03. 傍にいるだけで満足できたら




「まったく、どうかしています!」
苛立った様子で室内に入ってきた女性―名を時尾と云う―は、照姫付きの祐筆を務めた才女である。無論、その振る舞いは洗練されており、襖を音を立てて閉めるなどという乱暴な所作は普段の彼女からは考えられない。そんな珍しい時尾の様子を目の当たりにしたは僅かに驚いて時尾を見つめる。
「あ、あら、様、いらしゃっておいででしたか」
一方時尾は、部屋に客が来ていたことに気付かなかったらしい。目を丸くして自分を見つめるにようやく自分の失態に気付き、顔を赤くしながら先程まで大股で歩いていたために乱れてしまった裾を直す。
「お見苦しいところをお見せしてしまって、申し訳ございませぬ」
「いや、約束もなしに押しかけたのだからこちらに非がある……都合が悪いのなら出直すが」
腰を浮かしかけるを時尾は慌てて押しとどめる。
「それなら良いのだが」
取り繕うようにほんの少し笑顔を見せる彼女を不思議に思いながらもは元の位置に腰を下ろす。
「ええと、本日はどのような用向きでこちらへ?」
「ああ、この間時尾殿が言っていた書物が手に入ったから」
膝の傍の風呂敷包みをほどいて、真新しい紙で綴じた本を取り出すと時尾に差し出した。
「まあ!嬉しい。ありがとうございます」
「下手な蹟ですまないが、私が写したものだから返さなくていい」
藩主の姫君の祐筆を務めた時尾に比べると、の文字は流麗さに欠ける。というより、女らしさが微塵もない。の筆蹟は堂々としていて立派だと容保に誉められたことすらある。性分なのか、細く流れるようなかな文字がどうしても書けないのだ。
「そんな、ここまでして頂いてそのような……ありがとうございます。本当に、様には感謝しております」
「喜んでもらえるのなら私も嬉しい」
二度目の礼を時尾が口にすると、もようやく微笑んだ。普段は冷静で、ほとんどその表情を崩すことのない彼女が少しでも笑うとそれだけで空気が華やぐ。会津城下一と謡われたその器量は、今でも輝きを失わない。はその仕事柄、男物の衣装を身に纏う事が多いのだが、いつだったか時尾の主人である照姫がこんな事を言っていた。

「ねえ、時尾。はせっかく綺麗に生まれてきたのにもったいないと思わない?」
その頃既に医者としては評判となっていたは、城にも出入りするようになっていた。何度か奥に顔を出した事があるから、時尾も覚えている。
「例えば、そうね。この間誂えた友禅、あの子に似合うと思わない?」
まだ、平和だった頃。主が退屈しのぎに思いついた悪戯。
「娘らしく着飾らせて、殿の御前に出してみようかしら」
うふふ、と楽しそうに笑う照姫に結局は逆らえず、悪戯の片棒を担がされた。照姫の指示により奥女中達に艶やかな着物を着せられ、化粧までされたは、不思議そうにするものの、異論は唱えなかった。会心の出来映えに大層満足した照姫は、どこぞの大名の姫君のようになったをそのまま表へ出した。その時の男達の反応は照姫をはじめ、奥の女達の間でしばらく話の種となったのだ。

「ところで、時尾殿」
笑みを浮かべたのも束の間、凜とした声がいつしか昔の思い出に浸っていた時尾を引き戻した。
「は、はい」
「先程はどうされたのだ。いつになく感情的になっているようだったが」
「ええと、それは」
「無理に話して欲しいわけではないが、何か困り事でもあるのなら相談に乗る」
言い淀む時尾を気遣わしげに見遣り、は首を傾げる。ほんの少し傾いた、その拍子に黒髪が一筋、流れた。結い上げず、高い位置でひとまとめにされただけで簪の一つもない。結い紐すらも色あせたものを使っている始末。戦の只中、血と泥にまみれて男だてらに医師として働いた彼女が、ただ一つ、手放さなかったのはこの艶やかな黒髪であったという。彼女が自身に許した唯一の『女』がこの髪であったと、人伝に聞いたのはいつだったろうか。 「時尾殿、どうされた」
障子越しの光に光る黒髪を見ながら、に言われるまで時尾はぼんやりしていた。いけない、と思いつつも今日はどうしてだか昔の事をよく思い出す。
「いえ、あの、では差し支えなければ聞いて頂けますか」
無言で首肯するに時尾は恥ずかしそうに事の顛末を語り始めた。そもそもは、彼女自身の嫁入りの話となる。世が世なら、夫となる者など引く手数多だった時尾は、しかしこの歳になるまで独り身だった。ようやく縁談がまとまり、ささやかながら祝言を挙げようと主君や家老達の仲人まで決まったというのに。夫となる斎藤一、今は藤田五郎と名乗る彼のとある『贈り物』の所為で時尾の神経は一気に昂ぶってしまったのだ。
「贈り物?」
「はい。先頃、警邏の仕事で京に立ち寄った際に見かけたなどとおっしゃって、友禅の染め物を」
それは夢そのものだった。絹の上に艶やかに咲き誇る絢爛たる花々に、時尾は声を出すことすら忘れて見入ってしまったのだ。いつかの遠い昔にかつての主が悪戯に、目の前に端座するを飾ったあの日の友禅と同じぐらい華やいだものだったのだ。思わず見惚れてしまった時尾の様子を良いように解釈したのか、僅かに言葉を詰まらせながらそれが贈り物であると告げた斎藤。彼の言葉が耳に入るまで。また、その意味を時尾が理解するまで、数秒。
「よりにもよってあんな派手な打ち掛けなど……!今がどのような時か、もう少し理解のおありになる方だと思っておりましたのにっ」
記憶を辿る内に再び気持ちが昂ぶってきた時尾は、膝の上で揃えた両の拳が小刻みに震える。そんな彼女の様子を見ていたは、ゆっくりと時尾の話を反芻し、やがて得心したのか、
「ああ」
目を柔らかく細めて笑う。
「貰ってやってくれないか。その打ち掛けは、斎藤が苦心して選んだのだ」
「何かご存知なのですか」
「ちょうど私も同じ頃に京にいたからな。女性に贈り物などしたことがないから勝手が分からぬと、私に打ち掛けの色柄についての助言を求めにきたのだ」
ずっと剣一筋で生きてきた。故に女性の心の機微が少しも理解できないのだと。情けない顔をしての元へやってきた斎藤は、「折り入ってお話がございます」と、出迎えたの前で思い詰めた顔をして正座していたという。腹でも切るのかと思った、と後にが語るほど切羽詰まっていた彼は、着物を仕立てたいのだという。女人が好みそうな、華やかな色柄の打ち掛けを。
「しかし、その、そういう方向に全く無知で」
俯いた耳が僅かに染まっている。恥ずかしげに視線を彷徨わせる斎藤。彼の言わんとしていることを悟っただが、こちらも困惑してしまった。
「気持ちは分かるが、相談相手を間違えていないか?私もそれほど詳しいわけではないぞ」
そういう話ならば、自分は不得手であると自覚している。娘時分の折、同年代の少女達が華やかな着物に興味を向けていた頃、は書物に囲まれるか、あるいは破天荒な父親に付き合わされて全国行脚していたかのどちらかだった。そのような人生を後悔することはないが、折角相談に来た斎藤に的確な助言をしてやることが出来ない。
「無理を承知でお願いします。他にこんなことを頼める人がいないんですよ」
弱々しく肩を落とす斎藤。普段から飄々とした態度を崩さない彼のこんな姿を見るのは初めてだった。これがかつてこの京の町を震撼させた壬生狼の一人だろうか。あの斎藤が、だ。と念を押すの真剣さが可笑しくて。ほころぶ口元に慌てて袖をあてがえば、も笑っていた。
「まあ、結局は呉服屋の主人の見立てに二、三口を出しただけなのだが。店中をひっくり返して時尾殿に合うものを、と努力した斎藤を許してやってくれないか」
「それは、でもやはりこの色柄はわたくしには派手すぎます。もっと年若い娘時分ならまだしも……」
時尾とて斎藤の気持ちが込められた打ち掛けを本気で厭わしく思っているわけではない。ただ昨今の会津の者達の暮らしぶりを考えると、やはり過ぎた物だと思ってしまう。それに何より、自分がそれほど若くはないことを分かっている。美しい着物に無邪気に喜んでいられるほど可愛らしい娘ではない。
「わたくしは、お傍にいられるだけで充分です…」
それだけで良かったのだ。本気で好いた男と結ばれて、それ以上に恵まれた幸福など望まない。望むべきではない。
「時尾殿」
静かに掛けられた言葉に俯いていた顔を上げると、が微笑んでいた。
「嬉しいときは嬉しい、と思っていい。自分の気持ちを、殺さなくていい」
ゆっくりと紡がれる言の葉。その一つ一つが、心に染み込んでいく。
「死んでいった者達への哀悼の意を忘れろというわけではない。今を苦しんでいる者達を忘れろというわけではない。けれど私達は生きている。生きているからには、怒ったり、泣いたり……笑ったりしていいんだ」
淡々と、沁みた。もまた、会津の者として数々の辛酸を舐めている。彼女は医者としてとても優秀だから、政府の高官にも重用されており、それが同郷の者達の反感を少なからず買っているらしい。そう斎藤から聞いたのはついこの間のことで。自身からそんな話など一度も訊いたことがなかった時尾は吃驚して、怒りたいような泣きたいような、子供の癇癪と同じ気持ちを味わった。どうして話してくれなかったのだとを責めたい気持ちと、どうして気付かなかったのだと自分を責める気持ちが心の内でない交ぜになって、酷く苦しかった。苦しくて苦しくて、傍にいた斎藤に思わず八つ当たりをしてしまったほどだ。斎藤はそんな時尾を黙って受け止めて、それからこう言った。
「あの人は、自分で全て抱えてしまうから。抱えられる強さを持っている人だから」
だからついその強さに甘えてしまう。
「医者という仕事は辛いことの方が多いと思う。刀を使う俺から言うのもおこがましいが、傷つけるよりもその傷を癒す方が何倍もきつい」
彼女は、静かに見守ってきたのだ。鶴ヶ城の落城も、自分の手で救えなかった命が尽きる様も。全て抱えて、そうして一人静かに泣くこともあったのだろうか。それは斎藤にも時尾にも分からない。ひょっとしたら、山川あたりならば知っているかもしれない。あるいは、涙を流す彼女の傍にそっと寄り添っているのかもしれない。そうだといい、と時尾は願う。己の傍らに斎藤が居るように、にも傍にいてくれる誰かが居ればいい。
「時尾殿は笑って斎藤の元へ嫁げばいい。殿も、会津家中の皆々もそれを願っている」
の言葉は雪解けを促す春の陽光のようだ。凍っていた時尾の感情が融け出して、あたたかい気持ちで胸がいっぱいになる。本当は後ろめたかった。自分だけが幸せになるようで。過分な幸福を甘受すれば、同朋達に済まない気持ちがどこかにあった。
「はい……、はいっ……!」
自然と溢れる涙を袖で拭って、泣きながら時尾は微笑んだ。今度斎藤に会ったら、嬉しいと伝えよう。自分と同じでどこか不器用なあの人に、ありがとうと伝えよう。
「おめでとう。時尾殿」
穏やかに紡がれるの言祝ぎに、時尾は幸せに泣いた。