21. 其の名はあまりにも神聖で




「不機嫌そうな顔をしているね」
むっつりと黙り込んだまま、目の前のガラスの向こうを睨むように見ている少女にシュナイゼルは話しかける。返る応えはない。それでも気にもとめずに彼は部屋の内側に控えていた侍女にお茶の用意をするように命じ、窓際に立つ少女、の背後に立つ。
「どうしたというんだい?」
高くもなく、低くもない。平均的な身長しか持たないの身体は長身のシュナイゼルがすっぽりとその腕に納めるには好都合だ。その腕の中に少女を抱き込めば、身を捩って彼女は嫌がった。
「うざい。離れろ兄様」
「随分と本格的に機嫌を損ねているようだね」
今にも暴れだしてシュナイゼルを拒絶しそうなを穏やかに力で押さえつけながらシュナイゼルは優しい笑みを頬に浮かべる。その気配を察してが更に渋面になるのすら、彼には楽しい出来事でしかない。回した腕からの髪が零れ落ちる。さらさらと零れる黒髪は真っ直ぐに地に向かって伸びている。彼女の母親はゆるく波打つ黒髪だったし、彼女の妹も色は違えど同じようにふわふわとやわらかな髪を持っていた。の髪は硬質な、冷たい空気すら孕む黒髪。それは彼女と時を同じくしてこの世に生を享けた、半身である弟と同じ特徴だ。一筋の乱れもなく重力に逆らわないその様は、まるで手遊びにその長い髪を手に取るシュナイゼルの指先を拒むかのように掬ったそばから零れ落ちていく。
「不機嫌の理由を教えてくれないか」
貴婦人なら誰でも即座に落ちるであろう、甘い表情と声音を使ってそう希うも、には通用しない。
「さっきまでは違う理由だったけれど、今不機嫌になっているその原因は兄様以外にない」
「これは手厳しい」
邪険に返されても苦笑するだけで済ませる。そんな所がますますを不機嫌にさせる。シュナイゼルはそこまで分かっている。分かっていてやるのだから、が怒るのも無理はない。
「コーネリア姉様も、ユフィでさえもエリア11に向かったのに。どうして私だけ行けないんだ」
窓の外を、遥か海の向こうの東の果てにある島国を。見えるはずのないその地を睨みつけたまま、はそう呟く。
「不機嫌の理由はそれかい?なら理由は簡単だよ。今あの地は不穏分子が活発に動いていてね。危ないんだ」
「過保護のつもりか?余計なお世話だ」
「そうは言っても、。君は自分を守る術を持たないじゃないか」
宥めるように、耳元で囁いてやれば。案の定彼女の眉間に皺が寄る。
「ユフィだってそうだ」
「あの子はエリア11の副総督として赴いたんだよ」
「ユフィは学校を続けたがってた。なのに無理矢理やめさせて、そうまでして行かせる意味があるのか?」
常と比べればやけに饒舌な。いつだって寡黙で、唇を固く引き結んで、人の後ろに立っている。
「私が代わりになりたかった。でも皇帝陛下は却下された。それは私が皇位継承権を持たないからか?」
しかし彼女は何も考えていない訳ではない。むしろ、その真逆。聡明過ぎるほどに鋭いその頭脳が、逆に彼女に沈黙しか許さないのだ。母が死に、弟妹と引き離され、それでも彼女が王宮に残されたのは。
「違うよ、。私が父上にお願いしておまえをここに残すように言ったんだ」
シュナイゼルが、その存在を傍に留めておきたかったからだ。彼は他に何人もいる弟妹達の中でも一等深く、を愛している。まるで掌中の珠のように慈しみ、自らが望むままに飾り立て、そして閉じ込めた。誰も彼女を見ないように。勿論、こんな処遇を彼女が甘んじて受けるはずもない。しかし母親という庇護を失った幼い少女が生きる為には、誰かの助けが必要だった。後ろ盾のない皇族など、外交の道具にしかならない。幸い、は見目もよく、女子であったから嫁ぎ先など選ぶほどあった。当時纏まりかけていた中華連邦との縁談を破談にしてまでもシュナイゼルが彼女を手に入れたことは、一時王宮内を騒然とさせた。
「……やはり、兄様が原因か」
諦めたように呟く
「おや。気付いていたのかい」
「兄様は意地が悪い」
「私はおまえに綺麗な世界を見ていて欲しいんだよ」
白磁器のようになめらかな頬を指でなぞれば、剣呑とした瞳が見返してきた。
「その内にエリア11も落ち着く。そうすれば私が連れて行ってあげるよ。だから機嫌を直してくれないか、マイ・レイディ?」
腕の中の少女の、細い腕を持ち上げて、その手の甲に口付ける。案の定、嫌そうな顔をされたが構わない。背後に紅茶の用意をして戻ってきた侍女を軽く手を振って下がらせる。
「兄様は意地が悪い」
先程と全く同じ台詞を口にし、はするりとシュナイゼルの腕から抜け出す。結いもせずに背に落とされたままの長い黒髪が翻り、彼女が振り返る。
「思ってもいないことを口にして、簡単に約束をするのだからな」
そのまま部屋の奥に向かう彼女に「紅茶は?」と声をかければ、無言で睨まれた。どうやら本気で機嫌を損ねてしまったらしい。その原因であるシュナイゼルは、仕方なく苦笑して「おやすみ」と言った。彼女に寝るつもりがないのは分かっているが、一緒に紅茶を飲んでくれるほど機嫌が良くないのでしょうがない。重い扉が閉められる音を耳にしながら、手ずからそそいだ紅茶の香りを一人、楽しむ。
「私は誰よりもおまえが可愛い。だからこそ、手放したくないのだよ」
、とまるで恋い慕う女神の名を音にするかのように、厳かに至宝の名を口にする。
「綺麗な小鳥は美しい世界でしか生きられないだろう?」
、と再度呟いてシュナイゼルは一人、微笑む。金の駕籠に閉じ込めた、小鳥の名を大切に言の葉に載せて、至福の時間を味わいながら。



完成日
2008/03/15