いつまでも可愛い可愛い市だと思ってたのに!

「何でそんなに機嫌の悪い顔してるんですか」
あたしの不機嫌さをびしばし感じて、よせばいいのに様子を窺うのは俊輔だ。縁側に腰掛けたあたしに、おずおずと後ろ側から声をかけてくる。きっと又、晋作辺りにけしかけられたんだろう。彼の性分は損をしやすい。可哀想に。だけど今日は同情している余裕など無い。秋深まる萩の城下、小春日和の陽射しが心地良い。だけどムカつく。
「なんで?」
ジト目で睨んでやれば、
「ひえっ」
情けない悲鳴を上げて首を竦める。ああ、もうホント不憫な子。でも今はあんたに同情している余地がないのよ。恨むならあんたをここに寄越した晋作を恨みなさいよね?だから大人しくあたしに八つ当たりされてろ!

「……と、いうわけで。散々八つ当たりはされたんですけど、肝心のさんが怒ってる理由がさっぱりで」
夕刻になり、戻ってきた俊輔を松下村塾で待っていた塾生達が早速囲んで成果を問い質すが、期待も空しく空振りに終わった。
「駄目じゃったか」
は何を怒っちょるんかのう」
けしかけた高杉がそれほど残念そうにみえない調子で息をつき、久坂がしみじみと呟く。
「理由は分からないんですけど、あれは相当頭にきてますよ」
俊輔の続ける言葉にその場の全員が押し黙る。
「そりゃあ……マズイのぅ」
「ああ、マズイ」
「マズイですよね」
マズイマズイと三人が言う中、少し離れた座敷の隅で品川が件の中心人物である山田市之允と膝を突き合わせていた。
「何をやったか身に覚えはないんか」
「ない」
幼い顔立ちに似合わない渋面を作って、品川の言葉に首を振る。
「困った。が何を怒っちょるんか、理由が分からんと手の打ちようがない」
「市ィ、本当に心当たりはないんか」
「ひとつも」
高杉の言葉に再度首を振る市之允に、その場の全員がため息を吐き出さずにはいられなかった。

「それで、一体何を怒っているのですか」
「聞きますか、それを」
同時刻、同じ敷地に建つ杉家の本宅にある座敷にて、は吉田松陰と茶を飲んでいた。どういう繋がりがあるのかと周囲は首を傾げるが、二人は茶飲み友達だった。本人達曰く、ただ気が合ったからという、それ以上でもそれ以下でもない理由があるらしい。村塾の建物の方で、まさに今、同じ話題が繰り広げられているとは露知らず、穏やかに話を向ける松陰に、はうんざりとした顔を返した。
「聞いてはいけませんか?」
あくまで柔和に、笑みを崩さないまま松陰は尋ねる。
「言ってもいいですけど、多分、ひきますよ?」
「おや」
の忠告に松陰は少しだけ目を丸くしてみせる。としては、そのまま松陰が引き下がってくれるのを望んでいたのだが生憎彼はそうしなかった。目の前の優しい面立ちの彼が実は相当な頑固者であることを改めて言うまでも無くは知っている。何しろ自分の理想の為には言論すら憚らない。過去には異国船にこっそり乗り込んで亜米利加だとかと目指そうとした男だ。このまま誤魔化されてくれるような人間ではない。
「ずっと弟みたいに思ってたんです」
仕方なく、ぼつぼつと歯切れの悪い調子で語り始める。
「家が近所だったし、あたしには下に弟も妹もいたからついでに面倒みるつもりで小さい頃からずっと一緒で」
松陰には彼女が誰の事を言っているのかすぐに分かった。だから余計な口を挟まずに、ゆっくりと彼女が自分の心情を吐露するのを待ち続ける。
「ここに通うって聞いた時はびっくりしたけど、でも、まあ市もいつかは家を継ぐんだろうし、それに今のこの国をどうにかするんだっていう心意気は立派だから許してあげたんだけど」
「ふふ、許して『あげた』ですか」
「そうです!許してあげたんです!」
彼女の言い様に思わず笑みが零れる。そんな松陰が気に入らなかったのか、はむっとして目顔で不満を訴えてきた。だがすぐにその表情が翳りを帯びる。
「村塾に通うようになって、市、変わっちゃった」
ぽつりと呟かれた言葉。
「ここに来ればたくさんの人と話す機会があるし、市の人見知りもちょっとは直るかなって」
「そうですね。彼も最近は以前よりは発言を躊躇わなくなりましたよ」
初めてやって来たとき、少年は小さな身体に溢れんばかりの志を持っていた。だがそれを表に出す方法を心得ていなかったようだ。松陰が話を向けると、何か言いたげに顔を歪ませるものの、周囲の勢いに圧倒されてしまうのか、口を噤んで俯いてしまっていた。
「晋作などがよく面倒をみているようですね」
松陰の覚えもめでたきあの青年。師である松陰は純粋に褒めようとしたのだが、その名を出した瞬間、目の前の少女の機嫌が一気に下降した。
「晋作〜ぅ?」
まるでその辺の柄の悪いチンピラのような目つきと声である。一応目の前の少女はそれなりに高い石高を持つ家柄なのだが。ようやく松陰はの機嫌を著しく損ねている原因に思い当たった。
「晋作がどうかしましたか?」
原因となった人物の名をそれでも平然と口にするのだから、松陰も中々の食わせ者である。それでいて、にこにこと穏やかな笑みを少しも崩さないのだから性質が悪いことこの上ない。
「し、ん、さ、く、が!!」
怒りのあまり、頬を染め、一音一音はっきりと区切るようにその名を叫ぶ
「晋作が!あの馬鹿が!あたしの市をよりにもよって、ぎ、ぎ」
「ぎ?」
の言葉が続かないことに首を傾げる松陰の元に、「妓楼じゃ」と続きをきっぱり告げる声がある。その方向に首を向けてみれば、何やら機嫌のよさげな晋作とその後ろに市之允がしかめっ面でついてきていた。
「嬉しいのぅ。が僕の名前をそんなに大きな声で言うてくれるとは」
にやにやと人の悪い笑みを浮かべながら晋作はを見る。その晋作へきつい視線を向けて、は噛み付くように彼へ詰め寄る。
「どの口がそういう事を言うの!あたしの可愛い市を誑かしておいて!」
「誑かすとは心外じゃのぅ。妓楼に連れて行ったんがそんなに気に入らんか」
「当たり前じゃないの!」
どれだけ睨んだとて、娘子の可愛らしい顔では迫力にいまいち欠ける。
「うひゃあ、またやり始めちゃったんですか」
垣根の向こうからひょいと顔を出した俊輔が二人の喧嘩に首を竦めながら縁側に座る松陰とその傍らに立つ市之允の元へやって来る。
「高杉さんもいい加減に素直になったらいいのに」
「利介、どういうことだい?」
俊輔へ不思議そうな顔を向ける松陰。この師は色恋沙汰にはとことん興味が無いらしい。故ににぶい。説明する羽目になった俊輔は、ちらりと市之允の表情を窺う。だが年下の少年はむっつりと黙り込んだまま、不機嫌そうに晋作との喧嘩を見ている。
「いや、だからつまり、高杉さんはさんに惚れてるっていうか」
「へえ、そうなのかい?」
「でもほら、高杉さんはあの性格でしょう?ちょっかい出すばっかりでいつもさんを怒らせてしまうんですよね」
「ああ、何となく分かる気がするね。もあれでいてうぶな娘だから」
「………」
あんたが言うな、と俊輔は思わずつっこみを入れる。そんな二人の傍にいた市之允だが、ふいに踵を返すと、すたすたと晋作との元へ歩み寄る。

「何じゃ、市ィ」
「何、市?用事なら後にして」
寡黙な少年の声に、二人が一斉に振り返る。だが市之允はの腕を掴むと、
「帰る」
「え?え?市、ちょっと待って」
呆気に取られる一同を残して杉家の敷地から出て行ってしまう。一応師への挨拶だけは、忘れずにいた。門を潜ったところでちょこんと頭を下げて、後はを連れて去って行った。
「ま、待たんかい市ィ!帰るなら一人で帰ればいいじゃろう!」
はたと我に返った晋作がだいぶ小さくなった(いや、二人とも元々そんなに大きくないのだが)市之允との背に向かって叫ぶも、後の祭り。
「うひゃあ」
「おやおや」
俊輔はお決まりのように気の抜けた声をあげて首を竦め、松陰が小さな弟子と茶飲み友達である少女の後姿を見送りながら、更には置いてきぼりを食らった晋作を眺めてさして大したことでもないように呑気にすっかり冷めてしまった茶を啜った。

黙々と歩みを進める市之允に、最初は理由を尋ねるために声をかけていただったが、その内に諦めて無言で従うことにした。何故だか市が怒っている。彼女に分かるのはそれだけだ。
「市?」
それでもさすがにいつまでも沈黙なのは気まずいし、息苦しい。勇気をふりしぼって声をかけてみるが、
「何じゃ」
「えーっと」
「……」
続けられなくて、再び黙り込んでしまう羽目となった。先程よりもさらに重苦しくなった空気にが耐えられなくなりそうになった頃、ふいに市之允が口を開く。
は、高杉さんを好いちょるんか」
「はへっ!?」
予想外の方向からの質問に答える声が裏返る。驚きすぎて間抜けに口を開けたままの幼馴染の少女の顔を、市之允は見上げる。
「いやいやいや、何で?なに、そのすっごい不名誉な誤解は!?」
「好いちょらんのか。なら、ええ」
の答えに仏頂面が少しだけ緩んだ。久々に見た市之允の笑い顔には思わず目の前の頭を撫でてしまった。
「可愛いなぁ、市は。心配しなくても高杉の阿呆からはあたしが守ってあげるからね」
にとってそれはごく自然に生まれた言葉だった。幼馴染の山田市之允は、自分より年下で、幼い頃から弟妹達と共にまとめて面倒をみてきた。昔も今も『幼馴染の市之允』は実の弟同然で、守ってあげなくてはならない存在なのだ。だが、市之允にとって、それは違ったらしい。狭い歩幅で歩き続けていた足がふいに立ち止まる。
「いつまでも『弟』のままなんか?」
そう言った、市之允の表情には戸惑う。姿も、声も。昨日までの『可愛い市』と何の変わりもないはずなのに。なのに、どうしてだろう。まるで別人のようだ。
「市……?」
「僕は、の弟になんか、なりたくない」
をまっすぐに見上げてくる市之允の大きな瞳。その両の眼に宿る光のあまりの強さに、は思わず顔を逸らしてしまった。いつの間にこんな表情をするようになったのだろう?はどくどくと早鐘を打ち始める己の鼓動を胸元を抑えながら必死で静めようとする。市之允が怖いわけではない。でも、この場で二人、いることが酷く恥ずかしいような気持ちになる。だけれど、ああ、そういえば。片手はいまだ、市之允に繋がれたままだった。それ故に、走って逃げることすら叶わない。
「弟でなんかいたくないんじゃ」
小さな呟きとともに、繋がれた手に一層力が込められた。




02. あんな表情、知らない




どうしてだろう?市はいつまでも可愛いままだと思っていたのに。
今、確かにこの年下の幼馴染に男の人を感じてしまう。




完成日
2008/12/07