23.触れられない温度を求めていた
砂漠と化した荒野を抜ける途中、水を求めて立ち寄ったわずかな木々が茂る小さな森。ほぼ一日、しかも雨の中を歩き通しでいたカンベエはふいにわずかな疲れを感じた。自覚をすればそれは一層重くのしかかる。さすがに年には勝てぬか、と自嘲気味に一人笑い、適当な大木の根元に腰を下ろす。腰に佩いた刀を胸に抱えなおし、いつでも抜刀できるよう最低限の気をめぐらして、ほんの少しの休息を取るつもりで瞼を閉じたのだった。
「………様」
やわらかな声音が誰かを呼んでいた。耳にひどく馴染むその聲に、聞き覚えがあると夢現にカンベエは感じる。だが一体どこで聞いたのだったか。思い出せずに思考はふわふわと胡蝶のように彷徨う。
「……エ様」
確かに知った聲だ。鈴の転がるような、秋口に吹き抜ける涼風のような。至上の音楽のような美しい音色。極楽浄土へ逝けるのならば、天女はこのような声で迎えてくれるだろうか。
「…ンベエ様」
どうして思い出せぬのか。不思議に思うほどに記憶が甦らない。かつて同じような優しい声に呼ばれたことがあったはずだ。彼の者の姿を思い浮かべようと記憶を掬い上げてみても、ざらざらと掌を零れ落ちるばかりで一向に掴めない。そう。あの時も。『彼女』はこうして呼んでくれたはずだ。
「あの時……?」
自分の考えにようやく意識が覚醒へと向かい始めたカンベエは閉じていた瞳をゆっくりと開く。あの時、とは。どの時であったか。ぼやける視界の向こう側に、亜麻色の髪をゆるく結い上げた、藍色の着物の女性を認め、彼はやっと思い出した。
「カンベエ様……」
木々が落とす陽だまりの優しい影の中、座る自分を覗き込むように、微笑みかける女性。彼女の名を、ずっと思い出さずにいた。いつしか記憶の片隅に追いやられてしまった大切な想い出を、カンベエはようやく取り戻したのだった。
「……そなたは……、儂は夢を見ておるのか」
しばし体を休めるつもりが随分と深く眠り込んでいたらしい。だからきっとこれは夢だ。そうだとしても、カンベエは目の前の彼女の名を呼ばずにはいられない。亜麻色の髪の女性は、カンベエの記憶と寸分違わずに、その桜色の唇をゆっくりと開き、少し潤んだ蜂蜜色の両の瞳をわずかに細めて笑った。
「、まことにそなたなのだな」
恐る恐る伸ばした手は、確かに触れた。次の瞬間にはその細い肢体を引き寄せ己の胸に抱きこんで、その体温とやわらかさを確める。カンベエの白い装束に頬をうずめたは、はにかんだ。
「……はい。お久しぶりに御座います」
控えめに、そっと花がほころぶように笑う彼女の癖が懐かしく、そして愛おしくて。思わず抱き込む腕を強くする。の細い腕がゆっくりと背にまわるのを感じながら、久方ぶりの再会に意図せずして眦が熱くなる。何かの香を焚き染めているのか。彼女の着衣からは春日のように穏やかな香りが強く立ち昇った。
ああ、このにおいをしっている。
これは、花のかおり、だ。