16. あの日も綺麗に晴れていた。




来るのが遅かった、と。悔やんだ山川に、
「気にするな」
彼女はただ一言、そう言った。
「しかし……」
言いよどむ山川を目線で黙らせ、天守の外へ目を遣る。ここの所雨が降り続いており、霧が出ている所為か視界は明瞭ではない。それでも目に映る山にある鮮やかなもみじ葉を愛で、ふと苦笑を漏らした。
「行きそびれたな」
「なに?」
「紅葉狩りだ。今日明日が一番綺麗だろうに」
「な……」
何を悠長な、と。思わず非難の声が山川の喉まで出かかった。今は戦の真っ最中なのだ。呑気に紅葉を楽しむ時ではない。
「まったく、西の御方々ももう少し風情というものを分かって欲しいものだ。こんなにも美しい山が傍にあるというのに。鉛弾ばかりに熱をあげて」
しかし続けられる彼女の言葉に呆気に取られ、叱責する機会を失った。あまりにも彼女がのんびりと常と変わらずに話すものだから、ついその調子に巻き込まれ怒気を殺がれてしまったのだ。
は相変わらずだな」
昨日、この城に戻ってきた山川。その存在に一時この鶴ヶ城は沸き立ったが、山川自身は戦況がほぼ絶望的なのを知った。それでなくとも戦続きの毎日だ。何日も何日も、極度の緊張状態に置かれ、心身ともに疲れ果てていた。己に課せられた責任に押しつぶされそうになりながらもぎりぎりの線で保っていた、その糸が。昔馴染みである彼女、と話していく内に知らず知らず、ゆっくりとほどかれていった。
「大蔵、それは誉めているのか?」
胡乱に眉を顰めて彼女がこちらを見るので、とうとう堪えきれずに小さく微笑った。そんな山川の姿を見て、彼女は薄く笑む。
「やっと笑ったな」
「いかんな。こんな時だというのに。どうもおまえといると調子が狂う」
「失礼な言い草だ。さきほどまで随分と酷い顔をしていたぞ。あれでは呼び込める運もないだろう」
「……そんなに酷い顔をしていたか?」
「ああ。どうしようもないぐらいに暗い顔だった。折角の色男が台無しだ。あれでは登勢子も自分の夫が判別つかないだろうな」
言って、意地悪く口の端を吊り上げて彼女は笑う。登勢子というのは山川の新妻で、の数少ない友でもある。登勢子はに憧れており、夫である山川との数少ない語らいの中、いつも彼女の話をねだった。その度に山川は登勢子の知らない、日新館時代のの話をしてやるのだ。そう、は数少ない、というよりたった一人の日新館卒業の女子だった。それというのも彼女の父親が変わり者で通る医者で、自分の知識技術その他諸々を一人娘のに譲ると言って聞かなかった。の他に男の兄弟はおらず、ならば婿養子でも取って継がせればと周囲は散々すすめたのだが、彼女の父は頑として聞かなかった。常ならばこんな言い分は通らないのだが、の父親は医者としては名医だった。その技術を惜しむ声により、特例として彼女は日新館の入学を許されたのだ。周囲の奇異な視線をものともせず、堂々と門を潜ってやってきたの姿を山川は今でも鮮明に思い出せる。
「何を笑っているんだ」
幼くも凛とした立ち姿が酷く印象に残っており、それから山川が彼女に話しかけるきっかけが出来るまでの数ヶ月、彼はその時の少女の姿を幾度も心によみがえらせていた。思えばあれが彼の初恋だったのかもしれない。そのことを今更ながらに自覚して、目の前でいぶかしむ本人に告げてやれば、は「は!」と短く笑った。
「それはそれは、光栄なことだな」
「見目だけは城下一麗しいとされていたのに。何処をどうしたらこうなるんだ」
「知らん。原因は私の偏屈な親父殿だろう」
男のような話し方も、不遜と思えるほど周囲の何者にも臆さない態度も、男と対等に渡り合うために彼女が否応でも身につけざるを得なかった処世術だ。本来ならばそこらの裕福な武家の娘子と同様、花模様の美しい着物を身に纏い、楚々と笑っているだけで良かっただろうに。今の彼女の格好は裾を引き絞った黒の袴に白い羽織を肩にかけている。艶々とした黒髪も素っ気無く背で一束にくくられており、娘らしさなど何処にも見当たらない。
「それとも何か?私に打掛を身につけて城の奥深くで震えて泣いていろとでも言うのか?」
「はは、そうだな。も一応はおなごであるからな」
「一応は余計だ。まったく、本当に失礼な奴だ」
「しかし今はおまえの腕が何よりも助けになっている。感謝する」
素直に頭を下げる山川を見て、は再び外を眺める。幼い頃から身につけさせられた医術は今や名医と謳われた彼女の父親をも凌ぐとされ、篭城を続ける現在、負傷者の治療は一切合切その細腕にかかっているといっても過言ではない。羽織の袖から見える腕は本当に白く、そして驚くほど細い。この腕で、何人もの命を救い、そしてそれ以上に看取ったのかと思うと山川はやるせない気持ちに駆られる。
「すまない」
礼を言った、その次には謝罪の言葉を口にする。そんな彼を横目で見て、は無言で続きを促す。
「怪我人をいたずらに増やしてしまっているのは将たる俺の責任だ」
「何を言うかと思えば」
「日々、会津の者達が死に、怪我に苦しんでいるというのに。俺には策の一つも浮かばない」
城に入る報告は日増しに絶望的になってきている。このままでは遠からず会津は落ちるだろう。それを指を咥えてみていることしかできない、その不甲斐なさに山川は唇を噛み締めた。城中にある人々は今も尚、懸命に働いているというのに。打開するどころか、降伏を主君にすすめなければならない。これでは会津の為に命を散らしていった武士達が報われない。肩を落としてその場に佇む山川に、は優しい言葉をかけるような者ではなかった。
「そうだな。私が寝る間も惜しんで怪我人の手当てをしているというのにおまえはそれを台無しにしてくれる」
辛辣に、言葉は山川の心をえぐる。甘んじて、彼女の言葉を受け止める彼には心底呆れたため息をついた。
「あのな、大蔵。おまえは何か勘違いをしているんじゃないのか?」
軽く左右に首を振り、そしてはいきなり山川の黒い着物の襟を掴み、横の壁にその身体をたたきつけた。女の身なれど、かつて日新館で共に学んだ間柄だ。医師を目指しているはずの彼女の武芸一般の成績がそこらの武家の子息よりよほど腕が立つことを失念していた。何より突然の事に驚いた山川は壁にぶつかった衝撃で詰まった息を吐き出し、そして目の前のが切れ長の二重の両眼に静かに怒りを宿していることを見て取った。
「自惚れるなよ、山川大蔵」
おまえだけがこの会津を守り戦っているわけじゃない。短く吐き出された言葉に山川ははっとする。依然、山川の襟を掴んだまま、背丈は彼女の方が低いので自然と上向きになるその表情は恐ろしいほど凪いでいた。けれど、両の瞳、そこだけが怒りを押さえ込んでいるかのように鋭い。
「梶原殿も、佐川殿も萱野殿も秋月殿も皆、この戦に命をかけておられるのだ。兵達も、城内にいる女子供、老人達、それに殿もだ。皆、必死に戦っている。何故だ?……守りたいからだ」

「皆、この地が好きでしょうがない。この地で暮らす毎日がいとおしい。だから守る。会津は我々の国だ」
決して荒くはない語気だが、今の山川には大石で頭を殴られたほどの衝撃があった。が掴んでいた襟を離しても、彼は壁にもたれかかったまま、呆然と目の前の女を見ていた。
「自分の国を自分の手で守る。そのことに何の不思議がある?大蔵、おまえはひとりで戦っているのか?」
「……いや」
「そうだろう。いかに軍事の天才と言えども、おまえ一人で薩長の軍勢に敵うはずがあるまい」
「そう、だ……な」
弱々しく返事を寄越す山川に、は再度ため息を吐く。そして今度は幾分か、やわらいだ微笑を頬に浮かべ、ふらふらと頼りなく立っている男の肩を叩いた。
「そう気負うな」
軽く叩いただけだったが、力の抜けた山川の足はその場に腰を落してしまう。ぼんやりと見上げてくる顔を、腰を軽く折って覗き込む。
「確かに殿も皆もおまえを頼りにしているが、おまえは神でもなんでもない。ただの人だ。人には人の限界がある。それを超えようだなどと思わないことだな」
思考が止まってしまっているのか。いつもの怜悧さは何処へやら、の言う言葉の意味が分からないといった風の山川に彼女はふいに微笑んだ。白い指先を伸ばして、山川の頬に触れる。そのあたたかさに途切れていた何かが彼の中で繋がった。
「己の領分をわきまえて、課せられた分だけの役目を果たせと言っているんだ」
「俺の役目」
茫洋としていた瞳に徐々に光が戻る。間近で見て、が満足そうに頷いた。
「忘れるな大蔵。おまえはひとりきりでこの戦をしている訳じゃないんだ」
触れていた指が離れる。その熱を惜しむかのように目線で追ってしまった。気付いて慌てて恥じるように視線を不自然に逸らすと、目ざとく見つけた彼女はにやりと笑った。
「犠牲になった者のことを今は考えるな。全て終わってから悔やみたいだけ悔やむがいいさ。怪我人のことも、だ。なに、治りたい気のある輩だったら私が治してやるさ」
「ああ……そうだな」
任せろ、と言ってくれているのだ。彼女は。後ろの憂いは引き受ける、と。一喝されたにも関わらず、山川の心はじんわりとあたたかい。家老の中でも最年少である自分、どうしても経験が足りない。しかし非常時である今、軍事に関わる事ではこの会津において自分に敵う者はいないと思う。それは決して自惚れでは無い。その証拠に容保は自分に軍の全権を預けてくれた。信頼されているのだ。だがその重みは尋常ではない。この手に会津の民、全員の命が託されたのかと思うと重責に身を潰される思いだった。何とかしなければと焦るあまりに周囲が見えなくなっていたのかもしれない。そのことをが気付かせてくれた。
「見ろ、大蔵。久々に晴れ間が出たぞ」
雲の切れ間を指して、振り返って笑う彼女に山川も自然と笑みが零れた。天守から臨む会津の美しい地。此処を守る為に我らはあるのだ、と。決意も新たに山川は雲間から零れる陽光を眩しそうに見つめた。


完成日
2007/11/17