遥か北の大地を踏みしめて、男は晴れやかに笑う。
「進むさ。でなきゃ勝っちゃんに……アイツに怒られちまう」




11. 空が怖くても花が枯れても、

僕は歩き続けるだろう




先の戦闘で足の指を負傷した土方は不本意ながら今現在療養中だ。ここ数日は傷に良いというので湯治に来ている。この地が東山温泉という名だということは、すっかり土方の女房役におさまってしまっている島田魁に聞いた。療養中、というのはとかくやることがない。傷に障るからと派手に動く事はできないし、山奥なので誰も訪ねて来ない。もっとも、この会津の地まで旧知の間柄の人物が訪ねて来るなどということはないだろう、と。思い至って土方は口の端を僅かに歪める。浮かぶ微笑は自らへの嘲りを僅かに含んでいた。
「副長!」
どかどかとやかましくやって来たのは島田。秋に色付く庭の木々をぼんやり眺めながら久々に句でも捻ろうかと考えていた土方は、その無遠慮な足音に思考を邪魔された。だから多少不機嫌に襖の向こうで頭を垂れる島田に返事をする。
「俺ぁもう『副長』じゃねえよ」
そう、彼はもう副長などという猛々しい肩書きを持つ必要がない。新選組は。京の都で近藤勇と共に創り上げた、最強の剣客集団は、既にない。いや、あると言えばまだある。土方を慕って会津までついてやって来ている者達は確かにまだ存在するのだから。しかし土方の中にはもう、それは過去のことだ。彼にとっての新選組は、近藤がいてこそ、のモノ。誰よりもその器に憧れ、嫉妬し、敵わないからこそ肩を並べようと必死に努力を積み重ね、そうして近藤の望むままに動く手足となる新選組を創った。全て近藤の為。その為になら土方は生来の気性を曲げて鬼になることすらも厭わなかった。だが近藤は今、土方の隣にいない。
「そんな事はどうでもいいんでさあ。あの、医者が来ているんですが」
「松本殿がか?そういや今日は来る日だったな」
都にいた頃から懇意にしている医者は、幕府に味方している為、この会津へもやって来ている。土方の足の傷を診て強制的に療養を取らせたのも彼だ。通常なら突っぱねる言も、松本が相手では大人しく従うしかない。
「それが良順先生じゃなくてですね」
やけに慌てた様子で島田は続ける。しきりに背後を気にしており、視線はそちらへ彷徨うし、大柄な彼に不釣合いなほど態度が萎縮している。
「都合でも悪くなったのか?」
それで別の医者でも来たのだろうか。それでは何故島田がこのように慌てる必要があるのだろうか。首を傾げる土方の、耳に入ったのは、
「松本殿は市井へ出ておられるよ」
想定外の高く澄んだ声。口調は力強いが、声音は間違いなく女のもの。
「だから私が代わりに来た。何か不都合でもあるのか?」
堂々とした様で現れたのは、濃二藍の着物を纏った若い女、だった。袴を穿いている格好だけを見れば男にも見えなくはない。すらりと伸びた肢体は女性にしては背が高い。綺麗に整った顔立ちは甘くやわらかな表情を浮かべるどころか、切れ長の二重の双眸は並の男ならば怯んでしまうほどに強い光を宿している。唯一女性らしいと言える部分はその髪、だろうか。鴉の濡れ羽色のように黒々と艶やかな髪は、しかし結い上げるどころか無造作に背で一本に纏められているのみ。簪どころか結い紐も色褪せた物を使っている始末。だが間違いなく彼女は女だった。着物の裾や襟から覗く、手足や首筋が細く、白い。
「……おい、島田。こいつは医者なのか」
「失礼な患者だな。私は間違いなく医者だ。松本殿に頼まれて態々ここまでやって来たのだぞ」
未だに信じきれずにいる土方を余所に、彼女は勝手に部屋に入って許しも得ずに持参の道具を広げる。
「おい!」
「何だ。早く傷を診せろ」
尊大な態度に元来負けず嫌いな性質のある土方はかっと頬を染める。しかし足を負傷している今、一度座してしまえば素早く立ち上がることも出来ない。そんな彼に構うことなく、さっさと傷口を丹念に調べ始めた女。土方は部屋の入り口におろおろとしたまま立ち尽くしている島田に鋭く一瞥を向けた。
「いや、あの、良順先生の紹介だそうで。ええと、名は確か……」
、だ」
島田の言葉に自分の名を続けると、は黙々と土方の傷の手当を続ける。膿を吸った包帯を丁寧に取り去り、傷の回復具合を診て、患部を消毒してから新たに傷薬を塗ってゆく。
「そう!先生っていうんです。城下では中々の人気で、姫先生って言われてて」
「ちょっと待て!何だって女が医者なんてやってやがる!?」
目の前でその手際の良さを見せ付けられても未だ納得しない土方に島田の眉が八の字に下がってゆく。
「私は医者だ。信じられないというのなら、それでもいい。松本殿に頼まれて今日からおまえは私が診ることになっている。ではな、また明日来る」
話の最後は土方ではなく未だに入り口に立っていた島田にそう告げて、彼女はさっさと部屋を出て行った。後に残された島田は一瞬土方の表情を窺うようにちらりと見たが、「姫先生!待ってくだせえ!お見送りを!」と、慌ててを追いかけていった。一方部屋に残された土方は、足先に巻かれた真新しい白い包帯を見下ろして束の間呆然と遠ざかっていく島田の立てる喧しい騒音を聞いていたのだった。

「おい」
「何だ」
次の日もはやってきて土方の傷を診る。淡々と仕事だけをこなしていくに声をかける土方は今日も不機嫌そうだ。
「松本殿から伺った」
昨日が帰った後、医師である松本が訪ねてきた。その際に色々と彼女に関することを土方は聞いた。女だてらに医者などをやっている理由。
が幼い頃から儂は知っておるが、あれの父親が変わり者でな。自分の得た知識全てを子に譲ると言って聞かんかったらしい。子供は一人であれは女だ。周りは散々止めたらしいが結局は娘のが継ぐことで落ち着いたというわけだ。父親は変わり者だが腕だけはいい医者でな。会津の殿様もその辺を考えての決断だろう」
顎を撫でさすりながら言った松本の言葉に土方は驚き、そして素直に感嘆した。医者という職業が生半可な知識と努力では成り得ないことを知っているからだ。
「疑って、悪かった」
言いにくそうに告げられたその言葉には初めて顔を上げ、照れてそっぽを向いている土方の横顔をまじまじと眺める。不躾なまでに向けられる視線に耐えられなくなった土方が、場を取り直すようにわざと大きく咳をした。
「私が医者だと認めたわけか」
「……ああ」
「そうか」
それだけを聞いて、はあっさりと仕事に戻った。手際よく包帯を巻いて、処置を終える。さやさやと風が木々を揺らす音だけが、その場を支配した。女というモノは口喧しい生き物だとばかり思っていた土方にとって、は不思議な存在だった。男ですら難しい仕事をこなし、余計な事は一切喋らない。
「おまえ、恋とかしねえのか」
だから何故、そんなことを聞いてしまったのか。土方は自分で自分が分からない。はそんな土方をやはり無言で見つめる。
「こんな仕事してちゃあ、普通に嫁ぐとかできねえだろう」
普通の女としての幸せなど、望めないだろうに。
「できないだろうな」
返された言葉は、しかし少しも残念がるような素振も見えない。
「いいのか。それで。おまえぐらいの年なら子供の一人や二人、いてもおかしくねえだろうに」
「確かにな。だがそれも仕方のないことだ」
「随分と悟った口きくじゃねえか」
「女である前に私は医者だ。それ以外の生き方を知らない」
決然と言った言葉は強く響く。そこに己の境遇を憂える思いも、ましてや不幸だと思う気持ちは微塵もない。土方の方を向いていた視線を外し、開け放したままだった縁側から外の風景を眺める。此処は山に近い。会津の秋をその瞳に映し、はゆっくりと空を見上げる。
「それに、私の手で助かる命があるのなら、何よりだろう」
風が吹いて、彼女の黒髪を揺らす。無造作に纏められただけの長い髪。だが土方はそこにに対する『女』をみた気がした。無意識に伸ばした指先がその先に触れる。するすると手に馴染むその感触。彼女の仕事を思えば、邪魔なものでしかないはずの、其れ。結い方こそ簡素だが、丁寧に伸ばされた鴉の濡れ羽色をした見事な髪、それこそが彼女が己に許した唯一つの女の部分だ、と。
「すごいな、おまえは」
思わず、といった感じで口から飛び出た賛辞は、しかし子供のように幼稚な言葉だった。口にした本人が顔を羞恥で赤らめるほどに。しかし彼女は、
「………ありがとう」
微笑んだ。真正面でそれを目にした土方が、少年が初めて恋をした時のように瞬時に頬を熱くさせるのだが、その頃にはの視線は再び会津の山々へ戻ってしまっていた。そのことに幾分かほっとしながら、しかし悔しいと思う気持ちも確かに心のどこかに存在する土方もまた、彼女に倣って秋空の蒼さを目に映す。見上げる空は馬鹿みたいに高い。澄んだ空気は心地良い。ここに在るのは、彼女と、自分と二人きりで。こんな時でなければ、もっとゆっくり話してみたいと、そう思わせるには充分なほどの条件が揃っていた。

「土方さん、土方さん!ああ、こんな所にいらしたんですかい」
自分を呼びに来た島田の声に、土方はゆっくりと振り返る。
「どうした」
「どうもこうも、もうお偉い方さんはお揃いですよ。早くしねえと怒られちまいますぜ」
「すまねぇ。あまりに空が晴れてやがるから」
土方の言葉に島田は束の間、大柄な彼の体躯に不似合いなほど、可愛らしい仕草できょとんと眼をしばたかせる。しばらくして土方の言った言葉を理解したのか、同じように空を見上げて、嬉しそうに笑った。
「ああ、本当だ。いい天気です」
「行くぞ島田」
「ああ、待ってくだせえよ」
あの日から、立ち止まりそうになる度に彼女を思い出していた。我武者羅に進む内に、いつしかこんな北の果てまで来てしまったが、後悔はしていない。海から吹く頬を撫でる風は冷たい。足元は白い雪で覆われている。冬の晴れ間の空は透けるように薄い青だ。あの日見た空と同じはずなのに、全く違う。けれども自分はあの日、ひそやかに彼女に誓ったのだ。
「進むさ。でなきゃ勝っちゃんに……アイツに怒られちまう」
例えその先にあるものが、死を意味するものだとしても。最後のその瞬間まで、生きるのだ。


完成日
2008/04/05