こんなつもりじゃなかった、と。後から悔いるのが『後悔』である。




28. 奇跡からの逃走




ハーマイオニー・グレンジャーはホグワーツグリフィンドール寮所属の学生である。ホグワーツというのは魔法学校で、当然そこで行われる教育は魔法使いになるためのあれやこれやだ。彼女は元々はマグル、つまりただの人間だったのだが、ある日突然やってきた入学許可証によりこの学校で学ぶことを許された。それは彼女にとってとても誇らしいことだったし、事情がよく呑み込めていないながらも彼女の両親も一応はホグワーツで学ぶことを許してくれた。魔法というおよそ普通の生活をしている、普通の人間には縁のない技術を習得するにはそれなりに修練が必要であった。例えばマグルの子供は箒に乗って空を飛ぶ練習はしない。時たま、例えばアニメ映画やファンタジー小説の影響で、その真似事をしてみることはあっても、実際に飛ぶはずがないのだから結局は『ごっこ遊び』で終わるのだ。しかし魔法族の子供は幼い頃から箒という彼らにとってほとんど唯一の、といってしまっていいほど便利な交通手段を会得するために、あるいはクィデッチという魔法界でもっとも人気のあるスポーツをするために、その乗り方をごく普通に学ぶ。その為、入学してから初めて空飛ぶ箒に触れたハーマイオニーと違って、彼らはいとも簡単に空へ舞い上がって見せた。
「だからといってそれがどうということではないの。誰にだって初めての経験はあるのだし、練習すれば私だってきちんと箒に乗れるようになったわ」
初めての飛行訓練の時のことをハーマイオニーは努めて平静に話そうと最大限の努力をしていた。本音を言えば、あの時彼女はとても悔しかったのだ。教科書を暗記することは造作もないことだったのだが、実技となるとそれはまた別の話だ。魔法薬学のようにきちんとした手順を踏めば完成品が出来上がるという保障はどこにもない。どうしても箒が自分の手の中に納まらない、それどころかちっとも草の上から浮き上がりもしない。その時の惨めさといったら、それまでのハーマイオニーの人生(といってもたった十年ほどだが)で経験したどの出来事よりも屈辱的だった。だがそれを今彼女の目の前に優雅に座る相手に悟られてはならないのだ。
「そうかぁ?俺はこっちの人が箒なんかで空をびゅんびゅん飛び回ることにそもそも疑問を感じたけどなあ」
白磁のティーカップに湯気立つ緑色のお茶、日本の緑茶を注ぎ、遠慮なく音を立てて喉に流し込む金茶の髪の整った容姿の少年はハーマイオニーの言葉にそう受ける。音を立ててお茶を飲むなんて、と眉を顰める彼女に「日本茶はこう飲むのがマナーなの」と本当だか嘘だか分からない理屈を述べて軽くいなすと、持参してきていた菓子袋から丸くて平たい焦げ茶色の菓子(煎餅というらしい)を取り出し豪快に音を立ててかぶりつく。
「東では箒より絨毯が主流なのですってね。確かに乗り心地はそっちの方が良さそうね」
「じゃなくってさ、そもそもなんで空なんか飛ぶの、ってことだよ」
マグルの世界でも魔法族の世界でも国や地域によって文化の違いはある。それが東西になるとより顕著に現れる。今話している交通手段もそうだ。欧州では箒が主流なのに対し、東の国々では絨毯の需要が多いらしい。しかし琥珀の瞳を瞬かせた少年、は異論を唱える。
「移動するだけなら煙突飛行も一緒だろう?むしろそっちの方がマグルに見つかる心配がなくて安全だと思うけどな。まあ俺も煤だらけになるのはごめんだけど」
「煙突飛行はあまり好きじゃないわ。身体の平衡感覚がおかしくなるんですもの」
そう言って肩を竦めるハーマイオニーには軽く笑ってみせる。
「慣れてないとそうなるっていうなー。でも好き嫌いで普通の人間に見つかる危険性を冒してまで空を飛びたがるこっちの人の気が知れない」
「あら、でも東洋の人も絨毯で空を飛ぶんでしょう?」
「まあね。でも俺らに関して言えば別の方法があるから」
俺ら、という言葉の中に含まれるのが彼の従妹の少女ただ一人だと察するのは容易かった。彼にはもう一人、従兄弟がいるのだが(そしてその少年のことがハーマイオニーは嫌いだった)彼がその少年のことを自分と同じカテゴリーで括る事は滅多にない。ということに気付いたのは、入学して数年のことだった。
「別の方法?」
知識に関しての好奇心が人一倍強いハーマイオニーが言葉尻を捉えると、は軽く頷いて「門を開いたら終わりだろ」と答えた。
「門?」
首を傾げる彼女には面倒くさがる様子も見せずに丁寧に説明してやる。こういうマメさが彼のいいところだとハーマイオニーはこっそり胸の内で思った。そうして僅か五分ばかりの簡単な説明であったが、の言う『門』が何であるのか、ハーマイオニーは大体理解して呑み込むことができた。
「つまり、空間同士を繋げるということね。煙突飛行と原理は一緒のようなものだと思っていいのかしら?」
「まあ大まかに言っちゃえばそうなるかな。こっちでは煙突っていう器と煙突飛行粉っていう媒介が必要で、尚且つあらかじめ決められた場所にしか飛べないようになってるけど」
身を乗り出すようにして真剣に聞き入るハーマイオニーにちょっと照れたように苦笑いをして、続ける。
「俺らが使う門にはそんな制限ないから。もちろん結界が張ってあったりしたら、ちょっとやそっとの力じゃ破れないけど、の親父さん――の家の当主に敵う奴なんかこの世に数えるほどしかいない」
その感情を何と名づけたらいいのだろう。いつもは甘くまるで砂糖たっぷりの生クリームのように魅力的な琥珀の瞳が、まるで鋭く肉片に突き刺さる刃のように尖った光を宿した。尊敬、憧憬、そのどちらも正しいような気がしたが、どちらも間違っているような気さえする。“の家の当主”とは、彼にこんな顔をさせるのは一体どんな人物なのだろう。ハーマイオニーは考えるが、分からない。そんな彼女の思考を打ち切るためにか、は再び元の人好きする(特に女の子受けがいいとされる)甘い笑みを浮かべる。
「それよりさ、いいかげん本題に入らない?」
「…………う」
言葉に詰まったのはの微笑が原因ではない、と言い切る自信のないハーマイオニーは膝の上にずっと乗せていた薄い本に思わず視線を落とす。本の題名は『あなたもこれでパーティーの華に!誰でも踊れる社交ダンスの基本』。クリスマスに行われるダンスパーティーにダームストラングの代表生であるクラムに誘われてしまった。ハーマイオニーは彼に好意(ただしそれが恋だとは言いがたいのだが)を持っていたので誘いには笑顔で応じたが、困った事に彼女は踊れなかったのだ。全くステップを踏む事ができないというわけではない。クラムに誘われて以来、ダンスの基礎が載っている本を片っ端から読みふけったし、夜中にこっそり談話室で練習してみたりもした。しかしどうにも身につかないのだ。困り果てて誰かに相談しようにも、ロンやハリーなんて論外である。こういう時に気軽に相談できる異性がいないことに少々がっかりしつつ、東国からやってきた友人になかば愚痴るようにこぼせば、彼女はあっさりと「に言えば?」とのたまった。その手があったか、と早速彼女を通じて呼び出してもらい、こうして放課後の空き教室に二人きりで対峙したのはいいものの、今度はどうやって切り出していいのかが分からずに結果長い脱線をしてしまったと言うわけだ。
「ハーマイオニーは一体俺に何の用なの?」
「それ、は……」
まさか他の人と踊るためにダンスの練習相手になってくれ、だなんて。いくら何でも失礼じゃないだろうか。目先の問題を解決するのに頭がいっぱいになりすぎていて失念していたが、よくよく考えると相手の事をちっとも考えていない。どうやって言い出そうかとハーマイオニーがぐるぐる考え込むのを真正面から琥珀の瞳が捉える。しばらく無言で眺めていたが、ハーマイオニーから何か言う気配はない。元々は我慢強い方ではないし、飽き性だ。本当はハーマイオニーがどんな顔をしながら自分にダンスの手ほどきをして欲しいと頼むのか見てみたかったのだが(従妹の少女にあらかじめ聞いていたので知っていたのだ)、彼はあっさりとそれを諦めた。
「まあいいや。じゃ立って」
「え」
さっと立ち上がり、ハーマイオニーの横に回ると未だに思案中の彼女の手を取る。
「あ、あの?」
「ほらほらちゃんと立つ!背筋ももっと伸ばして、手はこう。しっかりつかまって。で、俺が腰支えるけど」
「きゃあ!?」
が急にハーマイオニーの腰に手を当てたものだから、彼女は驚いてその手を反射的に振り払ってしまっていた。ばちん、と音がして、慌てて見上げると綺麗な造作の顔が少しだけ歪んで見えた。
「……できれば振り払わないであげて。男にとっちゃ結構きついから、その拒絶」
「ご、ごめんなさい!私、その、いきなりで、びっくりして、あの、その」
「や、まーいいけどさ。本番ではやるなよ?」
「ぜ、善処するわ」
「じゃあ改めて」
ぐい、と腰を掴まれて引き寄せられる。自然と近くなった距離に赤くなった顔を隠すように俯くと、頭の上から嗜める声がする。
「こら、俯くな。ダンスは姿勢が基本なんだから」
そうは言ってもあの綺麗な顔を、まるで奇跡みたいに美しく整った造作を間近で見るのはかなり至難の業だ。の従妹の少女は生まれた時から傍にいる所為か、見飽きてしまったからか、はたまた元々そういったものに興味が湧かないのか。さして気にした様子も見られないのだが、しかしハーマイオニーだってちゃんとした普通の女の子だ。かっこいい男の子にはときめいたりもする。現に今、彼女の頭の中はどうしてもっと丁寧に髪を整えてこなかったのか、お昼ご飯の時にシャツに飛ばしてしまったトマトソースはちゃんと隠れているだろうか、手の爪の間に入ったインクを見られたりはしないだろうか、などといった心配事で占められてしまっている。考え事をするものだから、どんどん顔は下を向いていき、頭上でため息が聞こえて慌てて見上げると、金茶の髪が窓からの夕陽に照らされて赤銅色に染まって見えた。
「あ……」
同じように夕陽が入って朱に染まった琥珀の瞳に捉われて、動けなくなる。見上げる目線にこんなに差があっただろうか、と月日の速さに瞠目する。確か数年前までは同じ目線で、同じように物事を見ていたはずなのに。今では頭一つ分、彼の方が大きい。どうしてだろう、そのことがとても悔しい。ハーマイオニーだって、同じ年月を経て成長しているはずなのだ。それなのに目の前に立つ男の子が別人のように思えてならない。そう思わせるほどに変化した彼に嫉妬を覚える。
「……」
ふ、と彼が口元だけで微笑んだ気がした。鼻先に吐息がかかるほど密着した距離で、何かの弾みがあればキスの一つでもできそうな、そんな至近距離で見た微笑は、ハーマイオニーの頬を一瞬で朱に染め上げる。
「そう、そうやって俺を見て。視線はずっと、パートナーに。ステップなんて本当はでたらめでもいいんだ。相手に任せておけばいい」
甘やかに響く声。それから始まったダンスの練習、その間中、ハーマイオニーの心臓はどきどきとうるさく動悸を早めていた。こんなつもりじゃなかったのに、と。彼女は心中で小さく呟く。これではまるで、彼に恋をしてしまいそうになる。奇跡のような二人きりの時間、逃げ出したいのに琥珀の瞳に捉われた視線は、絡めたまま逸らせない。


完成日
2007/02/21