12. 深海の月と優しい謡唄い




「おはよう。いや、こんばんは、かな?」
掛けられた声に驚いて、振り返った先には黒い着物姿の、ということは恐らく十中八九『死神』な人。目をまん丸にして驚く胡桃色の髪の少女に、美麗な死神は桔梗色の目を細めて笑った。
「君の知っている子に俺と同じ格好の子がいるだろう?」
それは“どっち”をさしているんだろう?井上織姫は信じられないぐらいに完璧な美を備えた目の前の死神を見上げながらそう思った。細身で、色白で。纏う色彩は髪と着物の黒、そして瞳の桔梗色のみ。男の人にしては(きっと男の人だ!と確信する彼女はこういうことで勘を外してことはない)細い喉が響かせる聲は心地良く耳を震わせる。
「ああ、いきなりすぎて分かんないか。ごめんな、変な時間にお邪魔して」
驚きすぎて口がきけない織姫に死神は困ったように眉を下げた。確かに今は夜明け前で。時間で言ったら新聞配達の人が働きだすよりも前だ。いくら夏の夜明けが早いといっても、東の空が少し白んでいるだけで、暗闇が占める割合の方が断然多い。そんな時間にいきなり開け放したままだった窓の枠に腰かけて、美人な死神が微笑んでいたら誰だって吃驚するだろう。
「えっと、俺はっていうんだ。君の名前は?」
「井上……織姫、です」
「織姫?可愛い名前だな」
今まで見た誰よりも美人な彼にそう言われて、普段から友人達に散々感覚がおかしいと言われ続けている織姫もさすがに頬を赤らめる。純粋に、下心なく誉められたということは分かるのだけれど、面と向かって言われるとどうにもこそばゆいものがある。「きっとたつきちゃんがいたら三回転半回って地面を抉りながら壁に穴をあけちゃうんだろうな」とその恥ずかしさの度合いを親友の少女の暴走具合に例えてみるけれど、その基準は織姫自身にしか計れない。
「そういえば俺が何者か言ってなかったよな」
はふと思い出したように一人呟くが、次に彼が口を開くより先に織姫は彼の正体を当ててみせた。
「知ってます。死神さんでしょう?黒崎くんや朽木さんと同じ」
織姫の言葉には少しだけ目を丸くしてみせた。それから口の端に笑みを浮かべる。
「黒崎くん、っていうのが誰だか知らないけど、確かに俺は死神だ。よく知ってるね織姫ちゃん」
名を。彼の声に名を呼ばれて織姫は瞠目する。その聲は、その言い方は。まるでかつて誰よりも慕っていた彼女の兄の言い方にそっくりだったから。急速に記憶は過去へと遡り、楽しかった、嬉しかった思い出、そうして喪った辛い辛い過去までをも眼前に引きずり出してくる。
「織姫ちゃん?」
優しい桔梗色の持ち主にそう呼ばれ、それがあまりにも記憶の中の彼の人と重なるから。自分の意識とは関係なく両目から零れ落ちた雫に気付かなかった。織姫が涙するのを本人よりも早くに気付いたのはで。彼は突然泣き出した少女に吃驚して、わたわたと懐をさぐると、隅に花の刺繍の入った白いハンカチを取り出す。そっと窓枠から降りると、彼女の前にゆっくりと跪き、ハンカチを差し出す。
「ご、ごめんなさい。いきなり泣いたりなんかして!」
「いや、いいよ。泣けるときに泣いたらいいよ。子供の特権だろう?」
受け取ったハンカチで涙と、ついでに鼻水も拭いた織姫に嫌な顔一つせず。逆にあたたかく大きな掌で髪を撫でてくれる
「それに。泣いてる時に誰かに慰めてもらえちゃうのは可愛い子の特権」
ふざけた様に言ってくれるのは、多分この人の気遣いなんだろう。訳も無く泣き出した自分へ理由を聞くことなくただ慰めてくれる。よく知りもしない相手だというのに。
「あの、そういえば何か用があったんじゃ」
心なしか赤くなった目で見上げる織姫に、彼は「うーん」と一度唸る。ぱちぱちと大きな瞳を瞬かせて見上げてくる人間の少女にかつての同居人の幼い頃を重ねてしまい、がしがしと細い黒髪を乱暴にかき回す。
「あのさ、ルキアちゃんのこと知ってるだろ?」
「え、はい」
唐突に出た、最近クラスに新しく加わった小柄な少女の話に困惑しながらも頷く織姫。
「えーっと、その、ルキアちゃんさ……」
「朽木さんがどうかしたんですか?」
多分、この人は彼女と親しいのだろう。下の名前で呼ぶ、その声には明らかに心配の情がこもっていて。
「いや、連絡ないからどうしてるかな、って」
「げ、元気ですよ!朽木さんは明るくって美人で優しくて!」
「元気なんだ?……良かった」
吐息と共に音になった言葉は安堵していた。この人を安心させたい。出会ったばかりだというのに、織姫の思考を占めるのは目の前で小さく微笑む死神の青年のことばかりだ。言葉だけでその憂いを祓えるのなら。
「えっと、今日も一緒にお昼ご飯食べて、朽木さんは黒崎くんをお友達って言って、二対一ならあたし達勝てたのに!って話をしててたつきちゃんに怒られて、でも朽木さん笑ってて」
何度でも言おう。それでこの人が笑うのなら。拙い言葉しか出てこない。それでもは黙って聞いてくれる。
「織姫ちゃん、にとってルキアちゃんは、何?」
「あたしにとっての朽木さん?」
「そう」
投げかけられた問いにしばし考え込む。優しい顔のまま、見守ってくれている。やがて出した答えは。
「朽木さんは友達だよ!」
の表情を一気に破顔させたのだった。それはそれまでの微笑とはまったく印象の違うものだった。幼くすら見える笑顔に、心の奥底からじんわりとあたたかいものが沁みだすような感覚を覚える。
「そっか。友達かあ」
まるで自分のことのように喜ぶに、織姫の頬が熱く火照る。いつの間にか窓の外も、織姫の頬のように薔薇色に染まっていた。朝陽が昇る寸前、空は新しい一日の始まりを美しい色で彩っている。
「ありがとう。織姫ちゃんみたいないい子がルキアちゃんの友達でよかった」
「い、いいえどういたしまして?」
思わず返す織姫に再び笑って、は西の空を見上げる。曙が迫る中、空の端に頼りなく光る細い月ひとつ。猫の爪のように細いそれを見て「そろそろ時間だ」と呟いた。
「行っちゃうんですか?」
「うん。ごめんな、お邪魔しちゃって」
「朽木さんには会っていかないんですか?」
「……うん。通りすがりにルキアちゃんの霊子の残滓が気になって、織姫ちゃんを見つけたんだ。本当は会うつもりだったんだけど。でもいいや。ルキアちゃん、元気だっていうし」
「あたしがいっぱい喋ってた所為で時間がなくなっちゃったんですか!?」
「そんなことないない!話が聞けてよかったよ。ありがとう」
にこり、と人懐っこく笑うは、どこか幼くて。自分の所為で彼が朽木ルキアと会えなくなったのでは、と大慌てで腕を振り回して暴れる織姫をやわらかく制止する。「じゃあ」と軽く手を挙げ、片足を窓枠に乗せ、そうして振り返ったの瞳は深い深い海のようだった。花の色のみならず、海のように静かに凪いだ双眸をひたり、と据えられて、織姫の背が思わずぴんと伸びる。
「……できれば、織姫ちゃんはこっちに来ない方がいいよ」
、さん?」
何を言っているのか、聞き返そうとした隙には窓枠を踏み越えていた。慌てて窓近くまで駆け寄るが、漆黒の闇に溶ける彼の着物はすでに朝焼けの金色の光の中のどこにもいなかった。