08. 触れたくて、でも触れたくなくて




「な」
上官に呼ばれ、室内に立ち入った山川が、その人物を見て瞬時に固まった。一方、そんな山川を一瞥しただけでさっさと手元の資料の続きを読み出した彼女。そんな彼女、を横目に顔面蒼白になってゆく部下の表情を憮然と眺めるのは山田。この何とも奇妙な組み合わせが集まったのは、熊本の地だった。
「何故おまえがここに居る!?」
「大蔵、静かにしろ。ここは上官の部屋だろう」
驚いて声をあげる幼馴染をちらとも見ずに、にべもなく言い捨てる彼女に山田も当たり前のように続ける。
「その通りだ山川。馬鹿のように突っ立っていないでさっさとこちらに来い」
「しかし、いえ……はい」
聞きたいことが山ほどあるのをぐっと堪えて、山川は己の上官の元へ軍靴を鳴らして歩み寄る。傍に寄れば、山田は宿営地の配置図を広げており、はというと物資の補給に関する資料を読み漁っているようだった。
「山川、一昨昨日に我が陣営に届いた補給物資の一覧を持って来い」
「はい」
山田の指示に素直に従い、窓際に設えてある本棚から目当ての資料を抜き出す。未だにがなぜここにいるのか、さっぱり見当もつかないし、山田が彼女と一緒に何をしているのかも分からない。だが二人とも真剣な表情でそれぞれ手元の資料に没頭しているし、珍しく今日は山田の辛辣な物言いも飛んでこない。
「やはり補給路の安全確保を第一に考えねばならないだろうな」
「急ごしらえの軍勢だ。色々と不備があるのは承知している」
「上の人間は武器や弾薬の補充にばかり目を向けてくれているが、食料や薬がまるで足りない」
は山川に目顔で資料を寄越せと訴える。彼女の要求に素直に先程取り出した資料を渡すと、整った彼女の顔立ちが瞬時に渋面を作る。元々表情の変化に乏しい彼女だが、その苦々しい表情の意味するところが自分達にとって思わしくない状況を告げている。
「やはり難しいか」
山田の問いかけに彼女は渋い顔のまま頷こうとして、そして黙って首を振った。
「いや、それでもやらなければならない。物資の方は追々届くと兵達に言ってもらえるとありがたい」
「分かった」
二人の会話の内容から、山川はようやくこの場の流れを掴み取った。要するに、彼女は軍医として派遣されたのだ。
「食料が届かないとなれば兵達の戦意が下がる。我々は嘘を突き通さねばならないぞ」
「それぐらいならやれるじゃろう」
「そうだな。市之允の仏頂面なら誰も怖くて話しかけまい」
「何じゃと!」
「精々その不機嫌な顔をしていてくれ。誰も寄せ付けないようにな」
上官が、幼馴染の言葉にいとも容易く乗せられて、怒り出す。二人ともまるで以前からそうであったかのように、気安い態度で。唖然とした山川はますます訳が分からないといった風に困惑するしかない。何より彼女が上官を昔の名で呼んでいることが気になる。
「あの、
「なんだ大蔵」
「その、山田少将とは」
「知己だ」
疑問を口にすればきっぱりと返る答えに山川は何とも言えない表情になる。山田は長州の人間だ。長州は会津の敵ではないか。一体いつ、何処で知り合ったというのだ。
「何じゃ山川。不服そうじゃの」
上官の鋭い視線に形ばかりの否定を返すが、心の内にはわだかまりが積もるばかり。そんな幼馴染の心境を知ってか知らずか。は手元の資料を元に紙片に何事かを書き記し、部屋の外に待機していた下士官に渡す。そうして初めて山川の表情に気付き、聡い彼女は彼の複雑な内面を察知して細く息を吐いた。
「私の父親が変人なのは知っているだろう」
「は?」
突然彼女の父親の話題を振られ、困惑する山川に構わず話を進める。
「医術に優れていた点以外はまるで駄目だ。アレは人としての基本が抜け落ちすぎている」
「そこまで言うのは」
いかがなものかと、山川はに向かって一応反論を試みる。自分の父親に対してその言い方はあんまりだろう、と思わないでもなかったが、彼女の父親の姿が脳裏に甦ると、その口を閉じざるを得なくなった。無言になった山川に重々しく頷いて、彼女は続ける。
「あの変人のおかげで私は幼少の頃から流転の日々を送らざるを得なかった」
の父親は会津でも名の知れた優れた医者だった。彼の医術の腕は他国にも轟き、しばしば近隣の重鎮の治療の為に国を空けることもあった。その際、彼は一人娘であるを必ず連れて行った。それは後々彼自身の医術の全てを一人娘に譲るための布石だったのだろう。幼い頃に母親を亡くし、唯一の肉親である父親が長い間家を空けるとなれば、周囲は多少止めはしただろうが幼子を伴っての各国行脚に強く文句は言えなかった。どんな形であれ、父親の元に居るのが一番だろう、という考えの元、それらは黙認されていたのだ。
「怪我人病人の声を聞けば西に東に、関所などお構いなしだ」
「待て、。それではおまえは」
「あの変人にとって、お上の定めた法など取るに足らないということだ」
暗に法を破ったことを認めるに、山川はあの御仁ならばそれも不思議ではないと最早遠い目をしている。傍らで耳を傾けている山田は、話がいまいち見えないのか、仏頂面で黙り込んでいる。多少の細事に目を瞑ってくれるのは、山田も少なからず彼女の父親と面識があるからだ。強烈な御仁であった、とそれしか言える事がない。
「長崎にいた知り合いの蘭医の元を訪れた後に、しばらく萩に逗留していたことがある」
「その時にと会うた」
他国の年頃の娘がいると知って、当時同じく青春真っ盛りだった山田の兄弟子達、要するに松下村塾に出入りしていた若者達は色めきたった。ちらりと姿を垣間見ることのできた者は揃って彼女の整った外見を誉めそやす。噂が噂を呼んで、小さな城下町は沸き立った。
「外見だけなら清楚で可憐な、どこぞの姫君のようじゃからな」
「ああ、は彼女の母上によく似ているそうだ。会津でも評判の美人であったというからな」
山田の皮肉に山川は的外れな解説を加える。上官が半眼で山川を見るが、彼はその視線の意味に気付かなかった。
「当時は皆が先を争うての気を惹こうと必死じゃった」
「そうなのか?」
今初めて気がついたといった風のの反応に山田は大きな目を瞠って驚く。
「気付いとらんかったんか」
「興味がなかったからな」
十数年ぶりに聞かされた真実にも実にあっさりした応えしか返さない彼女に、
「……高杉さんも報われんのぅ」
当時の兄弟子の姿を思い出してがっくりと肩を落とす。そんな上官を横目に、山川は落ち着かない様子でに仔細を聞こうとするが、生来の口下手が相まって上手く切り出せないでいる。聞きたいことは山ほどある。彼女は初恋の相手なのだから。気付いたのはだいぶ大人になってからなのだが、自覚してからというものの、気になって仕方がないのもまた事実。こんな状況で、と無駄に己を律するに長けている彼は何も口にせずに堪えた。
「高杉がどうかしたのか」
山田の呟きを耳にしたが不思議そうに首を傾ける。そんな彼女に山田はため息をついた。
「高杉さんがに惚れとったちゅう話じゃ。どうせ知らんと言うんじゃろうが」
「知っている」
「そうか……って、今、何と」
「だから、知っている。再三口説かれたからな」
動けば雷電の如く、と評されたあの人のことだ。やりかねない。山田が遠い目をしている間にも、資料に再び目を通し始めたは自らの言葉に補足を加える。
「何を考えているのか、あの男、私を押し倒したこともある」
「おしたっ!?」
若い男女が二人居て、一方がもう一方に押し倒されるような状況とは、つまりそういう雰囲気になったということで。目を白黒させながら混乱の最中にある部下を普段なら皮肉る山田だが、彼自身も衝撃から立ち直れないでいる為、不可能だった。だが一方で、記憶に残る兄弟子の奇行の数々が「あの人ならそれぐらいやってのけるだろう」と冷静に判断してもいる。
!そ、それは一体、どう」
「大蔵?どうした面白い顔をして」
真相を問い質そうとする幼馴染を不思議そうに見て、彼女はその場に立ち上がると「借りていくぞ」と卓の上に置かれていた資料をまとめ、さっさと退室してしまった。
「待て!話の続きをっ」
我に返った山川が慌てて彼女の後を追うのを、そして部下が退室時に礼儀をすっ飛ばしていったことを。今回ばかりは仕方がないと珍しく黙認した山田は、深く息を吸うと、肺が空になるまで一度に吐き出した。
「未遂か、既遂か……それだけは気になるのぅ」
明日になったら山川を呼び出して問い質してみよう。あの男、いくら鈍くて口下手でもそれぐらいはやれるだろう。聞き出せていなければ今度こそ無能のレッテルを貼り付けてやる。新しい嫌がらせを思いついた山田は、童顔を歪めて意地の悪い顔をしながら、自らの考えに満足気に浸っていたのであった。



完成日
2009/07/04