12. 生ぬるい牙
「強情な女じゃの」
自分の下に組み敷いた女を見下ろしながら晋作は言う。返ってくるのは想いの通じ合った恋人同士の甘やかな空気ではなく。無理矢理モノにしようと押し倒した相手からは、しかし怯えも恐怖も、腕力に訴えて暴挙に出た晋作への嫌悪すらない。ただ返ってくるのは静かに凪いだ表情と、切れ長の両の瞳に宿る強い光。その目に映る晋作は、自分が酷く拍子抜けした顔をしている事に気付いた。だが女の身体の上から退く気はなく、そして呟いた一言が先刻のそれだ。
「普通のおなごはこういう時もっと怖がるもんじゃぞ」
「生憎と、普通の育ちをしていないものでな」
「恐怖の裏返しで泣かずにおるなら大したもんじゃと思っちょったが、おまえはそうじゃない」
近付く晋作の顔を避ける素振も見せず、真っ直ぐに見つめ返してくる。いっそその唇を吸って、不気味にすら思えるほど凪いだ表情を苦しげに歪ませてやりたい。そんなサディズムに満ちた気持ちが晋作の心の内に湧き上がって、どす黒く渦巻いてゆく。目の前の女の唇は赤く熟れた果実のように瑞々しく、男を、晋作を誘う。
「僕が怖くないんか?」
「何故?」
強がりでもなく心の底から疑問に思っている。そんな様子で問い返してくる女の瞳を真上から見下ろす。綺麗な眼だ、と思った。目元に朱でも挿せば映えるだろうに。染めてやろうか、そんな考えが過ぎる。
「」
吐息で囁くように名を呼んでも、返ってくるのは熱など一切篭っていない視線。あまりにも彼女が平静でいるから、こちらが焦ってしまう。
「私はこういったことに慣れていない」
晋作の下でが口にした台詞は彼の動きを止めさせた。唇で着物の襟から覗く細い首筋を辿ろうとしていた晋作だったが、彼女の声が耳に入った瞬間、唐突にその動きを止め、僅かに身を起こしての表情を窺う。
「男女の睦み合いといったものをしたことがない。故に知らない。だが知識としては持っている」
淡々と言葉を紡ぐを黙って見つめる晋作。構わず続ける彼女の唇は、紅い。押さえつけた身体は抵抗すらしない。触れた部分の肌は依然冷えたまま。
「其れは私が医者だからだ。だがこういった行為を無理強いするほど女に飢えた者と出会ったのは初めてだ」
「何が言いたいんじゃ」
「おまえは余程酔狂な人間なのだな、と。其れが言いたいだけだ」
顔を横に背けたに晋作は呆れた声を出す。
「この状況に抵抗はせんのか?僕はおまえを抱く気でおるんじゃぞ?」
何が哀しくてこんなことを言わねばならないのか。晋作はこれまでこういう場面になって、これほど直球に無粋に相手にこれから行う行為の説明をしたことがない。郭の女達はそれが商売であったし、わざわざ確認するなどかえって野暮だ。しかしは郭の者ではない。無理に事を成そうとすれば、どうなるか分からない。そういった僅かばかりの遠慮が晋作に先程の言葉を言わしめたのだが、当の本人は全く無頓着であるようだ。
「だから酔狂だと言ったのだ。私のように何の魅力もない女を抱こうと考えるのだからな。これから起きる事自体に興味は湧かない。言っただろう?私は普通のおなごとは違うのだ」
「少しぐらい嫌がってみせたらどうなんじゃ。その方がそそられるっちゅうもんじゃ」
いよいよ呆れ果てた晋作が言えば、
「どうでもいい。やる気が起こらないのなら止めればいいだろう。それで私もおまえも損をしない」
ある意味でとても潔い、その言葉。これから行われようとしている男女の色の交し合いを利害のみで処理するなど、郭の女郎でさえもなかなか出来ないことだ。得てして女は感情を優先させて生きる生き物だから。ましてや彼女はその口で自らを処女だと言い切ったばかり。なのにこの堂々とした様はどうしたことか。
「魅力がない、とは誰が言ったんじゃ」
だけれど晋作にはそれが好ましく映る。ふっと口元を緩ませて問えば、依然顔を背けたまま応える声。
「誰でもない。あるいは皆がそうだと言えばそうだ。言っただろう?この年になるまで私はそういった経験がない」
「馬鹿じゃのう」
可笑しくなって思わず口にすれば、怪訝そうに見上げる表情。整ったその顔が悦楽の表情を浮かべるのをまだ誰も見ていないのだ。勿体無いことをするものだ、と晋作は思う。彼女の周囲に居た男は余程の馬鹿だ。目の前で自分が自由を奪っている女のどこに魅力がないなどと思えるのか。
「誰が馬鹿だと……」
言いさす口を己の其れで塞げば、先程まで全く揺らがなかった彼女の表情が少しだけ驚きに傾いた。些細な変化だが、晋作にとっては何よりのこと。彼女は気付いているのだろうか。最初は確かに力で押さえつけていた腕も、肢体も。今は何の拘束力も持たない事を。振り払おうと思えばいとも容易くこの場を逃れられる。なのにそれをしないということは。
「馬鹿じゃ。も、おまえの周りに居た奴も、それから、僕も」
ぎりぎりまで近付いて、落とした言葉が瞼を震わせる。反射で両目を思わず閉じたの、その冷えた瞼に口付ける。伝わればいい、と思った。この身に宿る熱のほんの一部でもいいから、彼女に。
「皆して馬鹿じゃ。じゃから男も、女も色を交わすんじゃ」
あえて言葉にするのは野暮な事。だけどどうしても言ってみたかった。彼女がそれを耳にして、どういった表情をするのかを見てみたかった。
「のう、。僕はおまえを抱きたい。じゃからおまえを好いておるっちゅう事じゃ」
さあ、どんな顔をする?口の端を吊り上げて、底意地の悪い笑みを浮かべた晋作の目の前で、彼女の雪白の肌がほんのりと血の気を帯び、徐々に染まっていく。
「私は色恋沙汰には疎いのだが」
やがてふいと顔を逸らした彼女の口から、
「おまえの言っている事は順序が逆ではないのか」
声に拒絶の色はない。相も変わらず淡々としたその調子。それを今から突き崩すのかと思うと心が躍る。
「情のこわい女は嫌いじゃない」
口にして眼前に晒された細い首筋に噛み付き、ゆるゆると歯を立てれば。丹花の如き唇から零れ落ちたまだぎこちなくも艶やかな吐息。それは晋作をして只、満足をさせるものでしかなかった。
完成日
2008/02/23