今夜は曇っていて月が出ていないから、どうやってピアノを弾くのかと思えば、私がその部屋に着いた時、部屋は優しいオレンジ色のランプの灯りで照らされていた。最初にこの部屋でピアノを見つけたとき、部屋にはピアノしかなかった。しかし今ではピアノと、私と、そして猫足のチェアが一つ。その椅子に座るのは、黒髪に紅い瞳を持つ整った顔立ちの少年だ。最初にピアノを弾いたとき、誰か聞いてくれる人がいたらいいのに、と。そう心の奥底で思った瞬間に部屋に現れたのが彼だった。
「今の、何て云う曲?」
彼が椅子の肘掛に優雅に凭れながら問う。私は「シューベルトのアヴェ・マリア」だと短く返す。
「ふーん」
曲名以上に興味をそそられるものはなかったのか、彼はそれ以上何を聞くでもなく、椅子に気だるげに身を預けた。多分、彼以外がその格好をすると非常にだらしなく見えるのだろうけれど、不思議と彼はそんな空気を匂わせなかった。そんな彼の格好にかまわずに、私は次の曲を弾くために再び鍵盤の上に指を滑らせる。
「春はまだまだだと思うけど」
花のワルツを弾きだした私の背に声をかける彼にはかまわずに私は続ける。窓の外は雪だ。風が強いから吹雪いてくるのも時間の問題だろう。そんな天気の日にこの曲を弾くなんて、と。諦観に入った彼のため息が聞こえた。
「は無いもの強請りが好きだね」
「そうかしら」
「そうだよ。冬に弾く花のワルツもないだろう。花なんて一個も咲いてないんだからさ」
それでもかまわずに弾ききって、そうして私は椅子から立ち上がる。振り返ると、紅い瞳と視線が絡まった。どうぞ、と言う代わりに横へ身体をずらせば、当たり前のように彼はこちらへ進み出て鍵盤の前に座る。横で見下ろす私を一度だけ見上げて、そうして弾きだした曲はショパン。
「ねえ、嫌味のつもりなのかしら。私にここから出ていけとでも?」
別れの曲をゆったりとした動きで奏で始めた彼に半眼でそう問えば、
「捻くれてるね」
と返ってきた。
「どっちがよ」
「君が。あるいは、僕が」
謎かけの様に難解な言い回しをするのが彼の癖らしい。これ以上言及しても気力が削られるだけで意味が無いことを私は彼に会って三度目で学習した。
「僕は」
白と黒。ランプの光に照らされて浮き上がるモノクロ。音を生み出す指の動きを全く緩めずに、ふいに彼が口を開く。
「別れの曲だ、なんて思ったことはないけど」
「なに?」
聞き返そうとすれば、ちょうど曲の終わりがきて、一旦指を止めた彼は小さく息をつく。そうして逡巡した後、弾きだしたのは聞いたことも無い曲だった。
「ねえ、これ何て曲?聞いたこと無いわ」
「だろうね」
私の問いに彼はあっさり答える。その間にも彼の指は鍵盤の端から端を縦横無尽に駆け巡る。ある時は低く、大地が唸るように。ある時は軽やかに小鳥の囀りのように。そうして優しく、子守唄のようにゆったりと。まるででたらめな弾き方。だけれど、なぜか呆れるような退屈さは無いし、耳を塞ぎたくなるような不快感も無い。
「トム・リドル作曲、頑なな少女に捧げる雪解けの旋律。といった所かな?」
「何よソレ」
怒ってみせる私に、彼はにやりと笑ってでたらめな曲を弾き続ける。指の動きが段々と早くなり、弾かれた鍵盤が必死に音を返そうとしている。そうした中でその曲はふっつりと途切れた。飽きたのか、それともこれ以上弾けないのか。とにかく「頑なな少女に捧げる雪解けの旋律」はでたらめな美しさの余韻を残したまま終わりを迎えたのだ。
「どうして泣くの?」
聞かれて、初めて頬に伝う熱いものが何か、その正体に気付いた。私は一体どうして泣くのだろう?涙は悲しい時、あるいは嬉しい時などに出るものなのではないのか。では私は今悲しいのか?答えはノー。ならば嬉しいのか?ノー、だ。
「?」
彼の声が私の名を呼ぶ。彼が紡ぐ音は、それだけで至上の音楽に変わる。耳にした者の心を奪う、魔性の音の連なり。それは私の涙を乾かすどころか、さらに溢れさせてしまう。
「……め、て…」
顔を覆って、落ちる涙を自らの手で受けながら私は掠れる声で懇願する。首を左右にいやいやと振りながら、後ずさる。彼が、リドルが伸ばそうとしているその青白い指先から、逃げる。
「」
名を呼び、近付いてくるリドルから私は後ろ向きに逃げる。
「やめて。お願い」
来ないで、と。涙声ではっきりと言った言葉に、伸ばされていた指がぴたりと止まった。俯いていた私には、リドルの表情を窺い知る事が出来なかった。その時の彼が、どれほど哀しい顔をしていたかなんて。知る余裕すらなかった。
「どうして」
リドルは静かに問うてくる。私が拒んだ指先は、まだその位置のまま。少し身体をずらせば触れてしまいそうなほど近い距離にある。どうしてかなど、私が聞きたいぐらいだ。私はどうして彼から逃げるのだろう?不安定な私の心情に呼応するように、部屋のランプのあたたかな灯りがふつりと消えてしまった。光源を失った部屋は暗闇が支配する。そうしてしばらく俯いて、床を見つめていた私は。雲の切れ間から偶然差し込んだ月明かりに伸びる一つきりの影にすべての答えを見た気がした。
27. 伸ばした手が空を切るのを、
恐れていた。
だって、きっとわたしは彼にはふれられない。