目の前に聳え立つ古くゆかしい建物に思わず感嘆の息を漏らさずにはいられない。ほう、と漏れたため息はうっとりと甘い空気を伴っていて。それはまるで恋を語る詩人のようだった。
「ああ、なんて素敵なの…!この図書館!!」
そう。私は自他共に認める本の虫。今日からこの氷帝学園の図書館で見習いアルバイトをするのだ。心はうきうき。そりゃあ心拍数も上がるってものよ!うずうずし始めた両手をわきわきと握ったり離したり、していたら不審人物と思われたのか、背後に視線を感じ、ひそひそと囁く声がする。いけないいけない。折角この図書館で働けるんだから。振り返ればこちらを見ていた制服姿の男女二人組み(恋人同士かしら。青春ねえ。若いわねえ)がびくりと肩を震わせた。そんな彼らににっこりと微笑みかけて、私は数段ある石造りの階段を喜びを噛みしめながら上ったのだ。




30. きみの世界を見てみたいんだよ




「じゃあこれで基本的な仕事の説明は終わりね。本格的に始めてもらうのは明日からね」
「はいっ。ありがとうございました。明日からよろしくお願いします!」
務めて二十数年というベテランの司書さんから一通り仕事の説明を受けて、頭を下げれば頭上でくすくす笑う声がした。
「あの…?」
「ああ、ごめんなさいね。大学部の先生から紹介していただいたときにはどんな子が来るのかしらと少し心配していたんだけれど。貴女、本当に本が好きなのね。見ていて微笑ましいわ」
「はい!って…あの、えっと……?」
「目。貴女ずっと目がきらきらしているんだもの」
「だって私本が大好きなんです。氷帝の図書館は蔵書数も貴重書の数も多くて都内では有名ですし、何よりこの雰囲気!古い建物なんだけど、とても落ち着きます。こういう場所が大好きなんです」
思わず力を入れて喋ってしまうと、目の前の司書さんはそれは嬉しそうに微笑んだ。
「そう言ってもらえてこちらも嬉しいわ。明日からよろしくね」
「はい!」

今日はもういいということなので、館内をうろついてみる。さすが金持ち学校!様々なジャンルの本を余すところなく網羅している。氷帝の大学部は総合的に色々な学部を備えているから、自然と蔵書にも幅が出るんだろうけど。大きな棚を見上げながら歩いていたらぶつかってしまった。鼻の頭に小気味良くキスをくれたのは中世ヨーロッパの宗教絵画を集めた美術書だ。キリスト教には興味はないけど(だって私仏教徒)古めかしい皮の装丁は、相当の年月が経っているらしく、飴色になっている。良く見たらこれって明治期の本じゃないの?気付けばなぜか愛しさがこみ上げてきて、頬ずりしていた。ああ、明日から私がこの本を一冊一冊管理していくのね!改めてこみ上げてきた無限大の喜びを今すぐ叫びだしたい気分だったけれど、そんなことをまさか図書館で出来るわけもなく。
「いい……氷帝の図書館最高……」
一人怪しく呟き続けながら指で本の背を辿っていった。……ら、今度は横を見ていなくてまたもやぶつかった。しかも今度は人に。
「わっ」
ころん、と。そんな表現が本当にふさわしいぐらいにあっけなく私は床に転がっていた。ぶつかったのはどうやら男の人らしい。がっしりした身体は私がぶつかった衝撃をそのまま返してくれて、そのおかげで私は今図書館の床にがっつりチューする体勢となっている。
「ごめんなさい!大丈夫ですか!?すみません俺全然気付かなくって!!」
「いい……氷帝の図書館、床も最高……」
上の方から何やら声が聞こえるけれど、そんなことは微塵も耳に入らない私はすりすりと毛足の長い絨毯に頬ずりを繰り返していた。何で図書館の床なのにこんなに気持ちいい絨毯が敷いてあるんだろう。思わず自分の家にある在庫一掃セールで買った傷あり難ありの安っぽい化学繊維の絨毯を思い浮かべる。いいなあ、こんなふっかふかな絨毯。ちょっと余った分とか分けてくれないかなあ。倉庫とかに行ったらないかなあ。バイト代、現物支給でもいいかもしれない。
「切れ端でいいんだけどなあ」
「え?あ、あの大丈夫ですか……どこか頭でも打ったんじゃ」
あまりにも長い間床に寝転がり、あまつさえ彼にとっては意味不明な言葉を吐いた私を本気で心配したのか、上からの声が心配そうにこちらを窺っている。いけないいけない。本日二度目の失態だったわ。
「えーと大丈夫です。これが私の標準装備です。どこもおかしくなんてないので」
とりあえず上体を起こしてその場に座れば、同じように床に屈んでいる先ほどから私を心配し続けてくれていた声の正体が分かった。色素の薄い髪に温和そうな顔をしている。人懐こそうなその表情は今はへたりと眉毛が下がっていて、ああ何だか犬みたい、なんて思ってみたり。
「あの、全然大丈夫そうに見えません…」
語尾が小さくなりながら彼は言った。チェックのアイボリーのズボンに臙脂のネクタイ。グレイのセーターを着ているということは中等部か高等部の生徒さんかなあ。彼の心配をよそに勝手に推測していると、「とりあえず、立ちませんか」と心底困ったように言われた。いくらこの図書館が広くて、しかもこの場所が結構奥にあって滅多に人が来ないといってもずっと床とお友達状態ではマズイ。うなずいて立ち上がろうとすると、すっと手が差し出された。
「どうぞ」
自然にそうやって差し出された手をまじまじと見てしまい、目の前の男の子は益々困ったように首を傾げる。いやいやこの御時勢、見ず知らずの人間にいきなりこうやって親切出来る人間なんて滅多にいないよ。さりげない感じにできてるからきっといつもこの子はこうなんだろうなあ。いい子だなあ、と思いながら「失礼します」と厚意に甘えて手を掴む。ごつごつした骨っぽい手だった。豆でもできているのか、固い感触が伝わってくる。
「本当にすみません。俺、集中しだすと周りが見えなくなるみたいで」
立ち上がった私に深々と頭を下げたその子は何と言うか、とても背が高かった。180あるよ、絶対。だって目線が全然違う。自己申告で身長152の私なんか豆粒みたいだ。
「いやいや気にしないで。前を見てなかったのはこっちもなんだし」
「でも転ばせてしまいましたし……」
「こんなの転んだ内に入らないですよ。ふっかふかの床なんだもの。そりゃあアスファルトとかに勢い良くずっこけて膝とか擦り剥いて血とか出たら文句言うだろうけど。だから気にしないでくださいよ。ね?」
「はい……」
頑なに自分の所為だと言い張る少年を何とか言い含めて納得させる。素直そうに見えて意外と頑固だな。この子。
「えっと、邪魔してごめんなさい。ゆっくり見ていってね」
そう言ってその場を立ち去ろうとすると、はしっと腕をつかまれた。
「………?」
「あ、すみません!その、……えっと俺…」
「はい?」
「すみません……」
何故だか一瞬赤く上気した少年の頬は、小首を傾げて見上げた私を見るとしゅんと俯いてしまった。
「いえ、じゃあ私はこれで」
疑問符をいくつも頭上に浮かべながらもその場を後にする。来た時と同じように吹き抜けの玄関ホールを抜けて、再び眼前いっぱいに氷帝の図書館を見る。ああ、やっぱり素敵だ。冬の最中だから壁に張り付いている蔦は枯れてしまって葉なんて一枚もないけれど、夏になったらそれは綺麗なグリーンをこの赤茶の煉瓦に添えてくれるんだろうな。改めてこんな場所で働ける自分の幸福を噛みしめた。
「おし、明日から頑張るぞ!」
自分に気合を入れてその日は帰途についたのだった。

「はあ……」
部活終了後、制服に着替えている最中に大きなため息をついた後輩に振り返る。
「どうした長太郎。図書館で調べ物終わらなかったのか?」
「いえ、それは大したことじゃないんです。あの、宍戸さん」
「なんだ?」
「ウチの図書館って大学部の人も使うんですよね?」
不意に真剣になって訊ねてくるから何事かと思えば。質問に首を傾げて、それでも律儀に答えてやれるのがこの男、宍戸亮のいい所だろう。
「さあ、俺はあんまり詳しくねえけど。敷地内にあのでっかい図書館しかねえからそうなんじゃないのか」
「そうですよね。じゃあ大学部の人なのかな、制服じゃなかったし」
「誰がだ?」
「昼間会った人です。俺の不注意からぶつかってしまって。怪我はしてないからいいって言ってくれたんですけど。やっぱり気になりますから」
「本人が気にするなつってんならそれでいいじゃねーか」
宍戸は確かにいい奴だったが、少し鈍いところがあるようだった。後輩の、気になる理由というものを全く汲み取れていない。確かに彼女は気にしないでいいと言ったのだが、今鳳が気にかけているのはそのことだけじゃないのだ。
「まあ、同じとこに通ってんならその内会えるんじゃねーの?」
「そうですよね!よし、俺明日も図書館行きます」
「お、おう……練習には遅れんなよ」
「はい!」
宍戸が何気なく言った一言に元気よく返す鳳はまだ知らない。彼がほんのりと恋心を抱いてしまった相手がかなり特殊な性格をしているということを。この恋、前途多難。



図式的に
長太郎→主人公→本
という有り得ない構図です(笑)

完成日
2007/12/02