絶対に失くしてはならない、約束。




04. 小指が行方不明なんです。




「あ」
細い川を挟んだ向こう側。見慣れた顔が自分を見つけ、ぱっと華やいだ笑顔になる。そうして次の間にはもう、それは駆けてくる。まっすぐに、まっすぐに、自分の元へ。
「晋作!」
名を呼び、少女は走ってやってきた。駆けてくる、その一瞬が。何よりもいとおしい。からころと下駄が鳴る。黒々とした髪を結い上げたばかりの、未だ少女の域を抜けない、そんな幼くも愛らしい笑顔を満面に浮かべ、彼女は見上げる。
「そねいに走らんでも僕は逃げたりせんぞ」
口の端で噛み殺しきれなかった笑いが、くつり、と溢れる。雨の時期に相応しい、紫陽花柄の淡い青の着物が鮮やかに目に入る。彼女が持っているものはくすんだ朱色の古びた傘。そういえば、村塾を出た辺りから雨がぽつぽつ降ってきていた。同じく村塾を後にした山田市之允や久坂玄瑞などは、すぐ側にある伊藤俊輔の家に雨宿りに向かった。恐らくそのまま日が暮れるまで討論に明け暮れるのだろう。
「高杉も来ないか?」
と、誘われたが今日はそんな気分じゃないと断った。
「正解じゃったな」
「なあに?」
迎えに来た少女、が晋作のひとり言におっとりと首を傾げるのを視界の端で捕らえる。傘を大事そうに抱えた細腕の白さが着物の袖から見える。
、何をしに来たんじゃ」
少女が何をしにここまでやってきたのか、自分を見つけて駆けて来たことから考えれば一目瞭然だが、敢えてそう問いかける。意地の悪さは自覚済みだ。しかし彼女にはその意地悪もほとんど利いた試しが無い。
「晋作の家に行ったら、松陰先生のところだと聞いたから。それでね、雨が降りそうでしょう?おばあさまがこれを持って行ってくれないかって」
これ、と。傘を差し出してにっこりと。無邪気に答える少女は呆れるほどに純粋だ。彼女の言うおばあさま、とは晋作の祖母なのだが、家が近く、幼い頃から家族ぐるみで付き合ってきたにとっては己の祖母も同然だ。素直な彼女の気性は高杉の家でも好かれており、何かにつけては晋作の家にいることが多い。
「迎えに来てくれたんはありがたいが、じゃけど一本しかないぞ」
「あ」
自分が持ってきた傘が一本しかないことにようやく気付き、丸い目をぽかんと瞠る。そんなの様子に晋作はまた沸きあがってくる笑みを抑えられない。
「まあええじゃろ。ほれ」
少女の腕の中から傘を取り上げ、ばさり、と開いてさしかける。きょとんとしたをぐいと引っ張って、傘に入れる。
「二人ぐらい何とかなるじゃろう。帰るぞ」
掴んだ腕はそのままに、手と手を繋ぎあう形となるのはごく自然なことだった。帰る道すがら、にせがまれて晋作は村塾であった色々な話を聞かせてやる。今日は玄瑞と栄太郎が茶の温度について延々議論をしあったとか、諫める立場にあるはずの師、松陰までもが討論に加わったとか、結局場を収めたのは杉蔵の地獄の笑みだった、など。他愛の無い話をは殊更喜び、もっともっと、と次をねだる。いつしか雨はしとしとと土を濡らし、跳ね返る泥が足元を危うくさせる。
、もうちょいこっちに寄れ」
彼女の肩が濡れ始めていることに気付いた晋作が幼い肩を引き寄せると、手の中でそれは一瞬だけ強張った。おや、と思って見下ろすと、俯いたの首筋も耳も真っ赤に染まってしまっている。
、どねいした」
ここで問いを投げるのは意地悪だろうか。そんなことを思っても、生来の気性は彼女をもっと苛めてみたいという衝動を抑えきれない。
ー?」
さらに名を呼ぶと、俯いたままの彼女が繋いだままの手をぎゅっと握ってきた。そのあまりにも可愛らしい恋慕の示し方に、かえって晋作の方が照れてしまう。普段の彼からは想像もつかない、わずかに困った様子でどうしたものかと傘の隙間から曇天を見上げる。

三度、名を呼べばようやく少女は顔を上げた。泣きそうに潤んだ瞳がまっすぐに晋作を映す。
「晋作、あのね、わたし」
「雨の中で話し込むちゅうんも風情があってええがのう、僕は濡れたままでも構わんが、、おまえは風邪を引くじゃろう」
必死になって話そうとした言葉を遮り、晋作は歩くように促す。
「大丈夫よ」
「いいや、駄目じゃ。の父上に叱られとうはない。それに風邪で辛い思いをするを見たくないんじゃ」
「平気なのに」
尚も言い募ろうとする彼女。晋作はちょいとかがんでそのやわらかな頬に唇を軽く触れさせた。びっくりして今度こそ本当に固まってしまったを笑いながら見下ろして、
「それに、な。そういう大事な話は男からするもんじゃ」
言って、繋いでいた手を離す。の手が追いすがるように、晋作の手を求めた。無意識にされるその様子に、胸の内があたたかくなるのを感じながら、そっとの細い小指を自分のそれと絡める。
「僕の小指を預けちゃる」
小指同士の弱い繋がりに不安げに見上げるの耳元に、吐息を吹き込むように囁く。大切に、やさしく、想いが伝わるように。
「小指はの、約束の指じゃ。、おまえにこれを預けるちゅうんが、どういう意味か分かるか?」
ふるり、と弱く頭を振るの耳に今度はくすくすと笑い声を落とし、絡めた二人の小指をゆっくりと彼女の目の高さまで持ち上げる。
「僕はと約束する、ちゅうことじゃ」
「何のやくそく?」
「馬鹿、全部言わんと分からんのか」
きょとんと瞳を瞬かせて素直に見上げてくる彼女に苦笑する。
「一緒になる、生涯添い遂げる、の人生を僕が貰う。こう言うたら分かるか」
一言、言葉を口から零すごとに淡く紅色に染まってゆく彼女の頬を見ながら満足気に晋作は頷く。
「じゃからの、。絶対なくすなよ」
「……うん」
今ではもう、泣きそうに潤んだ瞳を精一杯笑みの形にして。は小さく返事をした。弱く儚く、だが確かに繋がった二人の小指を見て、そして空いた方の手でそっとそれを包み込んで。
「嬉しい」
たった一言、言ったその言葉が何よりも、晋作に彼女をいとおしく思わせるのだ。


完成日
2007/07/14