だって、好きな人にはいつも笑っていてほしいから。
13. なけないけもの
けほり、と。小さくいくつか咳き込んだ後、口の中に錆びた緋色の味が広がった。もう幾度繰り返したか知れないその感触に、ため息すら零れずにただ緩慢な、それでいて慣れた仕草で懐紙を手に取り血を拭う。
「総司」
障子が開いて土方が顔を覗かせる。幼い頃から知っている兄のような存在、新選組副長土方歳三は枕元に丸めて捨て置かれている血染めの懐紙を見て眉間に険しい皺を刻む。
「あ、土方さん」
そんな彼に沖田はへらりと笑いかける。
「おめぇ、また血を」
「やだなぁ。土方さん。眉間の皺がいつもの八割増ですよ?そんな顔じゃみんな怖がって逃げちゃいますよ」
血を吐いたのか、とは皆まで言わせずに土方の言葉を遮って明るく笑う沖田に苦い顔をすると、畳の上に転がる血の染みた懐紙を拾い上げ、部屋の隅に備えられた屑篭に丸めて捨てた。それから布団に起き上がる沖田の隣に座る。
「この顔は生まれつきだ」
憮然と言った言葉に沖田は噴出した。肩を震わせて笑う沖田を苦々しく眺めていた土方は、目の前の青年が記憶のものよりも幾分か細くなっていることに気付いてさらに苦く口元を歪めた。沖田が床につくようになってまだそれほど時間が経ったとは思っていなかったのだが、病状はこの青年の快癒を願う心とは裏腹に、刻一刻と進行しているようだった。外に滅多に出ることがない所為か、白いままの肌が余計に目に付く。
「具合はどうなんだ」
「至って元気ですよ?だから言ってるじゃないですか。そんなに心配しなくても大丈夫だって。本当なら隊務だってこなせるんですから」
それを土方さんと近藤先生が無理矢理休ませてるんですよー。頬を膨らませて言う様は記憶の中の少年と寸分違わぬ、“宗次郎”のままだ。まだ自分達が京都にいない頃、東の片田舎で闇雲に木刀を振り回していた頃。この青年は仲間内の中でも年少で、よく皆に他愛のない冗談を言われてからかわれていた。その度に頬を膨らませて、文句を言っていた。素直に反応するその様が皆に好まれて、余計に可愛がられていたのだがその癖一度剣を手にすると誰も敵わなかった。
「宗次郎には敵わんなぁ」
近藤が豪快に笑いながらそう言って少年の頭をぐりぐりと撫で回すと、彼は照れくさそうに笑って喜んでいた。あの頃はまさか、こんな事になるとは思いもしなかった。ため息をつきそうになって慌てて飲み込む。布団の上に起き上がって、膝を抱えてこちらを見上げてくる彼がそういったコトを何より厭うことを思い出したからだ。代わりに少しだけ口元を緩めて、懐から取り出したものを彼へ渡す。
「ほら、からだ」
「あ!」
故郷から届いた手紙に笑顔が華やぐ。この青年をこんなにも幼い笑顔にさせてしまう、屈託のない表情に戻してしまう、その威力に土方は舌を巻く。渡された手紙の宛名、自分の名前を大事そうに指でなぞり、笑みを零す彼を見てという少女の存在がどれほど目の前の青年の心を占めているかが判る。
「何て書いてあるんだ?」
沖田へと手紙を送ってきた少女は幼い頃から土方もよく見知っている。試衛館にいた頃、近所に住んでいた彼女はよく道場に顔を出していた。自分よりも年少である沖田よりもさらにいくつか年が下だった彼女は、試衛館の面々はもとより弟妹のいない沖田に本当の妹のように可愛がられていた。その親愛の情が、いつしか男女のそれに変わる様を傍でつぶさに見ていた訳ではないが、二人の仲はいつだって微笑ましく周囲に見守られてきたのだ。
「ええ?内緒ですよ、そんなこと」
「何だよケチケチすんな。いいから教えろ」
「もう、仕方ないなぁ。ちょっとだけですよ」
渋りながらも手紙を渡し、土方は見慣れた細い筆跡が薄い紙に細かく並んでいる手紙に目を通す。手紙には真心がこもっていた。新選組の評判がこちらにも聞こえてくるようになった。そのことを誇らし気にする反面、忙しい沖田の身を案じている一文も見て取れた。ちゃんと元気にしているのか、と。風邪など引いてはいないか、と。
「総司、おまえ」
手紙を読んで小さな違和感に気付いた土方が顔を上げる。
「に何も言ってねぇのか」
病のことを。
「言ってませんよ?」
問いにあっさりと答えて、沖田はにこりと微笑んだ。
「おまえ……!」
「だって、知らせたら心配するじゃないですか」
「当たり前だろう!」
思わず気色ばんだ土方だったが、対峙する沖田の両の瞳があまりにも澄んだ感情を宿していたため、飛び出しかけた言葉のほとんどが喉の奥で絡まった。そんな土方をじっと眺めていた沖田は、ふいに視線を外してぽつりと呟いた。
「好きな人にはいつも笑っていて欲しいから」
「総司」
「知らせたら、は絶対泣くから。泣き顔、可愛いけどあんまり見たくないなぁ」
言いながら彼の心が彼の地へ、少女の元へと飛んでいってしまった事を土方は感じる。弱音を滅多に見せようとしないのがこの青年の歯痒いところだ。沖田の言う通り病の事をに知らせたら、彼女は心配して、そして泣くだろう。泣いて欲しくない。それが喩え自分の為であっても。だけどそんなのはあまりにも傲慢だ。泣かせると判っているから知らせない。けれどこのままでは何も知らないまま沖田の身を案じて待つがあまりにも憐れだ。
「病気になるのがならよかったのに」
遠い目をしたまま呟いた沖田の言葉に土方はぎょっとして彼の顔を覗き込む。
「そうしたら私がずっと傍にいて、死ぬまでずっと一緒にいられるのに。が死ぬまで。ずっと、ずっと」
「総司、おめぇ」
目の前の青年に刹那に宿った狂気の欠片。土方が思わず声をかけると、沖田は土方の方を向いてにこりと微笑んだ。
「土方さん、あのね。私に約束したんですよ。立派な侍になって、迎えにいくって。と約束したんです。でも約束、守れそうにないなぁ」
微笑んだ形のまま、くしゃり、と顔を微かに歪める。いびつな笑顔が痛々しく土方の目に映った。
「守れないなら守れないで、はっきり言えばいいんだけど。今の私にとの繋がりはそれしかないから。だから、断ち切れないんですよ。女々しいでしょう?」
沖田は知っているのだ。己に巣食っている病が不治のものであることを。遠からず自分の命の灯火が儚くなることを。だからこそ、残す者への想いに執着する。自分がいなくなった後、彼女には倖せになって欲しい。けれど、自分以外の誰かの隣で笑っている彼女など思い描きたくもない。傲慢な独占欲、つまらない意地で彼女を縛り続ける己がどれほど愚かか、知っているのだ。いっそ自分ではなくが病にかかっていたのなら。それならば望む形で彼女を独り占めできる。彼女の隣に在り続けるのは、最期の瞬間に傍にいるのは自分ひとりだ。それは何という至福だろう。
「、私が死んだら泣いてくれるのかな」
ぽつりと呟いた沖田こそが泣きたいのに泣けない、そんな顔をしていることを土方は黙って見ていた。彼もまた、知らず熱くなる目頭を必死に堪えている。
「泣いてほしくねぇ、って言ったばかりじゃねえか」
詰まりそうになる声を絞り出して土方がそう言うと、そうなんですけど、と沖田は苦笑してみせる。
「でも、やっぱり。最後は私の為だけに一度だけでいいから、少しだけ、泣いてほしいな」
そう言った、彼の顔があまりにも透明な笑みを宿していたから。怖くなった土方は、情けないと思いながらもその顔を見たくなくて顔を逸らした。
完成日
2007/10/08