15. ぐるり巡った想いの末路は、




という女性は、落ちぶれた男爵家の末娘で、赤みの強い茶色い髪と、そばかすの浮かんだ白い肌と、茶色い瞳の平凡な容姿をしている。はっきり言ってなぜこのような女性が皇帝陛下の学友なのだろうか、とマルクト帝国の重鎮達は首を傾げたものだった。彼女の家は貧乏子沢山を地でいっているようなものだし、古文書解読を至福としているようなまるで生活能力のない父親の所為で、彼女の兄や姉達は早々に独立を余儀なくされ、年の離れた末っ子のは長兄と父親とともに痩せた土地に押し込められていたと聞く。彼女が宮廷にやってきたとき、妬み羨んだ貴族の令嬢たちはこぞって田舎臭いの出で立ちを馬鹿にした。しかしはあっさりと「わたしは陛下のお役に立つ為にここに来たんです。着飾ることに意味はありません」とつんと顎を上げて言ってのけた。事実、彼女がやってきてからピオニーの政務の効率が格段に上がり、定時に家に帰れるようになった官吏達は喜んでに感謝した。宮廷で働く使用人達も、飾らない素直な性格のにすぐに好感を持ち、今では色々あれやこれやと世話を焼いたり気にかけたり。本音と建前がぐるりと180度ほど違う貴族の言葉と違っての口から紡がれる言葉はいつだって真剣で、彼女そのままを表していた。だからピオニーも彼女を気に入った。

「俺はを后に迎えるぞ」
朝の会議の場で皇帝陛下がそう言ったのに、驚いたり取り乱したりするほど浅い経験しか持ち合わせていない若輩者はいなかった。ただしその代わりに皆一様に呆れた顔をしたり、ため息をつきそうになって慌てて飲み込んだりしたが。
「陛下、何度も申し上げているようですがそれは無理です」
古参の重鎮である老マグガヴァンがやれやれと首をふりながら言う。彼は引退して息子に跡を継がせているのだが、時折こうして首都に赴いて政治の場に口を出しに来る事がある。それを口うるさい爺だと、眉を顰めるような貴族ではこの国では出世できない。そんな老マグガヴァンの言葉に玉座に座ったピオニーはむっと眉根を寄せる。
「何故だ」
「陛下。この問いかけは儂がグランコクマにおる間だけでもすでに三十六回も繰り返されたはずですが」
「一々数えていたのか」
「年寄りは呆けないためにも何でもメモを取る習慣をつけとりますのでな」
褐色の肌に金色の髪を持つ、偉大なる皇帝は眉間の谷を深く深く刻む。険しい顔をしてみせても、ここに集まる臣達は、父親の代からマルクトに仕える者達だ。自分の機嫌をとろうなどと考える訳もなく、そのような浅はかな知恵しか持たないなら今ここにはいない。
「お言葉ですが、陛下は些か焦りすぎのようですな」
「なに?」
見事に蓄えられた髭を撫で付けながら老マグガヴァンが言う。
殿を后に迎えると我々に宣言する前に、陛下にはおやりにならなければならないことがあるのでは?」
「やらなければならないこと」
「そうですぞ。肝心の殿のお気持ちを我々はまだ聞いておりません」
どこの誰が、好きでもない相手に嫁ごうだなんて考えるのか。鸚鵡返しに問うてきたピオニーに老マグガヴァンは飄々と言ってのけた。

「舞踏会?今夜あるのですか?」
ピオニーの執務室で相変わらず書類の整理を手伝いながらは思わず顔を上げていた。そんな彼女の反応に満足したピオニーは手に持つペンをくるりと回してにこりと微笑む。
「ああ。月に何度か開いている。この間開いたときおまえは臥せっていただろう。だから知らせなかったんだ」
「はあ……そうですか」
が慣れない宮廷仕えに体調を崩して十日ほど寝込んだのはわずかに半月前。その間グランコクマ中の花屋が開店休業になったのは、目の前の限度を知らない男の所為だ。むせかえるような花の香りに窒息しそうになっていたことを思い出し、思わず遠い目をするにピオニーは構わずに話しかける。
「おまえも出ろ。俺の隣にいろ」
「はあ……、はぁぁぁぁ????」
あまりに自然にピオニーが言うものだから、は思わず頷きかけていた。書類をより分ける指先が動揺のために紙にこすれて切れてしまった。細い指先に浮かび上がる血、茫然としたはぬぐう事も忘れていた。
「どうした、変な声を出して。ん?切ってるじゃないか」
の手元を覗き込んだピオニーは、白く細い指先に紅玉のように紅い珠が浮かんでいるのを見て眉を顰める。そして次にはその指先を自分の方へと導き、ぱくり、と口の中へ誘った。
「………ピ、オニー陛下っ!?何をする、んです、かっ……!」
ぬるりとした他人の舌に指先を蹂躙され、当然そんな経験をしたことのないは恥ずかしさよりも驚きが先に立ち、慌てて手を引っ込めようとするが存外強く握られた手首の先は戻ってきそうにない。の指先を口に含んだピオニーはその初々しい反応を目を細めて喜び、多くの男がそうであるように好意を寄せる女性のそのような可愛らしい姿にさらに悪戯心をくすぐらされていた。蒼く澄み切った海のような瞳がをひたと見つめ、舌先は敏感になった指の先をつつく。一通り指を舐めた後、最後に傷跡を強く吸い上げると彼女がびくりと肩を震わせるのが分かった。
「旨い」
最後にぺろり、と彼女によく見えるようにわざと舌を出して舐めてやれば、首まで真っ赤になったが怒ったように乱暴に自分の手を引き戻した。
「おふざけになるのも結構ですが、今日中にこれらの書類全てに目を通していただきますからね!!」
上ずった声で束になった書類全部を指差し、ぷいと顔をそむけて部屋を出ようとするにピオニーは笑いを隠せない。
「何処に行くんだ?まだ執務中だぞ」
公務の間、彼女は皇帝の補佐をしなければならない。それを知っていて意地悪く言葉を投げかけるピオニーに、扉に手をかけたは振り向きもせずに「休憩の時間が近付いてますのでお茶を取りに行くんです!」と怒鳴るように言って、しかし部屋を出る寸前にかなりぞんざいではあったが一礼してから出て行った。どれだけ冷静さを失っていても、臣下の礼を忘れることはないらしい。それがピオニーには好ましく、また、微笑ましく映る。にはいい迷惑だろうが、もっと彼女の色んな表情が見たい。怒らせたり、困らせたり。笑った顔ももちろんだが、本音を言うと泣き顔も見てみたいというあたり、自分がひどい男であることを思い知らされる。
「かわいいなあ、もう」
彼のブウサギに対する最高の賛辞を、人間である彼女にも贈るのはいかがなものか、とこの場に皇帝の幼馴染みである某大佐がいたら溜息つきながら言いそうなものであるが、ここにはピオニー一人しかいないため、誰も何もつっこまない。もっとも本人は気付いていないのかもしれないが、ピオニーのに対する想いは確かに人間の女性に対して抱くものであって、決してペットに対する思いの延長線上にあるわけではない。素直で誰に対しても誠実であり、表裏がなく腹の内を探るような付き合い方をしないで済むの性格は、陰謀や欲望がそこら中に渦巻く宮中で貴重なものだった。
は俺を好きにはならんかな」
執務室に一人残され、ピオニーは呟く。火遊びのような、一夜限りの恋に似たものならば幾度か経験があるが、本気の恋など数えるほどしかしたことがない。それは多くは自分の立場に原因があるのだが、その所為で今に対する効果的な接し方が思い当たらないのはもどかしい。ピオニー自身は彼女が頷いてくれるまでいつまででも待つつもりだが(何しろ気の長い恋愛には慣れているし、諦めが悪いのは長所だと自分で言ってのけるほどなのだから)、うかうかしていられない要素もそこら中にあったりする。それは例えばお茶を取りに行ったに偶然を装い近寄って、親しげに話しかけてあまつさえ並んで楽しくおしゃべりをしながら執務室にやってきた皇帝の懐刀と呼ばれる幼馴染の存在で。
「何しに来たんだ、可愛くない方のジェイド」
思わず半眼で睨んだピオニーに彼は憎たらしいほどにこやかに笑った。
「いえ、陛下のご機嫌伺いにでもと思いまして」
普段なら絶対しない事を飄々と言ってのける、ジェイドにピオニーは歯噛みする。これは気長に構えている場合ではないのかもしれない、そう思ったピオニーは、テーブルに茶器を並べるに向かって「嫁に来い!」ともう何度言ったか分からないプロポーズを投げかけるも、「ふざけてないで仕事してください」と冷たく一蹴されてしまい、ジェイドに失笑されて腸が煮えくり返る思いを味わったのだった。



完成日
2006/12/26