「一さんは、人殺しがお好きかしら」
まるで明日の天気でも聞くかのように、穏やかに紡がれた言の葉に、流石の斉藤もしばし思考が停止した。目の前でそんな彼の反応に小首を傾げる彼女の名はという。この辺りの町でも一番羽振りの良い商家の大事な一人娘だ。浪人の身である斉藤と、本来ならば何処をどうやっても縁など結べそうにないのだが、人の世とは分からないものである。ひょんなことから奇縁が結ばれ、そうして今、斉藤は彼女の家に居候している身だ。幸いにも彼には剣の才能があった為、表向きは用心棒として。しかし実態は先程、常より飄々とした言動と実年齢に似合わぬ落ち着いた物腰で周囲から一目置かれている筈の斉藤を思考停止に追い込んだ、この不可思議な物言いをするお嬢様の相手を日々させられている。
「……何で急にそんなことを聞くんですかね」
ようやく返せたのはそれだけ。それは彼女の疑問に全くと言っていいほど応えていない。案の定、満足しなかった彼女は大きな双眸をゆっくりと瞬かせて、おっとりとした育ちの良い物言いで反論した。
「急なことではありませんよ?いつも考えていたことですもの」
常日頃考えていても、それを口に出さないのなら。相手にとって初めて伝えるのはそれと同義であるということを、このお嬢様は気付かないらしい。細く嘆息して、斉藤はまっすぐに自分を見つめ、答えを待ち続ける彼女を改めて見つめ直した。そもそも何故、しがない用心棒である自分が身分違いなお嬢様と二人きり、彼女の部屋で膝をつき合わせているのだろうか。彼女は少女と大人の女の丁度中間辺りの、どっちつかずな容貌をしている。言い換えれば、少女のように無邪気にもなれるし、時折はっとするほどしっとりとした大人の色香を出すこともあるのだ。少女と女の混在する、男にとって一番好ましく、厄介な年頃。そんな彼女のきちんと結い上げられた黒髪は艶々としており、初々しい首筋の白さも、ぽってりと果実のように紅い唇も男の劣情を誘うには十分すぎるものである。彼女もこの家の者も、自分がお嬢様を手篭めにするだとか、そういった考えには及ばないのだろうか。きっと及ばないのだろうな、と斉藤はおぼろげに思った。斉藤がどんな素性の者かきちんと確かめもせずに屋敷に招き入れたのはの父親だし、病がちな一人娘の丁度いい話相手が出来たと喜んだのはその母親だ。今時こんなに馬鹿がつくほどのお人好しがいるだろうか。斉藤がその気になれば一晩でこの屋敷に居る人を残らず殺して、そうして財を奪って逃げることなど容易いというのに。実行に移さないのはあまりにも彼等がお人好し過ぎて、毒気を抜かれてしまったからだ。
「一さん?一さん、どうされましたの?」
長く自分の考えに沈み、ぼんやりとしてしまったらしい。目の前でが斉藤の名を幾度か呼びながらひらひらと手を振っている。
「ああ、いえ、何でもないですよ。ただ、どう答えたものかと思いましてね」
「そんなに真剣に考えて下さらなくても結構ですのに。好きか嫌いか。そのどちらかで充分ですのよ?」
生殺与奪の問題を好き嫌いで片付けていいものなのか。今更自分が言えた義理では到底無いであろうに。斉藤は又もやお嬢様の突飛な思考回路に口を一文字に噤む。
「好き、だと。言ったらどうなるんですか」
実際、好きかどうかなど分からないし、判りたくもない。必要に駆られて他人の命を奪ったことならばある。だが人を殺すことに好き嫌いの感情を持ち込むと、それはただの人斬りだ。人ではなく鬼の所業だ。この世で唯一つ斉藤が恐れるものがあるとしたら、それは人ではなくなることだ。
「お好きならば、わたくしの命を奪って頂きたいのです」
「なぜ」
お嬢様の戯言、そう割り切っても彼女の口から出た言の葉はあまりに衝撃的だった。目の前で、たおやかに微笑んだ唇から紡がれた其れは、冗談でにしては悪趣味すぎた。斉藤はからからと口の中が乾いてゆくのを感じた。
「だって、生きているのがつまらないのですもの」
にっこりと、花のように艶やかに笑みを浮かべて、はそう続けた。
「お父様もお母様も優しいわ。家の人達もみんな、みんなわたくしに良くして下さる。でもそれは、わたくしの身体が弱いから。わたくしがもう少し丈夫に出来ていれば、今頃婿でも頂いて、子供の一人や二人こしらえて、そうして育てて年を取って、最期は死ぬだけ」
「……幸せな人生じゃないですか」
「そうかしら?先が見えてしまうのはつまらないだけだとは思いませんか」
「確かな平穏が約束されているなら、不満を言う気持ちが理解できませんね」
口を滑らせた、と斉藤は僅かに自分の失言に気付いたが今更遅い。棘のある言い方をしてしまったが、ふわふわと真綿にくるまれたような幸せなまどろみの中で、興味本位で死を望む彼女に腹が立ったのだから仕方がない。しかしいつもならばこんな些細な事で自分の感情を露にすることなどない。全て綺麗に隠しとおせる自信があるのに、だ。
「失言でした」
いつまでもこちらをきょとん、とした大きな双眸で見つめているの視線に耐え切れなくなって、小さく言って俯けば、「どうして謝るのですか?」と心底疑問に満ちた声が返ってきた。このお嬢様は本当に、世間というものが分かっていない。どうして斉藤が腹を立てたのか、その理由が分かっていない。それどころか斉藤が腹を立てたことすら気付いていないのかもしれない。
「一さん?お顔を上げてくださいな。わたくしとお話しているのに、どちらを向いていらっしゃるの」
彼女の変わらない、おっとりとした声に斉藤の胸の奥でちりり、と炎が宿る。だが、彼はゆっくりと息を吐き出し、その衝動を宥めた。知らずに腰の物を探して彷徨っていた指先を叱咤して、乞われるがままに顔を上げる。
「やっとこちらを見てくださいました」
花がほころぶように、無邪気に笑う少女を目の前に、斉藤は唇にうっすらと笑みを貼り付けて不器用に嗤った。そんな彼の腹の内など気付きもしないのか、はにこにこと笑い続ける。
「一さん、わたくし興味本位で死を望んだわけではありませんのよ」
おっとりとした笑みのまま、彼女は告げた。まるで先程までの斉藤の葛藤を全て見透かすような物言いに、彼が絶句していると、ついと膝を寄せてきて、そうして大胆にも斉藤の胸にその身を預けるように凭れかかったのだ。茫然自失。そんな状態の斉藤を甘えるような仕草で見上げては微笑む。
「どうせなら、ただ一度、愛した御方にこの命を散らして欲しいだけですの」
「……あい、ですか」
彼女の言葉を理解するのに時を要し、そうしてやっと言い返せた時には斉藤の口の中は乾いてからからだった。なんでもいいから水分が欲しい。茶などと贅沢を言うつもりはない。庭に駆け下りて井戸の中へ飛び込んでしまいたい。それほど彼は混乱していた。目の前の少女を、ぴたりと寄り添うあたたかな体温を信じられないものでも見るように見下ろす。 「わたくしに残された命が限られているのならば、愛した御方の手にかかって死にたい。だから、一さんは人殺しはお好きですか、と」
つまり彼女は、自分を好いていて、そうして好いた男の手によって今生に別れを告げたくて、さらにはその死の瞬間が相手の好むものであればいい、と。そう考えたというのか。
「お嬢さん……」
彼女の突飛な思考にはそこそこ慣れていたはずだった。しかし短くもないが大して長くもない付き合いの中、彼女が斉藤に見せていたのはほんの一面でしかなかったらしい。本当に、奇縁を結んでしまったらしい。その縁が自分にとって思いもよらぬ方向へ転がっているとは。彼女の言葉や行動にこれほど衝撃を受けたその訳をようやく理解して、斉藤は知らず深く息をつく。当の本人の自覚なく、斉藤の中で育った感情。本来ならば、それは、その感情は秘すべきものだ。隠すべきものだ。なのに。
「生憎、俺は死体に興味はないんでね」
「一さん?」
低く呟いた斉藤の声が聞こえなかったのか、聞き返してきたの華奢な身体を己の腕に閉じ込めて。瞬間軽く強張るに軽く笑いを漏らした。所詮は世間知らずのお嬢様だ。どれだけ口が達者でも、経験を積んでいない分、利はこちらにある。ようやく主導権を自分に取り戻してほくそ笑む。
「死んでしまったお嬢さんを抱きしめて泣くよりも、こっちに興味があるんですよ」
「はじ、めさ……」
の自分を呼ぶ声ごと、己の唇で吸い込んで、斉藤はようやく渇きを潤した。




09. 秘めて隠して、押し殺して




「しかし本当に、物好きな方だ」
くったりと体重を預けてくるを見下ろして、斉藤は呟く。言葉ほどその表情に無愛想さがないことに、彼自身まだ気付いていない。



完成日
2009/12/23