「大好きよ」
声が、耳から離れない。
17. 君が居なくなって、
これで何度目の朝だろう
「ねえ、世界はそんなに煩わしいことばかりじゃないのよ」
困ったように微笑む紺碧の瞳。あの時自分はどうしても彼女の言葉に素直に耳を傾けることができなくて。
「だからそんなに頑張って、復讐とかしなくてもいいんじゃないの?」
それが彼女の優しさだと気付いていながら、反発していた。
「それじゃ俺は永遠に前に進めないままだ」
吐き捨てるように言った、その横で。無重力の中、亜麻色の髪が揺れていた。
「随分、悪い夢をみていたようね」
寝覚めの悪さに顔をしかめていれば、苦笑と共にそんな声がした。
「あんたか」
「ええ、私よ。ごめんなさいね、じゃなくって」
「いや……」
否定しようと口にしかけるが、彼女の余韻がいまだに苦く残っていて、それで口を噤んでしまった。そんなロックオンと同じ感情を、僅かに共有できるスメラギは、やはり苦く微笑む。
「まだ、夢にみるのね」
「気まぐれに、ね。逢いたいと想った時はちっとも出てきてくれやしないのに、こんな時にばっか出てくるんだぜ。ホント、根性悪いよなアイツ」
「……そう」
「だけど、悪夢でもいいから逢いたいだなんて。思っちまう俺も相当だな」
自然と零れる笑みにスメラギは何処か寂しそうに頷く。彼女がいなくなってから、笑うのが上手くなった。自分の本心を隠して、嘘と一緒に笑うことができるようになった。
「ねえ、のことを覚えている?」
「忘れたことなんて一度もないさ」
「そう。羨ましいわ。私は薄れていくばかりだから」
思い出はどうしてこんなにもたやすく零れ落ちていってしまうのだろう。大切にしていたものほどあっけなく、ある日突然失っていることに気付かされる。
「私の中のあの子は、もう本当に遠いのよ」
彼女が今ここにいれば、スメラギとは歳の近い、本当の姉妹のようになれただろう。けれど記憶の中のは少女のまま、永遠に老いることはない。ただその笑顔が、声が、ゆっくりと光に融けていってしまう。
「俺はまだアイツがいつかひょっこり帰ってくるんじゃないか、って。そう思う」
「ロックオン……」
「笑わないでくれよ。だけど、本当にそう思うんだ」
常緑樹の瞳をそっと伏せて、彼女を想う。
『大好きよ』
この眼の色を好きだと言った彼女の、声が今でもリアルに近く聞こえる。
「綺麗な色ね」
そっと伸ばされた薄桃色の指先。優しく大事に触れられて、くすぐったくて身を引けば、笑いながら追いかけてきた。星が瞬く宙の只中で。世界はとても静かだった。
「エバー・グリーンの色、木々の緑の色ね。とても綺麗」
「やめろよ恥ずかしい。そんなに褒めたって何も出ないぜ」
「あら残念」
紺碧の瞳が笑みに細められる。その色こそ、好ましい。母なる海の色、宇宙から見える地球の色。そう思ったが、照れくさくて言葉にできなかった。代わりに唇を寄せる。彼女は笑った形のまま、己のそれで受け止める。
「大好きよ」
朗らかに彼女はそう言い放つ。その言葉に一片の曇りも迷いもない。
「あなたがとてもすきよ」
「……そうか」
「ええ、そうよ」
あまりにもまっすぐに言葉を向けられるので、頬が赤くなる。横を向いて小さな声で答えるが、彼女は多分、笑っていた。
「あなたが生きるこの世界が大好きよ」
「そう、か」
家族を喪って、その時から止まった時間のまま生きるロックオンには重ねてそう言う。ともすれば世界そのものを憎みそうになっていた、彼をギリギリのところで止めたのは、彼女だった。
「大好きよ」
臆面もなく重ねられる言の葉。ひとつひとつは決して強い力を持たないけれど、冬の間に凍った雪が、春になって陽に晒されてやがて融けてゆくように、それはいつかきっとロックオンの頑なな心をとかす力になる。少なくとも彼女はそう信じていたに違いない。
宙から見る地球、その向こうに太陽。今頃地球のどこかでは常のように朝を迎えているのだろう。光に照らされた紺碧の星を眺めてロックオンは微かに唇の端を吊り上げる。
「戻ってこいよ、」
それは哀願に近い、叶う望みのない想い。
「俺を好きだって言ったのはおまえなんだぞ。責任ぐらい取れよ……」
理不尽な言い分だ。今ここに彼女が居たら何と言うだろうか。呆れたように笑って、それでもキスをしてくれるだろうか。
「もう、おまえがいない朝をこれ以上重ねるのは、ごめん、だぜ?」
呟きは宙に掻き消える。たった今まで、みていた夢の中で彼女が微笑んでいたというのに。目覚めてみればそのぬくもりが錯覚だったと気付く。此処には彼女は、もう、いない。知っていたけれど、認めるのが怖かった。
『大好きよ、ロックオン』
声ばかりが耳に残って。求めるその存在は二度と現れやしないのに。あの紺碧の色を見たかった。いつも彼女が自分にそうしていたように、真っ直ぐに覗き込んでそして言いたくて、でも言えなかったことを今度こそ、彼女に。
「俺もおまえが」
幸せな夢はすぐに醒める。淋しいばかりの想いを残して。ふいに響いたアラート音に、現実に引き戻されたロックオンは、暗闇に広がる宇宙に浮かぶ、彼女と同じ色をした惑星を見る。彼女が好きだと言った、世界を。変える為に、行く。
完成日
2008/03/30