「お気持ちは嬉しいのですけれど…」
授業が始まる前、ついさっきまで魔法薬学の教師に呼び出されていたリドルは近道をしようと中庭を通ろうとした。
すると聞こえてきた声。
おっとりとした物言いのその声の主に心当たりがあったリドルは立ち止まる。
首を巡らせれば城の壁に隠れた向こう側に長い黒髪が見えた。
「ごめんなさいね。でも、ありがとう」
ふわり、と。
彼女が笑ったのが容易く想像できた。
足音が一人分去ってゆき、リドルは薄く微笑む。
「お行儀が悪いですわよ」
近付いてくる少女がそう言った。
にっこりと、豪奢なまでの笑みを浮かべて。
明星
「告白されていたのかい?」
薬草学の時間は各自個人の作業に熱中する。
教師も生徒の間を順に廻ってアドバイスを与えたり、手伝ったりするだけだ。
従ってこの授業は割とゆるやかに進められてゆく。
所々おしゃべりをしながら新しく育てる薬草の苗床を作るスリザリンの生徒達。
トム・M・リドルは多くの生徒達と同じように苗床を作りながら隣で作業を続ける・に問いかけた。
「聞いてらしたのでしょう。分かっているのに訊かないでくださいな」
「途中からだったんだよ。結果は見た通りみたいだけどね。とりあえず訊いておかなきゃ、と思って」
「まぁ、心配してくださるのですか?」
「そうだと言ったら?」
紅い瞳をまっすぐに艶やかな黒髪の持ち主に向ければ、少女はふわりと微笑んだ。
「光栄ですわ、とお答えしましょうか」
告白を断った時と同じ笑い方ではリドルを見上げた。
この顔をリドルはあきれるほど見ている。
見慣れるほど傍にいるからだ。
放課後の図書館。
西日が差し込む窓際の席。
かたり、と長い黒髪の少女は立ち上がる。
読みかけの本に押し花のしおりをはさんで、荷物はそのままで。
追いかけるのは先ほど視界をよぎった黒髪の少年だ。
奥へ奥へと入ってゆく見知った背中を追って、彼女もまた本に囲まれた薄暗い場所に入り込む。
「ここは禁書の棚ですわよ」
そう声をかけた彼女に彼は振り返る。
「知ってるさ。許可ならちゃんと貰っているよ」
頭半分ほど上から降り注ぐ紅い視線に少女はまた微笑む。
そんな彼女に少年は軽く溜息をつく。
「いいかげんにやめないてくれないかな、その馬鹿丁寧な言葉遣い」
「お気に召しませんか?」
首をわずかにかしげてはリドルを見上げた。
リドルは古めかしい本の背表紙を指でなぞりながら「そうだね」と短く言った。
「僕らは“恋人”なんだから。他人行儀なのはおかしいんじゃないかな」
は黒い瞳を数回瞬かせて、それからくすくすと笑い声を小さく洩らした。
憮然とした物言いたげなリドルの視線にも構わずに彼女は耳に心地よい声で笑い続ける。
その笑い声をリドルは自ら止めさせた。
其れは一瞬の出来事で。
けれど重なり合う熱はいつだって永遠を願っている。
「誰かに見られたらどうなさるおつもりですの」
「見られても構わないんだろう?」
唇がほんの少し離れただけの距離で二人は囁くように会話をする。
本棚にの背中を押し付けて、二本の腕で彼女を檻に閉じ込めて。
サラザール・スリザリンの正統なる末裔は嫣然と微笑う。
「昼間、あの男に見せた笑顔が惜しい」
「まぁ、嫉妬深いのですね」
驚いたように彼女が言ってみせるのに、リドルは檻をますます狭める。
の髪の香りが鼻腔をくすぐる。
匂い立つ、大輪の百合の花のような清らかで艶やかな薫り。
「知っていて、よくやるよ。も……そして僕も」
そしてまた、二人の影が重なる。
オレンジ色をした光が一つになった影を長く引き伸ばし、空気中に浮かぶ埃がプリズムのように煌めいた。
時折洩らす吐息さえも、いとも簡単に喉の奥へ呑み込まれてしまう。
苦しくなってリドルの胸を押すが、彼はそれを無視しての細い肢体を両腕で絡め取る。
窓の外の太陽が一日の最後の輝きを放って沈むと、辺りには急激に宵闇が訪れる。
濃色の空の端に輝くひとつの星をみつけて思わず右手を伸ばす。
「何?」
リドルが即座に気付いて顔を離すと、かすかに上気した頬のを覗き込んだ。
「リドルもわたくしも、あの星のようにはなれませんわね」
軽い酸欠状態から開放されたばかりのは潤んだ双眸で白すぎる光を見つめる。
眩しい、とその口は確かに言った。
だが言の葉は音として紡がれる前に紅い瞳の持ち主に持っていかれる。
伸ばした右手も今は彼の華奢な、けれど骨の感触が目立つ手の中だ。
「何をいまさら。君らしくもない」
嘲笑うかのようなその声音には小さく微笑んだ。
そして自由なままの左手をぎゅっと握り締め、そのままそれを正面に立つ人物の鳩尾に
「えいっ」という可愛らしい掛け声と共に全力で叩きつけた。
不意打ちを喰らったリドルは二、三歩後ろによろけると、恨みがましい目でを睨む。
「貴方らしくもありませんわね、油断なさってはいけませんわよ。いつ何時敵が攻めてくるとも限りませんもの」
しかし当のは甘く微笑みながらリドルのつむじを見下ろしている。
「そうだったね……とりあえず一番身近にいる敵から何とかしなくちゃいけないみたいだ」
長い前髪の下からほとんど殺気に近い視線を放ち、リドルは口元に無理矢理余裕を浮かべた。
だって鳩尾に、しかも不意打ちは痛い。
「わたくしは簡単には飼い殺せませんわよ?」
「僕に不可能なことがあるとでも?」
挑むような二つの視線が絡まる。
刹那の攻防。
先に逸らしたのはの方だった。
「そろそろお夕飯の時間ですわね」
なんとも暢気なことを言いながら禁書の立ち並ぶ狭い棚の間をするりと抜け出し、リドルを置いて出て行く。
途中、一度だけ振り返って彼女は言った。
少しだけ淋しそうな表情を垣間見せながら。
「……早く、連れていってくださいな」
咄嗟のことで反応しそびれたリドルは何も返せずに立ったままだ。
答えを待たずには去った。
リドルは重たい本がこれでもかというほどに詰め込まれた棚に背を預けて呟く。
「いつでも連れていってあげるよ」
彼女の白い手を掴んだ手のひらにくちびるを寄せて。
思い描く『楽園』瞼の裏に広げながら。
彼の地で微笑む彼女を想いながら、リドルは静かに両目を伏せた。
次
完成日
2004/11/8