怖い夢をみた。とてもこわい、夢。目覚めれば泣いていたことに気付いた。そんな時に限って、傍に誰もいない。
「……あ……」
足元がふらつく。目の前が真っ暗になる。声をあげて泣きたいのに、悲鳴は喉の奥でぐしゃぐしゃに絡まるばかり。
「いや……いや……」
か細い声。こんな聲ではあの人に聞こえない。それでも今のにはそれが精一杯で。
「……す、けて」
暗闇に手を伸ばす。そこにある存在を掴むように。けれど幼い指先は残酷に空を切るばかり。渇望する、彼女の唯一にして絶対の、
「そ……す、け」
名を呼ぶ。呼べば彼は応えてくれるから。いつだって、どこに居たって、の声に応えてくれた。なのに今はどうだ。広いばかりの部屋に一人きり。陽は射さず、ただ常世の闇が果てしなく広がり、それはじわりじわりと侵食を進める。このままでは闇に呑まれてしまう。そうなってしまえば、もう二度と逢えない気がした。直感で、そう思った。
「……っ!」
しかし非力な己には何も出来ない。ただぎゅっと自身を抱きしめて、固く目を瞑り、助けを待つ他に術を知らない。こんな時に思い出すのは忌々しい過去の片鱗ばかり。
「……」
酷い環境に居たのだと、知らされたのはここに来てから。どういう経緯で自分があの場所にいたのか、知らないし、知りたくもない。痛めつけられるのは日常。身体も、心も、あの場所では死んでいた。生ある状態ではとてもじゃないがやり過ごせないほどの苦痛と共にあったのだ。伸ばされる手は拒まなければならなかった。かけられる声には耳を塞がなければならなかった。向けられる視線には敵意を返さなければならなかった。
「………いた、い」
痛みを痛みとして受け取るようになったのも、此処に来てから。死んでいた心を呼び戻すのは容易ではなかった。自分に関わる全てが敵だと認識していた。暴れて物を壊すのは日常茶飯事で。壊すのは物だけではなく、自らの身体すら含まれていて。幼い少女の身体に無数の傷が刻まれていく様を、黒鳶の双眸が痛ましげに見ていた。その色に、怯えなくなったのはいつからだろう。絹の布団にくるまれて、夜を安らかに大きなあたたかい腕の中で眠れるようになったのは、いつから?
「やだ。やだよぅ……」
両の目から零れる涙。翡翠の色をしたその瞳をあの人は美しいと言って褒めてくれた。枕の上から落ちてさらに畳にまで散らばる栗色の髪。あの人が伸ばすといいと言ったから、伸ばしている。今、の存在は全て彼の為に在る。誰に言われた訳でもない。が、傍に居ることを望んだのだ。
「泣いてるんと違います?お姫様」
「ああ、そうだろうね」
市丸の問いに藍染は泰然と答える。その様子には少しも慌てた素振もない。久々の休みに上司の自宅を訪問した市丸は、彼が自室で仕事をしている傍ら、部屋の中の物を好き勝手に物色して過ごしていた。そうしていくらか時が過ぎた頃、ふと思いついてこの屋敷に半年ほど前から匿われている少女の存在を思い出し、気まぐれに尋ねてみたのだ。
「自室に一人で寝かせているよ」
訊けばそんな答えが返ってきて、市丸は少しだけ驚いた。あれほど片時も自分の傍から離そうとしなかったその少女を。仕事中でも絶えずその存在を気にかけていたにも関わらず、広いとはいえ同じ屋敷内にいる今、別々の部屋にいるとは。
「昨夜から熱を出していてね。今朝もまだ本調子ではないから大人しくさせているんだ」
「いっつも大人しい子やないですか。邪魔になるとは思えへんけど」
「市丸、僕はね。一か全か、選ぶなら全てを手にしないと気がすまない性質なんだよ」
筆を置き、卓の上で組み合わせた両手に顎を乗せ、藍染は部下に告げる。眼鏡の奥の黒鳶がゆっくりと細められ、少女に見せている温和な優しさが全て消え去った冷たい表情になる。
「中途半端な信頼なんていらない。欲しいのは揺らぐ隙がないほどの依存だ。一つだけで満足できるほど僕は心が広くはないし、全てを掌握したいと願うのは傲慢だが、人の性というものだろう?」
「はあ、まあ、そうですかね」
藍染の言葉に曖昧な返事を返す市丸。部下の反応に藍染は冷えた表情のまま口元にだけ笑みを浮かべた。
「ギン、私を裏切ろうだなどという愚かな選択をおまえがしないことを祈っているよ」
口調こそ穏やかだが、ぞっとするほど心の篭らない声音で告げられ流石の市丸も引き攣った表情でようよう頷いて返すしかない。その様子に今度は満足したのか、藍染はさらりと衣擦れの音をさせて立ち上がる。
「さて、僕はの許へ行くよ。いつまでも泣かせたままでは可哀想だからね」
「……ごゆっくり〜」
「ああ、ギン。帰るときには散らかしたものを片付けていっておくれよ」
部屋を出る前に先程までの冷たい表情を何事もなかったかのように消し去って、日常で周囲に見せている人の良さそうな藍染隊長の顔をして言う。その豹変ぶりに市丸は改めて自身の上官の末恐ろしさを目の当たりにした。
「ほんまにおっかないなぁ。ちゃんも可哀想に。あんな人に好かれてしもうたらもう他所へはゆかれへんね」
泣きながら、いつの間にか眠ってしまったらしい。少しだけ腫れた瞼が容易に持ち上がらない。頬には乾いた涙の痕。それを誰かが慈しむように指で辿っている。にこんなことをするのは、たった一人、
「おはよう、」
「……惣右介」
そう、彼以外に有り得ない。彼が自分以外の例外を許すはずがない。あたたかな大きな手で、小さな少女の顔をゆっくりと包み込むようにして、枕元に座する藍染は上半身をゆっくりと傾ける。翡翠の色が涙で潤むその様を見て、愉悦に浸りそうになる内面を事も無げに取り繕い、彼は優しい庇護者の顔を造る。
「泣いていたのかい?怖い夢でも見たのかな」
「惣右介!」
幼子は求めてやまなかったその存在を離すまいと小さな両腕を伸ばし、首に抱きつく。
「ああ、よほど怖かったのだね。来るのが遅くなってすまない」
再び泣き始めたをあやすように優しく背を撫でながら、藍染はもう大丈夫だよ、と何度も告げる。
「もう大丈夫、だから」
14. ひとりで目を瞑らないで
しがみつく幼子の小さな身体を抱きとめながら、ゆっくりと微笑む彼の表情はとても満ち足りていた。
完成日
2008/06/08