人を殺した後、彼女に逢いたくなる。それは血に染まり、人としての自分を見失いかけた自分に最後に残されたものがという唯一人の存在だからだろうか。
「小輔?」
気配を殺し、そっと彼女の部屋の軒下に忍び込んだ山県だったが、予想外に本人の声がして驚いた。軽く息を呑むと、彼女も現状を理解したのか、しばらく無言で通し、周囲の気配を窺っているようだった。やがて、障子戸がかすかに開き、白い指先がそっとある方向を指す。それを確認すると山県は来た時と同じように誰にも気付かれることなく広い庭を影のように密やかに抜けていった。
「ごめんなさい。抜け出すのに手間取ってしまって」
彼女の家から少し山の方へ歩くと、朽ちかけた寺がある。住職もおらず、人の手入れも行き届いていない荒れ果てた堂内に灯りも灯さずに座して待っていた山県は、走ってきたのだろう、わずかに息を乱した彼女が後ろ手で堂の扉を閉めると待ちきれなかったようにその肢体をかき抱いた。息も詰まるほどの突然の抱擁に、は驚き、そして僅かに眉を顰めた。
「小輔、また人を殺したのね」
哀しいほどに静かに響いた言葉だが、山県の心には皮肉にも伝わらない。彼女を抱く腕をいっそう強めて、うなじに鼻を寄せてその匂いを貪ろうとする。
「血のにおいがするわ」
「じゃから、どうした」
「どうも、しない……わたしが何を言っても無駄でしょう?」
「そうじゃな」
短く答える山県にの表情は曇るが、しかし何も言わなかった。
「どれくらいここにいられる」
暗がりの中、互いの表情すら見えぬ状況で、彼女の耳元に囁くと、吐息が刺激になったのか、腕の中の彼女の躰がびくりと怯えたように身じろいだ。
「今日はお父様がお城に呼ばれているの。だからもう少し、大丈夫よ」
「そうか」
城、と彼女が唇で呟いた瞬間、山県の目に暗い炎が揺らめいた。だがそれを気取られぬよう、彼女の髪の香りを肺の奥深くに吸い込んで燻る焔を隠す。
「ねえ、小輔」
山県に抱かれるがままにその小さな白い額を胸に預けていたがふとその顔を上げる。月が昇ったのか、破れた蔀戸から漏れる僅かな明かりに美しい顔を憂いに曇らせて彼女は言う。
「どうして殺すの?」
「向かってくるからじゃ。邪魔なもんは斬らなきゃならん」
「それは小輔が相手に敵意をもつからでしょう?ねえ、もうやめてちょうだい。いつかあなたも怪我をしてしまうわ」
「俺は怪我なぞそんな間抜けな真似はせん」
「そんなこと言って、次は小輔、あなたが骸になるかもしれないのよ?」
「そうなれば、そこまでじゃな」
「馬鹿なこと言わないで」
軽々しく自らの死をにおわせた山県をきつく睨む。
「わたしがどれだけあなたを心配していると思っているの。いつもいつも、何処で果ててもおかしくないあなたの無事を祈って、ただ待つしかないわたしの気持ちを少しは考えて!」
「……」
彼女が己の生を心配するという、その言葉のみが山県を震わせた。黙って見下ろす彼女の頬に、いつしか流れる雫がある。月影にきらり、と刹那に光るその水を美しいと只思った。思ったが、彼女の言葉の全ては入ってこない。いつからか、目の前にいる彼女の“聲”が聴こえなくなってしまった。今の山県には彼女の聲は只の美しい音としてしか響かない。
「考えちょる」
低く、彼女の耳に囁く。山県にとって、人を殺す事自体に何の感慨も持てなかったが、その果てにある未来にこそ意味があった。
「今のままじゃ、俺はおまえにこれ以上触れられん」
山県の身分は中間だ。士分と平民の狭間にあるこの身分は、下級武士ですらない。武士として最下級のこの身分の所為で、幼い頃から辛酸を舐めさせられた山県にとって、身分とは疎ましく忌まわしいものでしかなかった。
「そんなこと……!」
触れられない、と。そう囁いた山県の言葉にはっと顔を上げる。その美しい顔には育ちの良さが否応無く滲み出ている。その顔をいとおしいと思うが、同時に壊してしまいたいほど憎らしい、と山県は心の虚で考える。彼女の身分は自分とは比べる事ができないほど上なのだ。山県はを深く愛するが、それ故に憎んでもいる。それは彼女自身が問題ではないのだが、に纏わる身分は変えようの無い現実として絶えず目の前に重く圧し掛かる。その重圧に耐え切れず、かといっての手を放すことも出来ず、いつしか山県は歪んでいった。歪にカタチを変えた彼の慕情は、それでも尚純粋に彼女を求める。求めた末に出た結論が、倒幕という道だった。
「幕府さえなくなれば、士族なんてものも意味をなさなくなる。そうなればおまえも」
「小輔、何を言っているの?幕府をなくす?何てことを!」
は知らなかったのだ。今の今まで、山県が人を殺す理由が倒幕という目的の元にあったことを。
「そんな、そんな恐ろしいことをどうして考えるの。ねえ、小輔、わたしは今のままでも構わないのよ。だって家はお兄様が継ぐのだし、嫁いでしまえばあなたが考える身分の差など気にならないわ」
だからそんな恐ろしく遠大な謀に関わるのはやめて、と。必死になっては訴える。しかしその聲はやはり彼女の愛しい人には届かない。こんなに近くにいるのに、確かに肌のあたたかさを感じるのに。には山県の心が何処か途方もないくらいに遠い場所に置き去りにされているような気がした。人を殺すことで山県は己すらも殺してしまっているのではないのだろうか。
「……?何故、泣く」
腕の中でぽろぽろと涙を零すを不思議そうに見下ろす。涙に濡れた頬が月光に青白く浮かび上がる。その様をやはり美しいと感じるが、同時に滅茶苦茶に壊してしまいたいと思うのもまた事実で。綺麗なものは汚してしまいたくなる。このままこの場で組み伏せて、彼女を奪ってしまえばどうなるだろうか、と。そうすればは自分だけのものになるだろうか。思いはするが実行には移せない。結局は彼女に触れる勇気がないだけなのだ。は身分など要らないという。二人でいられることだけを望むのだという。拘っているのは、身分という名の鎖に捕らわれているのは山県の方だ。
「遠いわ」
ぽつり、と呟いた彼女はゆっくりと目を伏せる。長い睫毛に彩られた目元に雫が溜まって水晶のように光る。
「こんなに近くにいるのに。あなたが、とても遠くにいるみたい」
すれ違っているのだ。こんなにも傍にいるというのに。狂い、捩れてしまった糸がほどけないほど複雑に絡み合って。お互いを想い合う気持ちは確かにあるのに、それ以上何もいらないはずなのに、どうしてこんなにも心は淋しいのだろう。
「」
静かに涙を流す彼女の名を呼ぶが、常ならば少し恥らうように頬を染めてはにかむは俯いたまま、決して微笑んではくれなかった。
07. 狂気小さじ二分の一