知らず、知らずに咲いた花。
01. 完璧な優しさ
「大蔵は本当に堅物だな」
そう言われたのは京でのこと。会津の筆頭家老、梶原平馬に酒の席でからかわれたのだった。この頃の京はどこもかしこも物騒で、京都守護の任についた会津藩主、松平容保は休まる時が無い。それと同様にして、容保に付き従って京に入った者達も多忙を極めている。だからこんな風に酒を酌み交わすなど久々のことだった。
「何をいきなり」
杯を口に運ぶ手を止めて、対座でこちらを見ている梶原にそう言えば、既に酔っているのか彼は珍しくやけに絡んでくる。
「いいや、堅い。堅すぎる」
「そうでしょうか」
堅い堅い、と連呼する梶原に山川大蔵は困ったように視線を返すことしかできない。
「こちらに来て二年……いや、三年か?その間俺はお前の浮いた話を一度も聞いたことがない」
「梶原さん」
「お前ときたら、非番の日もここに篭りっきりだろう。島原には行ったのか」
「し、島原などっ!我らは京を守るためにここにいるのですよ!?」
京で随一の花街の名を出されて山川は見事なほどに狼狽する。その反応はいっそ初々しいといってもいい。酒の所為ではなく赤く染まった頬や耳が彼の初心さを表している。齢二十歳を超えようかといったその歳に、そのようにうろたえるとは、と。梶原は杯を飲み干して、手酌で新たに酒を注ぎながらふと思った。
「大蔵、まさかとは思うがお前、まだ女を知らぬ訳ではないよな?」
「梶原さん!!」
梶原にしてみれば山川のあまりにも初々しい、いっそ童のような反応に不安を覚えて、素直に心配してのことだったのだが、当の山川にとっては堪ったものじゃない。何故今この時に、そんなことを言われなければならないのか。そもそも任を負って入京したのに、女と遊び戯れるなど言語道断、不謹慎だ。と、自分が思っていることを述べてみたものの、酔いがまわってしまっている梶原にはまるで通じない。
「いいか、大蔵。我々は京都守護の任を得て、この都を、帝をお守りするために日夜奔走しているわけだが、しかしそれでもいやだからこそ癒しは必要なのだ。心身ともに疲れ果てたままではいざという時に殿のお役に立つことなどできる訳が無い。酒に頼るというのも一つの手だが、あれは深みにはまると性質が悪い。一人酒など悪酔いの元だ」
深みにはまると性質が悪いのは女も一緒なのでは――山川は思ったが口には出さない。酒の所為か、常より饒舌になっている梶原は空の杯を振り回すようにして力強く語り続ける。
「酒を飲むなら誰かと共に飲め。そうすれば酒に呑まれる事も無い。相手が女なら尚更いい。愚痴でも弱音でも何でも吐き出せるからな」
「武士は人前で簡単に愚痴も弱音も言ってはいけないと思うのですが」
力説に真正直に受け答えする山川に、梶原はじとっと半眼になってその涼しい秀麗な顔立ちの後輩に詰め寄る。
「そこが堅いと言うんだ、大蔵」
山川の至極真っ当な意見が気に入らなかったのか、眉を寄せて自席に戻ると、再び酒を注ごうとする。気付いた山川が徳利を傾けると、それを受けてぐいと飲み干し、一息ついた後に再び口を開く。
「恋でもしてみろ。そうすれば世界が変わるぞ」
「このような状況にですか」
「このような状況だからこそ、だ。我らは京を守護する為に在る。会津を守る為に在る。だがそれだけでは駄目だ。守るべきものを作れ。そうすればそれが心の支えになる」
その重々しく響く言葉にその時はさほど違和感を感じなかったのだが、後に判明する事実から分かった。梶原にはこの時にはもう京に馴染みの女がいたのだろう。故郷には山川の姉である二葉という妻がいるというのに。それほどまでに梶原の政務は重かったのだろうか。
「恋、ですか」
ぽつり、と呟いた山川は自然と懐に忍ばせたあるものの存在を、杯を置いた左の手で確かめていた。その様子に梶原が気付いて、ちらりと視線を向けるが、何も聞かずにいた。思考に耽る山川の記憶は淡く色付かせた想いの方向へと向かっていった。
あれはいつの頃だったか。うまく思い出せないのは決して記憶があやふやなのではなく、その舞台自体が霞がかった中にあった所為だ。山も川も、町も。全てがけぶるように白く、花が咲いていたように思うのだが春ではなかったように思う。京にやって来て何ヶ月か過ぎた頃。日々は性急に過ぎ去ってゆき、気付けば夏の盛りも終わり、色付いた葉も枯れて落ちてしまっていた。久々に黒谷を出た山川は、寺の山門を出て初めて息が白いことに驚いたのだった。見上げてみれば木々の葉は落ちてしまい、風に吹かれた枝が寒々しい。いつの間に冬になってしまったのだろう。季節の移ろいにすら気付かないほど自分には余裕がなかったのだろうか。そんなことを考えながら足は南へ向かっていく。別に何の用事もなかったのだ。元々山川は今日も政務に取り掛かる気でいた。そこを半ば無理やりに外に追い出されたのだ。追い出したのは梶原で、ここ数ヶ月ろくに休んでもいない山川を心配してのことだったのだが、却って困惑に陥らせているだなどとは思いもしなかっただろう。
「困ったな」
真面目で実直で、いっそ出来すぎなほどに清く生きてきた山川には、暇ができたからといって祇園や島原などといった花街に繰り出そうなどという考えは微塵も思いつかなかった。命令で(そう言わなければこの男が何時までも仕事をしているであろうことを梶原は知っていたのだ)仕方なく陣を出たものの、暇を持て余しているというのが現状だ。
「しかし寒い」
部屋の中は火鉢で暖められているのであまり感じなかったが、こうして歩いている京の町は冬だ。故郷の会津ほど寒くはないが、しかし底冷えという、この地独特の骨から沁みてくるような寒さは即座に体温を奪っていく。ちらちらと天から降りてくるものは雪だろうか。吹き付ける風にぶるり、と身震いしてとりあえず何処か店であたたかいものでも取ろうと思いつき、門前町を下っていく。いくばくかもしない内に汁粉の看板を掲げる小さな甘味処を見つけたので、その暖簾をくぐろうとした。その店の隣は小間物屋で、普段なら気にも留めないところだが、どうしてだかその日は違っていた。
「おこしやす」
店先に並べられた色とりどりの簪の一つを手に取ると、店の奥から軽やかな女の声で迎えられた。
「贈り物どすか?お侍はん」
そう言って、にこやかに微笑んだ表情に山川は釘付けになった。決して人目を引くような顔立ちではない。美人ともてはやされるような類ではない。しかしその微笑った顔にどうしてだか惹かれた。
「あ、いや。特別用があるわけではないのだが」
馬鹿正直に言った山川に彼女は「あら」と軽く小首をかしげてみせた。
「そうなんどすか?」
「すまなかったな。すぐに失礼する」
そう言って、踵を返そうとしたのだが、店先を辞そうとした瞬間、ぐぅぅ、と。山川の腹が鳴った。
「あら」
今度は目を丸くした彼女ががくすくすと笑い出す。思わぬ失態に頬が熱くなり、足早に立ち去ろうとした山川を、
「お侍はん」
その袖をちょん、と摘んで彼女は引き留めたのだった。
「お口に合いましたやろか」
「は、これは、かたじけない」
彼女が振舞ってくれたのは栗入りのぜんざいで、冷えた身体にそれは有り難かった。食後に熱いほうじ茶を淹れてくれた彼女に改めて礼を言う。
「会津のお侍はんでもお腹が鳴るんどすなぁ」
「そ、それは」
「よろしかったらもう一杯どうどす?」
「いや、これ以上は」
流石に馳走になりすぎだと断ると、彼女は自分の分もお茶を淹れて、山川の向かい側に腰を下ろした。店の奥にある座敷は品良く整えられており、古いがよく磨かれた黒い柱が落ち着いた雰囲気を出している。
「その、お名前を伺ってもいいだろうか」
「はい?」
彼女が吃驚した様に瞬くのを見て山川はそんなに変なことを言ったのだろうか、と首をかしげる。山川にしてみれば、ここまで世話になったのだから後日それなりに礼をしようと思っただけなのだ。義理堅いこの青年はただそれだけを思って彼女の名前を聞いたのだが、世間の多くはそうは取らない。出会って数刻も経たない内に名を聞くなど、相手に気があるとしか思えない。だがこの女性は聡明だったようだ。すぐに目の前のこの青年に他意がないことを読みとり、またもやくすくすと笑い出した。
「あの、わたしは何か可笑しいことを言っただろうか」
藍染の着物の袖で口元を覆い、肩を小刻みに震わせて笑いのやまない彼女を心配そうに見る山川に、無理やり笑いを引っ込めた女性が目尻に溜まった涙を指先で拭ってようやく言った。
「」
「は?」
「どす。ウチの名前」
「、殿」
繰り返し呟けばはころころと笑う。
「いややわぁ、ウチそないに大層な人やないんどすえ。殿やなんてつけんといておくれやす。どうぞ、と呼び捨てに」
「しかしそれでは」
失礼ではないだろうか、と躊躇う山川に、
「ほな、お侍はんもお名前教えてくれはる?それでお相子にしましょ」
「これは失礼をした!わたしは会津藩士、山川大蔵という」
相手の名を聞きだしておいて、自分は名乗らずにいたとは武士の名折れとばかりに慌てて自らの名を告げる山川をはじっと見つめる。
「大蔵さま」
おっとりと、小首を傾げて彼女が自分の名を呼ぶと、山川が真面目に「何だろうか」と返事をする。その様子がまた可笑しかったのか、笑う彼女が悪戯っぽく目を細め、
「呼んでみただけどす」
と、微笑んだ。その笑みに山川の頬はかっと熱を持ち、「からかわないでもらいたい」といかにもうぶな反応を返すものだからますますの笑いを誘ってしまったのだった。
「すっかり長居をしてしまった。申し訳ない」
「ええんどす。どうせ今日はこんなお天気やもの。お客さんも来ぉへんし、大蔵さまとお話できてウチは楽しかったどすえ」
昼前に出たはずだが既に日も暮れかけている。冬の日暮れは早い。まして京の都は山々に三方囲まれた盆地だ。必然太陽が山の向こうに沈むのも早い。もっとも彼女が言うには日が沈みきってからもしばらくは明るいそうなのだが。
「今日の礼は後日必ず」
「あら、そんな気ぃ遣わんといておくれやす」
「それではわたしの気がすまない」
「ふふ、大蔵さまは案外頑固なお人どすなぁ」
「そうだろうか」
これでもう何度目か。今日出会ったばかりの彼女に笑われるのは。それでも嫌な気持ちがしないのは、彼女といる時間が心地良かったからだろう。日々の喧騒に呑まれ知らぬ内に気を張っていた山川は、久々に人心地ついた気がして、清々しい気分だった。店を出ようとすると、空からは風に運ばれ小雪が舞っていた。
「あら、風花。北山は雪なんやろか」
見送りに出てきたが傘を持っていくように言ったが、断った。これぐらいの雪は慣れている。
「そやけど、大蔵さま寒そう……ちょぉ、待っといてもらえます?」
何かを思いついたらしい彼女が奥へ引っ込むのを待っていると、すぐに戻ってきた。その手には渋皮色の襟巻き。それを手早く山川の首に巻きつけ、にこりと笑う。
「殿、あ、いや。これは」
「使うておくれやす。大蔵さまがお風邪でも引いたら大変やもの」
「だが……」
ここまでよくしてもらって却って悪いことをしたと言いよどむ彼の背を優しく押して、は笑う。
「また来ておくれやす」
その言葉に必ず、と頷いて黒谷へと足を向ける山川の、心に知らず宿ったモノは。やがて淡く色付き、ゆっくりとほころび始めることとなる。
完成日
2007/07/15