05. 少しだけ速まる鼓動
桜が春を誇っている。
昨夜の風は強かったから、てっきり散ってしまったと思っていた。だが夜が明けて、未だ寒さの残る朝靄の中、夜着にくるまれていたい名残惜しさを振り切って一息に開け放った障子の向こう側に花は在った。一枚一枚は向こう側が透けて見えそうに、何とも頼りない有り様の花弁だが、千とも万とも数えきれぬほどに一斉に開くと厳かな空気を纏うのだ。
「美しいな」
思わず漏れた感嘆の情は、ありきたりな言葉でしかなく。己の語彙の単純さに誰に聞かれた訳でもないのに赤く恥じ入った。
「大蔵か?」
人がいるなど思いもよらなかったから、突然呼ばれた声に心臓が跳ね上がる。武士にあるまじき事だと今度こそ本気で顔を赤くした彼の元に砂利を踏む音が近づいてくる。
「、驚かすな」
歩み寄ってきた人影をそう呼んで、大蔵はふぅ、と止めていた呼気を吐き出す。と呼ばれた人物は、小首を傾げて彼の様子を見守った。着ているものは今日も男物の小袖と袴だが、癖のない艶やかな黒髪を今朝はまだ結わずに背に流している。時折吹く風に桜の花と共に遊ばれ、真白い花びらがいくらか付いていた。珍しい事もあるものだ、と苦笑した大蔵は花弁を取り去ろうと手を伸ばし、やはりこのままがいいだろうと一人で納得してやめた。中途半端に伸びて、引っ込んだ彼の指先を見て、は再び首を傾げた。
「満開だな」
「あぁ」
「散歩か?」
「今朝は早くに目が覚めた。折角の桜だ。独り占めしようと思ったんだが、大蔵も起きていたんだな」
少し残念そうにするに、大蔵は苦笑して「すまない」と謝った。しかし彼女は首を振り、
「独り占めよりも誰かと見た方がいい」
静かだが、きっぱりとした声音で断言する。ともすれば口説いているようにも捉えられかねない、迷いのない物言いに却って大蔵の方が面喰らう。思い切りの良さで言えば、は家中一を誇る。彼女は流言に惑わされる事もない。判断に困るような場面に出くわしても迷いなく結論を導き出す。その決断の速さと正確性は藩主である容保の御墨付きだから、会津の誰も反論出来ない。それは彼女が医者であるからだろう、と大蔵は考える。命を預かる場面で一々迷っていては助けられるものも助けられない。その気性を彼は幼い頃から眩しく思っていた。若くして家を継ぐ事になった大蔵は、背筋を伸ばしてまっすぐに前を見つめる彼女が羨ましかった。
「大蔵もどうだ。満開の桜を堪能しながらのそぞろ歩きなど、早々出来るものでないぞ」
誘われて、頭で考えるより早く「是」と頷いていた。
「待っていてくれ。すぐにそちらにまわる」
言い置いて、寝間着のままだという事に気付いた。室内とはいえ、まだ冷える時期だ。も小袖一枚だった。薄い肩が今更目に浮かぶ。手近にあった羽織を掴み、外で待つ彼女の肩に被せると、驚いたのか目を丸くして振り返った。
「どうした?」
尋ねる大蔵に彼女は何とも言えない表情でしばし彼を見つめる。やがて小さく息をつくと、ため息と共に苦々しい表情で肩の羽織に手を触れる。
「こういう気の利かせ方は、好いたおなごだけにしろ」
だが「寒くなかったのか?」と、まるで見当違いな応えをする大蔵に、先ほどよりも大きなため息をする羽目になった。そうして彼がそうした心の機微、特に男女間のそれに対して全く鈍い事を思い出す。見目も家柄も申し分ないのに、同年代に比べると色恋に関する話題が明らかに少ないのは、この性格のせいだ。だが、身体が冷えていたのも事実で。大蔵の心遣いを拒む理由も特にない。
「ありがとう」
はふわり、と口元に笑みを浮かべ、礼を言う。滅多に見られない彼女の笑い顔に大蔵の鼓動がほんの少しだけ速まる。彼はまだ気付いていない。心の内に芽吹いた感情につけるべき名を。ゆっくりと淡く色づいていくそれを恋と呼ぶということを。
「待たせたな」
まだ寝ている者も多いので、極力物音を立てずにやってきた大蔵は、彼を待っている間も頭上の桜を見上げていたに一瞬見惚れ、息を呑む。気配に振り向いた彼女の横顔に先程よりも鼓動は速まる。だが彼はまだ、自覚しない。今はまだ、二人で並んで満開の春を堪能する。それだけで十分に満たされるのだから。
完成日
2011年9月4日