がその求人広告を見つけたのは月曜日の朝刊だった。それはかなり注意深く見ていなければ、恐らく九割以上の人は見落としてしまうほど、その記事は紙面の端っこにちょこっと載っていた。彼女がそれを見つけたのは偶然である。昼食のパスタの彩りに使うきぬさやのすじ取りをしながら、広げられた新聞紙の全域を何気なく眺めていたに過ぎない。それでも後にダンブルドアはこう語る。
「彼女があの記事を見つけたのも、ひとえに“才能”があったからこそじゃ」
今日も今日とてのお仕事は図書室の中で本の整理だ。彼女はホグワーツに来る前は普通にマグル(非魔法族の事をこういうのだとつい先日教わった)の通う学校へ行っていたし、大学を出てから一年ほどはコンピュータ関連の会社に勤めていたこともある。しかし彼女はどうしても本に携わる仕事がしたかった。大学へ行ったのも司書の資格を取るためだったし、卒業後の進路にはもちろん図書館を、と考えていたのだ。しかし哀しいかな、司書としての働き口はそれほど人を必要としておらず、資格を持っているだけの人間なら世の中に溢れている事を在学中に悟ってしまった。流されるままに就職した会社も悪くはなかったが、やはり小さい頃からの夢を諦めきれず、休日にボランティアで図書館の蔵書整理をしていたこともある。彼女にとって本は生活の一部であり、本のある場所が彼女の居場所なのである。それ故に念願かなって図書館に勤務できると決まった時には有頂天になってしまっていた。勤務先が全寮制の学校で教師も同じように寮生活をするだとか、その学校へ行くには汽車を使うのだけれど、それがキングズ・クロス駅の9と4分の3番ホームから出るだとか、そういった他とはちょっと違ったことを見落としてしまっていた。だが一番の誤算はこの図書館の住人、つまり何万冊にもおよぶ蔵書達だった。まさか意思を持って勝手に動き回る本を相手にするとは万が一にも思いもしなかったのである。
「もう、どうして毎日毎日あなたたちはじっとしていられないのかしら。ちゃんと決められた場所にいないと折角図書館に来た生徒さん達ががっかりしてしまうじゃないの!」
腕に数冊、革表紙の本を抱え、はぷりぷり怒りながら所定の位置に本を戻していく。腕の中の本達はつい先ほどまで脱走を試みていたのだが、さすがにこうも毎日続くと追いかける側のにも知恵がついたというか、コツを掴んだというか、とにかく最初に比べれば動き回ったり隠れたり暢気に散歩したりする本達を捕まえる時間がだいぶ早くなった。手際がよくなったとマダム・ピンスに初めて褒めてもらえたのが昨日の夕方の事で、だからの今日の機嫌は悪くはない。朗々とオペラを歌いだした歌曲の本に「静かにしてね」と囁きながら、彼女は午前中の仕事が一通り終わったことを確認した。
「お昼いただいてきまーす」
図書館の入り口に居座るマダム・ピンスに小声で断りを入れ、大広間に向かう。インクと紙のにおい、それと埃っぽい空気から解放されて、歩きながら思いっきり伸びをする。散々梃子摺らされてはいるものの、お昼ご飯を食べて少しの時間休憩をしてしまえば、再び自分の背の何倍もある書架に囲まれる場所に戻ることが楽しみで仕方がない。は本を読むのが好きだ。そうしてそれ以上に、本の存在そのものを愛していた。大広間への二重扉をくぐる間に何人か、既に昼食を終えた生徒達に親しげに話しかけられ、にこやかに対応する。時間が少し遅かったのか、大広間にはまばらにしか人がいなかった。はくるりと辺りを見回し、スリザリンのテーブルの端っこに彼が座っているのを見ると思わずにっこり笑った。
「こんにちはセブルスくん。お隣いい?」
広間の隅の方で、分厚い呪文書をめくりながらリゾットをつついていたセブルスに声をかけると、青白い顔色の少年は驚いて顔を上げた。返事を待たずに隣に腰を下ろしたをセブルスはぱくぱくと口を開け閉めさせながら凝視している。
「今日は何を食べようかな。昨日はパスタだったし、一昨日はサンドウィッチだったから。あら、セブルスくんはトマトのリゾットなのね。おいしそう。私もそれにしようかな」
がそう言えば、すぐに目の前に湯気を上げた熱々のリゾットが用意される。こういった食事風景にも最初は驚いたが、元々順応性がいいのか、すぐに慣れた。猫舌な彼女はスプーンに控えめに取ると、念入りに冷ましてから口に運ぶ。それでも熱かったのか、わずかにしかめられた眉を見て、セブルスは無言で水の入ったグラスを差し出す。礼を言う前に一口冷たい水を口に含み、それを嚥下してからは隣に座る少年ににこりと笑って「ありがとう」と言った。年上の女性の、そのような屈託のない笑みを間近で見た所為で、セブルスは口の中でもごもごと何かを呟いて、そうして僅かに椅子の端に寄った。
「あ、ねえセブルスくん。この後何か予定ある?」
自然と開いた二人の距離を無意識に埋めるように、はそちらへ身体を傾ける。この少年が普段の顔色からは考えられないほど血色のいい頬をしているのにはまるで気付かない。
「……特には」
近付かれた分だけ遠ざかろうと、セブルスは椅子の端に寄る。既にお尻が半分ほど空中に漂っている状態だ。だというのに、はまたもや無邪気に微笑を浮かべながらセブルスが離れた分だけにじり寄る。
「じゃあ少し付き合ってもらえないかな?」
「なっ」
がそう言った瞬間、セブルスは椅子から落ちた。ついでにテーブルの角で頭もぶつけた。
「大丈夫!?」
目を丸くしては慌てて自分も椅子から降りると未だに呆然としているセブルスの顔を覗き込む。あまりに近くなった顔にセブルスが我に返って一層慌てる。しかし彼女はそんなことに頓着せずに、セブルスの頭に手をやって、傷がないかどうか確かめようとする。
「だ、大丈夫だ」
「でもすごく痛そうな音がしたわ」
「痛くなどない……」
と言うセブルスの顔は痛みによって眉間に皺がより、が必要以上に近付くことによって薄赤く染まり、なんだかとても判別しがたい表情だ。
「よ、用事があるのだろう」
「え?ええ。あの、できれば、でいいのだけれど」
話を逸らすためににそう訊けば、彼女は恥ずかしそうに「魔法をね、教えてほしいの」と小さな声で言ったのだった。
その日の午後から、とセブルスの秘密の練習が始まった。人目につかないように裏庭の隅で行われる練習は、初歩の初歩、ホグワーツの一年生が入学したてに始めて習うような基礎から始まった。はホグワーツに来るまで魔法など見たこともなかったという。もしやマグル、あるいはスクイブなのでは?と疑ったセブルスだったが、その疑念はすぐに晴れた。初めて魔法を使った後(妖精の魔法で、物を空中に浮かび上がらせるものだ)コツを掴んだのかの才能は一気に開花し、以後目覚しい成果を見せたからだ。そもそも全く普通の人間をいくら司書補佐だからといって校長が連れてくる訳がないし、ホグワーツが彼女を拒まなかったのだから彼女に魔女の血が流れている事は少し考えれば分かることだった。
「今日はこのぐらいにしておいては」
「ありがとう……そうね、もう日も暮れてしまうものね」
たった一つ、彼女に苦手なことがある。それは飛行術で、箒に乗って空を飛ぶという事が今までの彼女の生活の中では有り得なかったことらしく、中々馴染めずにいる。もう二週間も同じ練習を繰り返しているのだが、いっこうに上手くならない。それでも最初は箒すら手に収まらなかったことを思えば、たった十五センチでも宙に浮かび上がることができている今は随分進歩したと言ってもいいだろう。
「……帰らないのか?」
今日の練習を切り上げて、城の方に戻るかと思えば、は草の上に腰を下ろしてその気配もない。歩き出そうとしていた足を止めて振り返ったセブルスに彼女はちょっとだけ笑って見せた。
「あ、ううん。少しだけ休憩してから帰ろうかな、って。セブルスくんは先に帰っていいわよ。今日も付き合ってくれてありがとう」
「………」
「セブルスくん?」
笑う彼女を見ていたら、帰ろうとしていた足がその反対方向、彼女の隣まで歩いていき、そしておもむろに腰を下ろした。
「前から訊こうと思っていたのだが」
「なあに?」
「必要ないのではないか?」
「え?」
「図書館で、働く分には飛行術など必要ないと思うのだが」
セブルスの突然の問いかけには大きく目を見開いた。その視線を頬で感じ、あまりにも長い間彼女が答えを返さないのでもしや自分は何か気に障るようなことを言ってしまったのだろうか、と不安になる。
「その」
「ああ、ごめんなさい。吃驚したの」
セブルスが口を開くと同時にが言って、そして視線を隣から前に向ける。目の前には深い森が広がっていて、夕闇迫る今、空高く飛んでいる鳥が黒い影になっている。
「そうよね。確かに私には必要ないわ」
「だったら何故。見たところそれほど才能があるとは思えないのだが」
「セブルスくん、きついこと言ってくれるわね」
「……すまない」
思わず言葉に出してしまった、その一言には何でもないように笑って見せた。
「いいのよ。本当のことだもの。やめた方がいいのかもね。才能ないのかしら」
横顔が、淋しそうに見えたのは気のせいではない。夕日が照らす、その表情に声をかけずにいられない。
「飛行術に関してはそのようだな。しかし他ではそうは思わない」
セブルスにはこんな時に気の利いた言葉を言えるような性格ではない。だから思ったことをそのまま口にするしかない。
「あら、慰めてくれるの?優しいのね」
だけどは微笑む。他の誰もが、特にセブルスと同年代の誰もが率直過ぎるセブルスの言葉に嫌悪感を示すのに対し、彼女はただ笑ってくれる。言葉の奥にある、セブルスの真意をきちんと汲み取ってくれる。それは年上だからなのか。嬉しいと思う一方、その年齢差が歯痒く思える時もある。
「そうね、確かに今のお仕事をしていくのなら必要ないのかも。でもつまらないじゃない」
「つまらない?」
「そう、つまらない。だって人生は一度きりしかないのだもの」
だったらたくさん楽しみたいじゃない?そうして微笑む彼女の表情に軽く見惚れる。「楽しむ…」口の中で繰り返すセブルスに頷いて、は座ったまま空を見上げる。その目に映るのは雄大な茜空。空は広い。何処までも続く果てのない、無限。その下ではこんな小さな悩みなど些末なものだ。むしろいつまでもうじうじと悩んでいることの方が勿体無いと彼女は笑う。
「では、これも小さなことなのだろうか」
その笑顔があまりにも明るいので、思わず声に出してしまっていた。言うつもりなどなかったというのに。
「私が今、抱えるこの思いは。が笑うと嬉しい。が泣いていると悲しい。が他の誰かと楽しそうにしていると、苦しくなる……これも、小さなことなのか?」
「セブルスくん……」
「私はそうは思わない。こんな思いをするのは初めてだ。だがこれは、どうでもいいと、そんな風に片付けていいものじゃない」
珍しく饒舌に、僅かに語気荒く自分の気持ちをぶつけてくるセブルスには軽く目を瞠る。少年の、一途な感情は彼女の予想外のことだったらしい。一方我に返ったセブルスは、自分の発言を頭の中で反芻するとそれこそ顔から火が出るのでは、と思うほどに真っ赤になってうろたえた。の視線から逃れるように俯く。しかし彼女は追いかけてきた。
「ねえ、セブルスくん。それって私に都合のいいように取ってもいいのかしら?」
聞こえた言葉に視線を少しだけ上げてみれば。大人ぶった発言とは裏腹に、頬を染めて、まるで少女のように所在無さ気に戸惑う視線を向けてきている。
「だったら私の答えはあなたが思う通りのものだと、思うのだけれど」
26. あなたの答え、あなたが答え
そう言った彼女の頬は、最早この広い空の何処よりも美しい、朱だった。
そして彼の顔も、それと同じ色に染まる。
完成日
2007/11/10