貴方を愛してしまったことが、間違いだったのでしょう。




22. 強く惹かれたのは

それが罪だと知っていたから?




個人行動を起こし、勝手に現世へ赴いたグリムジョー。東仙が正義と銘打ってその左手を燃やした。激昂するグリムジョーを冷えた一瞥でもって黙らせた藍染は、奥に戻る途中に昔も今も変わらずに副官を務める男とすれ違う。
「酷いお人や」
笑顔が常の男、市丸ギンは藍染の気紛れな戯れに苦笑するしかない。
「問題ないさ。我々の道に敵は無い」
「そうどすか」
窓から暮れなずむ空を眺めていた藍染がその足を市丸に会う前に向けようとしていた方向へ戻す。それに気付いた市丸が上司の背に「ちゃんによろしゅう」と声をかけると、首だけで振り返った藍染は、
「伝えておくよ」
と穏やかに受けた。歩みを進めながら彼は呟く。
「聞こえているかどうかは分からないがね」

黄金色の瞳が大きく見開かれる。動揺、怒り、悲しみ、そして失望。様々な色の感情を渦巻かせて限界まで開かれた双眸に映りこむ藍染は、彼に隠された事実を知る以前と同じように微笑んでいた。細い喉で喘ぐように、絞り出すようにかすれた声はたった一言、「嘘」とだけ。
「嘘ではないよ。この騒動を引き起こしたのは僕だ」
突風に煽られるままの、色素の薄い象牙色の長い髪。その髪に飾られた燻銀の精緻な細工の花の簪は、かつて藍染が彼女に贈ったものだ。
「僕の言う事が信じられないのかい、
妻である、その女性の名を呼び藍染は一歩、彼女に近付く。咄嗟に後ずさったの反応を見た黒縁眼鏡の奥の瞳が哀しげに揺れる。それを見てしまった彼女の心が、さらに動揺で揺れ動く。
「惣右介さん、だって貴方……何を言っているの?」
死覇装を身に纏う、彼女もまた死神だった。三番隊の三席、副官補佐の立場にあると藍染の出会いは市丸の紹介からだった。というのはだけの認識で、本当は市丸の側に控えていたを見初めた藍染が半ば強引に市丸に仲介を頼んだのだ。当時すでにお互い大人であり、少年や少女のように甘酸っぱいだけの恋ではなかったけれど、二人は確かに小さな愛を育んでいった。藍染が自分の屋敷にを奥方として迎えるのには季節を三つ跨いだけれど、それから半世紀ほどの時を夫婦として過ごした。その穏やかであたたかかった時間の全てを、今ひっくり返されようとしている。
「判らないかい?ああ、違うね。昔から君はとても理解力のある女性だったから。少し混乱しているだけだね」
死んだはずの夫を再び目の前にして。それだけでもの思考回路は止まってしまいそうなのに、その夫の口から此度の事の顛末を、そしてこれからの計画を一気に聞かされてしまい、最早考えようにも頭が回らない。何かを言おうと口を開けど、乾いた喘ぎが僅かに零れ落ちるだけでどんな言葉も音にはならない。
「あ、……だって、だって惣右介さんは、あんなに血が………いっぱいで…」
「血が?」
これ以上ないほどにの頭の中はぐちゃぐちゃだった。何に対して驚いていいのかも、それとも怒るべきなのかどうかも判断がつかない。がんがんと耳鳴りがする。それでも自分の方へと一歩一歩近付いてくる藍染からは無意識に遠ざかろうとするのは一種の自己防衛なのだろう。頭で理解するよりも早くに身体は感じ取っているのだ。彼がもう、かつての優しい夫ではないことに。の言葉に束の間目を丸くしていた藍染だったが、やがて得心したように目元を和ませた。
「あの仕掛けのことを言っているのかい?驚かせてすまなかったね。あれは僕の斬魄刀の能力で」
「そ、んなことを、……!そんなことを聞きたいんじゃないのっ」
「どうしたんだい。何を怒っているんだ」
「怒っている!?いいえ違います。わたしは貴方が判らなくなったの!惣右介さん、貴方本当にこんな恐ろしい事を仕出かしたの?どうして……っ」
自らの手で顔を覆ってしまったを藍染の黒鳶が優しく見つめる。その視線はいとおしいものを愛でる其れだ。つまり彼の中ではは変わらずに自分の妻のままなのだ。
「ギンくんも、貴方の計画を手伝っているというの?いつから?」
「ギンは最初から僕の部下だよ。要もだ」
ゆっくりと歩みを進めていた藍染はようやくの前に立つ。泣いているのか、震える肩にそっと手を置こうとしたその刹那。
?」
彼女は腰に佩いた斬魄刀を引き抜いていた。震える切っ先を藍染の喉元へ向け、涙で潤む美しい色の瞳で愛する男を懸命に睨みつけようとしている。そんな彼女の行動に別段驚くでもなく、藍染はただ穏やかに彼女に話しかける。
「刀を納めなさい。君では僕には敵わない。それ以前に僕は君を傷つけるためにここに来たわけじゃない」
「もう、喋らないでください……」
かたかたと、覚束ない狙いをその剣先に込め、藍染が唯一人愛する女性は小さく頭を振った。
「これ以上貴方と話をしていたら、わたしは貴方を殺せなくなる」
「殺す必要が何処にあるというんだい」
「私は死神です。護廷十三隊に忠誠を誓った身。この尸魂界に仇成す者あらば、何人であろうとも斬ります。………それが、夫であっても……!」
職務に忠実な彼女らしい言い分だ。真面目な彼女は三番隊の隊長のおかげでともすれば滞りがちだった仕事を実に円滑に処理していった。ギンが彼女にだけは頭が上らないのはその所為だ。妻である女性に刀を突きつけられながら、藍染が思うことはそんな事で。不真面目だと言われても詮無いことだが、目の前に対峙する彼女には迷いがある。恐れるまでも無い。彼女はきっと自分を殺せない、藍染はそう確信していた。
「困ったな。、僕は君にそんなことをして欲しいわけじゃないんだが」
「黙りなさい!」
全く困った様子もない藍染の声にが鋭く一喝する。同時に彼女が喉元へ、突きつけた刃の先が僅かに藍染の皮膚を破った。つう、と細く、一筋、赤い血が流れる。
「あ……」
自分が起こしたその現実に心が揺れ動いたの顔色が一気に蒼褪める。
「刀を下ろしなさい。
「黙って!お願い、もう何も喋らないで……」
優しい声音にが絶叫する。その声で、幾夜も睦言を囁かれてきた。壊れ物を扱うように大事にされ、募る愛おしさを怯むことなく受け止めてくれた。いつも二人で空を、雲を、花を、移ろいゆく季節を眺めてきた。周囲から似合いの夫婦だとやっかみ半分で言われ、苦笑したこともある。ただひたすらに恋い慕い、信を寄せてきた。それらが全て間違いだったというのだろうか。あれほど強く惹かれ合ったというのに。

全てを包み込むような優しい声が大好きだった。
「お願い……殺して、殺してください…」
藍染に刀を向けながら、彼女が請うのは自らの死だ。
「わたしは貴方を殺せない……喩え任務であっても、惣右介さんを殺す事なんて、できない……っ」
藍染が愛した、秋の夕暮れのように荘厳な黄金の瞳から溢れた涙が、ぽとぽとと地面に落ちて小さな染みを作り出す。愛する夫に殺してくれと、剣を突きつける。職務に対する使命感と、狂おしいまでの恋慕の情に、彼女は引き裂かれる寸前だった。
「……参ったな。君は我儘ばかり言う。僕が君を殺すはずが無いだろう」
苦笑と共に吐き出した言葉は、の心を砕いた。
「おねがい……ころ…し、て…………」
からん、と。乾いた地面に彼女の斬魄刀が落ちる。光を失った黄金色の双眸からは、とめどもなく透明な雫が溢れ続ける。四肢の自由を手放した彼女を抱き上げ、藍染はゆっくりとその場を去った。己の腕に、愛する妻を抱きこんだ藍染は、至福の笑みを浮かべていた。
「駄目だよ、。君はずっと僕の傍に居続けるのだから。そう、ずっと、ずっと……ね」

そこは広いだけの空間だった。殺風景な、四角い部屋には窓が一つと、中央に紅い別珍の布が張られた精巧な造りの椅子が一つあるのみ。その椅子に座るのは象牙色の長い髪をした女性だ。他の誰にもこの部屋への立ち入りを許さない藍染は、ゆっくりと中央へ、彼女の元へ歩み寄る。
「やあ、。元気にしていたかい」
かつて尸魂界で、彼女の夫として向けていた穏やかな微笑を妻へと向ける。しかし反応は無い。黄金色の瞳に光は宿っておらず、椅子に座り俯いた姿勢のまま身動き一つしない。はあの日、あの場所で心を壊してしまった。いや、砕かれたのだ。愛する夫であった藍染惣右介と云う男に。
「今日は少し大変だったよ。グリムジョーが時機を待てずに勝手に行動してしまってね。要が怒って彼の腕を一本斬って燃やしてしまった」
返事を返さぬに気を悪くした様子もなく、長い髪を掬い上げて手遊びに弄びながら藍染は独白を続ける。
「僕としては部下達みんなに仲良くして欲しいんだがね。どうもうまくいかない。ギンにも怒られてしまったよ」
傍から見たら滑稽に映るだろう。物言わぬ、人形と同じ存在に構わずに話しかけているのだから。もしかしたら気がふれてしまったのかと思われるかもしれない。しかし藍染は口を閉じない。あの頃と同じように、目元を和ませ、穏やかに愛する妻に話しかける。
、聞いているかい?」
顎に手を差し込み、藍染は俯けた彼女の顔を上向かせる。髪に刺した燻銀の簪が、しゃらり、と存在を主張した。彼女の金色の瞳に光る、宝石のような雫を見て取って、彼は微笑んだ。
「ああ、また泣いているのかい」
白い肌に指を滑らせ、優しい手つきでそっと眦に溜まった雫をふき取る。そのまま紅い唇にくちづけると、溢れた雫が、ぽとり、と冷たい床に落ちた。