29. どうせなら愛してると叫べば良い
先日ピオニー陛下の執務室でうっかりばったり倒れてしまったは、その後三日間熱を出してベッドから起き上がれなくなってしまった。畏れ多くもマルクト皇帝の学友と言う立場にある以上、やってはならない失態だ。いや、学友というか、実際はピオニーの政務の手伝いみたいなことをやらされているのだけれど。それでも皇帝陛下の御前で、意識を手放すなんて。妙齢の婦人にとってはあるまじきこと。いつの間にかが倒れたことが故郷まで伝わっており、ようやく起き上がれるようになるまで回復した四日目には、実家に住み込みで働くメイドのブランシェから淑女のたしなみなるものは、という類の説教の分厚い手紙が枕元に届けられていて、いっそのこともう一回倒れてやろうかと思うほどはうんざりしていた。
「失礼しますよ」
ドアの外でノック音が、リズム良く二回鳴らされた後、入ってきたのは鬱金色の髪をたなびかせる美丈夫。紅い双眸をレンズの奥に隠し、ついでに本心さえもどこかへしまいこんだ第三師団の師団長様だ。彼はに与えられた部屋に何の気兼ねも無く訪れると、その部屋の有様におやおや、と眼鏡の奥の瞳を細める。
「大佐……」
「ジェイドでいいですよ」
「あの、どちらでもいいので、コレ、何とかしてください」
「そうですねぇ」
ふむ、とそれらしく頷いて思案するジェイドは改めて部屋を見回す。学友として、だが所詮は落ちぶれた男爵家の末娘に与えられた部屋はそれほど広くは無い。一応寝室と、客間の続き間二つを賜っているものの、日当たりだけが良くて部屋の広さも装飾もグランコクマの宮廷内では質素、と分類されるに値する。このことを初顔合わせの後知ったピオニーが、もっと自分の居室に近く尚且つ倍以上広い部屋を与えようとしたのだが、は頑なに固辞した。曰く広すぎると落ち着かないのだそうで。その純朴さがピオニーの心を更にがっちりしっかり掴んだことなど彼女は露も知らない。だがはあの時の選択を非常に後悔していた。なぜならば、今、の私室はむせかえるような花の香りで充満しているからである。見渡す限り花、花、花。赤や黄色や桃色、橙に白と色とりどりの様々な花がの部屋を埋め尽くしていた。窓を開け放してはいるものの、香りの強い薔薇や百合などは強烈に個性と存在感を主張する。花の香りに酔ったが青い顔をしているのは、何も体調不良ばかりが原因ではないだろう。
「陛下も意外とマメですね」
「そういう次元の問題じゃない気がします」
そう。この花の贈り主はピオニー以外に他ならない。が倒れて以降、仮にも一国の頂点に立つ人物がおいそれとほぼ民間人に近い彼女の見舞いに行ける訳も無く。訪れる代わりに朝目覚めた後、三度の食事前、そして夜就寝する前の計五回、抱えきれないほどの花束を贈って寄越すのだ。
「最初は嬉しかったですよ。素直に。だって花を贈られて嬉しくない女性なんていないですし」
しかしその初回に陛下へとお礼の言葉を届けてもらったのが間違いだった、とはこめかみを押さえながら項垂れる。皇帝という立場にいる人は限度というものを知らないのだろうか。次々と運び込まれる花に熱を出しているのにも関わらず、茫然と立ち尽くしてしまったのは初日。二日目には花を活ける花瓶が足りなくなり、三日目には寝室がいっぱいになった。そうして四日目の今日。ジェイドをもてなす為紅茶を入れて差し出すそのテーブルの上は花で埋め尽くされていた。見れば一組しかないソファの上にも花が置かれ、本来なら人間が座るはずのスペースは完全に乗っ取られている。必然、立ったままお茶を飲む事になるのだが、ジェイドは気にした様子もない。
「グランコクマの花屋が開店休業状態なのはあなたのおかげですか」
「え、そうなんですか?」
ストレートのお茶のはずなのに、なぜかフレーバーティーを味わっているような気がする。それほどに濃い花の香りに囲まれながら言ったジェイドの言葉にが驚いて顔を上げる。見上げてくるその顔は確かに綺麗とは言い難い。だが知性を秘めた茶色い瞳が輝く様を、そばかすの残る白い肌を真っ赤にしてうろたえる様を、小柄な体で懸命に動き回る様を少しでも見て、知っているジェイドはそんな彼女をやはり可愛いと思うのだ。思うにの魅力は噛めば噛むほど味が出てくるするめのようだ、と。一見しただけでは確かに綺麗に着飾ることに長けている貴族の令嬢達に劣るのだが、彼女の本来の魅力は行動する本人に接してみて初めて分かるものだ。
「どうしよう、陛下が花を買い占めている所為で商売ができないなんて」
困ったようにおろおろと視線を彷徨わせる。自分より十も年下の女性に思わぬ庇護欲をそそられて、ジェイドはピオニーが執心するのも分かる気がするとこっそり頷いた。
「安心なさい。陛下は相場の二倍近くの値で取引しているはずです。店主にとってみれば願ってもないことでしょう」
「そういう問題じゃないですよ!もしこの四日の間に誰かに花を贈ろうと考えた人がいたりしたらどうするんですか!?お花は全部ここにあるんだし、贈るものが無くて困っているかもしれないじゃないですかっ」
ジェイドとしては、花屋の主人のことを心配しているのかと思って口添えをしたのだが、の心配はどうやら別の場所にあったらしい。花屋の主人は商品が全部売れてしまえばそりゃあ嬉しいだろう。しかも相手は皇帝陛下。支払われる額もすごいが、皇帝という名を以後利用できるというのは商売人にとっては願ったり叶ったり、といったところだろう。けれど花を買い求めに来た一般の人はどうだろう。店を訪れても買うべき花が一本も無い。その状況はどれほどその人をがっかりさせただろうか。はもうほとんど泣きそうになりながらどうしよう、どうしようと部屋中を歩き回って思考を巡らす。けれど病み上がりの人間に大した案が浮かぶはずも無く。ほどなくして体力を使い果たした彼女は事もあろうに、ジェイドの腕によって隣の寝室へと運ばれていったのだ。
「すみません大佐……」
「ジェイド、でいいと言ったはずですが?」
暗に自分の名を呼べと圧力をかけてくる第三師団長には閉口する。こっちは病人だっていうのに、何だこの扱いは。そりゃあベッドまで運んでもらったりしたけれど。こんなこと、様子を見に来てくれるメイドの人達に言えやしない。ただでさえ陛下の傍に侍る事が出来る私を羨望の眼差しで見ているのだ。ここで大佐にお姫様抱っこされちゃいましたー、なんて言った日には質問攻めが来るに決まっている。グランコクマへやって来たのはただ退屈を凌ぎたいだけであったのに、莫大な報酬に心を動かされただけだったのに。どうしてこんな目に遭うのだろう。災難だ。
「〜?眉間に皺が寄ってますよ」
にこやかに告げるジェイドにため息が出そうになるが何とかこらえた。
「陛下から貴女の様子を見に行くように仰せつかったのですが、これでは当分は復帰できそうにありませんねぇ」
「申し訳ないです……」
「気落ちする事などありませんよ。慣れない環境で疲れがたまっていたのでしょう。遠慮せずにゆっくり休みなさい」
「はい……そうしたいのですが」
はそこで言葉を切って視線を部屋の隅からぐるりとめぐらせる。それに気付いたジェイドが心得たように彼女の言いたい分を汲み取った。
「ああ、陛下には私から言っておきましょう。過度なプレゼントは却っての心労を増すばかりだと」
「重ね重ね申し訳ありませんが、よろしくお願いします」
「謝る必要などない、と言いませんでしたか?」
ふと、ジェイドの紅い双眸がやわらかく細められる。この人はこんな風に笑うこともできるんだ、とがぼんやり思っていると、口元を笑いの形に吊り上げた大佐殿は、の額に張り付いた赤みの強い茶色い髪をすくと、いきなりそこへ唇を落とした。
「は……あ、の…?たいさ………?」
「ジェイド、ですよ?」
気が遠くなりそうだった。むしろこのまま意識を手放してしまいたい。
「陛下ばかりがあなたに構うのは面白くないもので」
混乱を極めたの耳朶に優しく響く声は、甘く囁く。
「先日のプロポーズ、私は本気に取ってもらってもかまいませんよ?」
今度こそ、は気絶した。目が覚めたら全部が夢であってほしい、と切に願いながら。