彼にもう一度謝って、胸に茶色い髪の頭を抱える。僅かに身じろいだロックオンが、その言葉を聞いていたことに気付いたけれど。何も言わずに瞳を閉じた。眠ってしまいたかったのだ。今は、もう。何も考えたくなかったから。
完成日
2007/12/01