『貴方様を愛することができて、わたくしはしあわせでございました』
25. 隣に並んでいたかった
こちらへ、と案内された先は一軒の簡素な小屋だった。木々に囲まれ、梢が風に鳴る音がさやさやと心地良い。澱んだ空気は一切無く、卓の上に飾られた山百合の花のように清廉な香りが控えめに薫っていた。
「ここに住んでおるのか」
熱い茶を差し出した彼女に問えば、蜂蜜色の目を伏せて頷く。見回せば、狭いながらも調度品は一通り揃っており、生活に不自由している風には見られない。そのことに安堵したと同時に、申し訳なさがカンベエの胸をよぎる。
「」
名を呼べば、素直に視線を寄越す。十年前と何も変わらない彼女の従順さに、罪悪感はさらに募る。
「その、今までずっと一人でおったのか」
「わたくしの夫はこの世にただお一人、貴方様だけにございますから」
気まずさから言いよどむカンベエと違って、はそのやわらかい声音に不釣合いなほど、きっぱりと迷い無く言い切った。彼女のその潔さは、昔からちっとも変わらない。何かに迷って決断を下せないでいるカンベエと違い、彼女はいっそ清々しいほどにきっぱりと物事を決めてしまう。一緒になった時もそうだった。当時既に恥らう年代でもあるまいに、なぜか夫婦になろうと、その一言が言い出せなかったカンベエの意図を察した彼女は、やわらかく微笑んで「嬉しゅうございます……」と。控えめに、はにかむように告げられたその声に、言葉を言うよりも早く己の腕で彼女を抱きこんでしまっていた。
「すまぬ」
「? 何を、詫びるのですか」
「大戦後、そなたを一人にしてしまった」
膝の上で握りしめた拳を見下ろしながらカンベエは喉の奥から絞り出すように、悔恨の情を口にする。顔を上げる訳にはいかない。きっと彼女は微笑んで、そして許すだろうから。己は許される身ではないのだ。
戦が厳しくなって来て、カンベエは自宅に帰ることすら儘ならなくなっていた。祝言を迎えたばかりの新妻は、文句も言わずに一人、街で待ち続けている。今度の戦で勝敗が決する。そう予想を立てたカンベエは、部下を交代で家に一時帰宅させていた。家族や親しい者に会わせるのは、暗に再び戻れるかどうか判らないのだと知らしめて。次の戦が大一番、後に憂いを残すな、と。一人ひとり送り出した。戦場を恐れ、死を恐れてそのまま逃げ出す者があれば、それでも良いと。そう思っていた。自分の命は自分だけのモノではないのだ。だがそれは杞憂に終わった。
「今のところ、脱走した者は一人もおりませんな。皆、期日までに戻っております」
副官であるシチロージが名簿を捲りながら告げた言葉に苦笑する他なかった。
「遅刻する者もおりますが、まあ大目に見ましょう。便所の掃除一週間の罰、などがよろしいかと」
「皆、莫迦者ばかりだな」
「そいつは酷い。我ら一同、貴方様に惚れて、惚れて、惚れ抜いて、ここまでついてきたというのに」
「……そうか」
「カンベエ様」
「何だ」
「カンベエ様も一度屋敷にお戻りください。殿がお待ちでしょう」
「……シチロージ、戯言を申すな。儂が今ここを離れる訳にはいかぬことぐらいおぬしも判っておろう」
、と。その名を耳にした瞬間、僅かに震えがきた。けれどそんな小さな動揺を表に出すまいと、嘆息して副官を見遣る。けれど見つめたその先にはいつになく厳しい色の蒼が待っていた。
「帰って差し上げてください。カンベエ様、殿はずっとお待ちです」
「しかし」
「ここに来るまでもうずっと、休み無しで働いてきたんです。少しぐらい休暇を取ったって誰も何も言いませんよ」
「シチロージ……」
強く、副官の言い放つ言葉に我慢の箍が外れた。本当は逢いたかったのだ。もうずっと声を聞いていない。顔も見ていない。何より、あの体温を忘れてしまっている。新しい命が芽吹く、大地に力強い躍動を感じる春。生き物が花の宴を謳歌する日に相応しい、あたたかな陽だまりのような笑顔と共に。
「すまぬ」
「出立は明後日の朝、それまでには」
「必ず戻る。指揮官が逃げ出しては笑い話にもならんからな」
念を押すような副官の声に扉に手を掛け、振り向きざまに伝えれば、シチロージは眉尻を下げて笑っていた。
「殿によろしくお伝えください。この間の差し入れ、ありがたくいただきました、とも」
了承の意を込めて深く頷けば、一礼と共に見送られた。そのまま走って走って、官位と共に与えられた屋敷まで全速力で駆け抜けた。街の外れにあるその屋敷は、こじんまりとした造りだがそれを何よりもは喜んだ。簡素な門の前で、道を掃き清める桜色の着物の女性。その姿を遠目に見てから心臓は早鐘のように鳴り出す。文のやり取りは時間の許す限りしてきたつもりだが、直に逢うのは本当に久方ぶりだ。
「!」
走ってきた勢いのまま、その細い肢体を腕に抱き締めれば、華奢な躰がびくりと震えた。ついで大きく瞠られた蜂蜜色の瞳でカンベエを見上げる。
「カンベエ、様……?」
ぽかんとした表情で見つめてくる愛しい妻が変わらずにいたことに安堵して、カンベエは深く息をつく。そうして余りにも彼女が呆けているものだから、少し意地悪を思いつく。
「そうだ、そなたの夫、カンベエだ。よもやおぬし、夫の顔を見忘れたのではあるまいな?」
「な、そんなことありません!意地悪をおっしゃらないでください。ただ、少し……驚いてしまって」
眉を寄せて、怒ったような表情をしてみせるだが、普段戦場で厳つい侍ばかりを相手にしているカンベエには何ほどの影響も及ぼさない。むしろそのような表情すらいとおしい、と相好を崩して笑う。
「、帰ったぞ」
彼女の肩口に顔を埋めて、着物に焚き染められている香の香りを存分に吸い込んで、ほんのりと紅く染まった耳に囁くように告げれば。ほっそりとした腕がゆっくりと背にまわされるのが分かった。
「お帰りなさいませ」
無事の帰りを安堵するような声に、口には出さずとも寂しい思いをさせてしまったことに対する後悔がじくりと痛んだ。
「こちらには、いつまで?」
邸内に入り、いくらか話をした後で、が訊く。
「そうゆっくりはしておれんのだ。明後日の朝には戻らねばならぬ」
「まあ、お忙しいこと。でも今日明日は屋敷で過ごされるのですね?」
「うむ」
「では腕によりをかけて、カンベエ様のお好きなものをお作りしなければ」
久しぶりの逢瀬は別れの刻限の定まったものだった。それでも彼女は別れる辛さを思うよりも、今を過ごすことに意識を向けている。
「すまぬな。そなたにはいつも苦労ばかりかけさせる」
「何をおっしゃいます。これほどのこと、苦労の内に入りません」
穏やかに笑って、夕餉の支度を始める妻の背をただ見遣る。着物を重ねた肩の線は驚くほど細く、頼りない。先程は久方ぶりに逢えた嬉しさで見落としてしまったが、は少し痩せてしまったようだ。
「人を雇わぬか」
「はい?」
「この屋敷、そなたひとりで切り盛りすることはできようが、やはり誰か置いた方が良いのではないか」
戦の空気が街にも漂い始め、近頃は何かと物騒だ。女一人で暮らすには、少々心もとない。だがそんなカンベエの心配をは笑って流してしまう。
「一人では、さびしいだろう」
軍属である以上、戦がある内は自由に行動することは不可能だ。何日も何週間も、何ヶ月も連絡を取れないまま日々が過ぎることもある。だから分からない。彼女が一人、この屋敷で泣いていても、涙をぬぐってやることすらできない。誰かに自分の代わりに彼女の傍にいてもらうというのは歯痒いことだが、彼女のさみしさを思えば何倍もマシである。
「カンベエ様……お気遣いありがとうございます。でも」
振り返り、目を伏せ、そっと笑ったは大丈夫だ、と。
「貴方様の無事を祈りながら此処でお待ちするのは、わたくしには辛いことなどではありませんから」
短い休暇の後、軍に戻るカンベエをは笑顔で見送った。そうしてそれが最後、カンベエが彼女の元に再び戻ることは叶わなかった。
「あの戦が終わった後、もう屋敷は残ってはいなかった。いや、街ごとなくなっていた。それでも儂はおぬしを探しておったのだ」
ようやく帰り着いた我が家は、ただ灰になっていた。燃えて炭と化した柱を呆然と眺めて、カンベエは新妻の名を呼ぼうとした。しかし実際に口から零れたのはうめき声にしかならない。笑顔が。あの日カンベエを送り出してくれた彼女の明るい表情が脳裏で霞む。絶望しかけた心を押しとどめたのはその笑顔で。もしかしたらどこかに避難したのかもしれない。彼女は賢い人だから。そう思い、周辺の街を訪ね歩いた。だが何処にも彼女は見つからず、年月だけがいたずらに過ぎていった。
「何処に、一体今まで何処におったのだ」
つい責める口調になるのは、カンベエが諦めることなく彼女を探し続けた証である。生きているのならどうして便りを寄越さなかったのだ。情けなくも憤る夫にはやはり微笑んだ。
「申し訳ございません」
「謝って済む問題ではないのだぞ」
「ええ。充分承知しております」
「!」
言い訳を一切しようとしない妻にカンベエは声を荒げる。がたり、と卓が揺れ、茶碗の中のぬるくなった茶がこぼれる。
「なぜ、訳を話さぬ?なぜ、そなたは儂を責めぬのだ?」
「カンベエ様……」
困ったように首を傾げるその姿はあの日と同じまま、少しも変わらない。大戦後、時の過ぎた分だけ齢を重ねたカンベエと違い、彼女は若々しいままだ。奇跡のような再会に気を取られて気付かないでいたが、事態の異常さにようやく気付いた。
「、そなたまさか……」
考えが其処へ辿り着くことを思考は拒否しているが、一度気付いてしまえばどうしてもそちらへ向かってしまう。驚愕に目を見張るカンベエには薄く微笑み、彼の隣に立つ。
「時間が、きてしまいました。カンベエ様、お別れでございます」
「待て、待つのだ……」
「カンベエ様、わたくしは貴方様に出逢えて倖せでございました。貴方様に愛され、妻になることができて、ほんとうに倖せでした」
花の、香りが強くなる。目の前が幻想のように霞みがかってゆく。それはこの邂逅の終わりを示す。
「ずっと貴方様の隣を歩いていきとうございました。けれど、それは叶わぬ夢」
蜂蜜色の瞳がゆるゆると閉じられてゆく。亜麻色の髪の先が光に溶けてゆく。カンベエは必死に手を伸ばして隣に在る彼女の存在を確かめる。
「!今度こそ、今度こそ待っていてはくれぬか。儂はもうそなたを一人にしていくのは」
言いさしたカンベエの荒れた唇をしっとりとしたやわらかな指先が塞ぐ。濃く、薫る花の香。彼女の好きな、夏に咲く白い花の。
「カンベエ様は、カンベエ様の本懐をお遂げくださいませ」
夫の身勝手な振る舞いを責めるでもなく、あの日と同じようにはただ笑って見送ろうとしていた。
「すぐに、すぐに儂もそなたの元へ参る。此度は待たせはせぬ」
堪え切れずにを抱きしめてカンベエは言うが、腕の中の彼女は笑って言った。
「まあ、カンベエ様。わたくしは貴方様を待つのが好きだと前に言いましたでしょう?あまり早く来てしまわれるとわたくしの楽しみがなくなってしまいますわ」
ほがらかに彼女は笑って、そうして夢は醒めた。目が覚めたカンベエはその前と変わらず大木の根元に刀を胸に抱えていた。だが身じろぎした際に衣からかすかに薫る花の香りに心を深く抉られる。いつの間にまぎれたのか。膝元にしっとりとした白い花弁が散っていた。目を閉じればまだ、彼女の面影が笑いかけてくるようであった。
完成日
2006/12/26