02. 幸福なくちびるの持ち主




唯我独尊丸。飼い猫にこんなに変な名前をつける幽くんの思考回路の構造が分からない。それでも猫に罪はない。私の膝の上でごろごろとくつろぐスコティッシュフォールドは文句なしに可愛い。可愛すぎてどうにかなりそうだ。主に私が。
「あああ、かわいい……猫可愛い。独尊丸かわいい」
指先で顎の下をくすぐってやると、独尊丸は満足気に喉を鳴らして目を細めた。
「………っ!!!!!!!!」
もはや言葉にならない。独尊丸のあまりの可愛さに悶絶していると、キッチンから戻ってきた幽くんが「何してるの」と抑揚のない声で尋ねてきた。
「コーヒーでいいよね。砂糖は?」
「いらなーい……はぅー独尊丸可愛すぎるよー」
二人分のコーヒーを淹れて持ってきた幽くん。超人気俳優にコーヒーを淹れて貰う一般人って早々いないよなー、と頭の片隅で思いつつ、猫じゃらしに夢中な独尊丸に夢中な私。
「コーヒー、冷めるよ」
ソファに腰掛けてコーヒーを飲みながら言う幽くんに、膝の上に独尊丸を乗せたままテーブルの方へ身体を向ける。
「いただきます」
「どうぞ」
あまり物が置かれていないだだっ広いリビング。無駄に大きな液晶テレビの前に置かれたソファとテーブル。高層マンションの一室、燦々と陽が差し込む大きなガラス窓の向こうにはビルが小さく見える。信じられないことにこのマンション全部が幽くんの所有物らしい。俳優業でもそれなりに儲けているらしい幽くんは、株だか何だかで更に大儲けしたらしい。金儲けの才能があるとは羨ましい限りだ。こっちは短大出て必死に社会の荒波に揉まれているというのに。
、猫好きだったんだ」
「大好き。可愛すぎて犯罪だよ、このふわもこは!」
小さな前足で必死になって猫じゃらしを追いかける独尊丸。悪意の欠片もないない無垢な存在は、擦り切れた心を癒す最高の存在だ。だらしない顔になっているんだろうなー、と思いつつ、そもそも超絶麗しい幽くんの前じゃあどんなに私が取り繕ったところで叶うわけもないのだから、今更醜態の一つや二つ、晒しても問題ないだろう。……うん、きっと。
「早く言えばよかったな」
「ん?」
コーヒーカップをテーブルに置き、左手を顎の下に添えて何事か思案するような素振りをする幽くんの小さな呟き。聞き取れずに首を傾げると、ソファを降りた幽くんが隣にやってきた。
「もっと早く言ってれば、此処に呼ぶ理由になってた」
「えー?」
何言ってるの、と疑問符を頭のてっぺんに浮かべる私の横で幽くんは独尊丸を撫でている。飼い主に撫でられて嬉しいのか、独尊丸はさっきまでねこじゃらしで遊んでいたご機嫌なテンションのまま幽くんの細い腕にじゃれつく。いいなぁ、とそれを見つめる私の視線に気付いたのか、幽くんが少しだけ笑った。
「やきもち?」
「うん」
「どっちに?」
「うん?」
先程よりもさらに増えた『?』のマーク。さっきから幽くんの物言いは何だかとっても引っかかる。そもそも私と幽くんは所謂幼馴染みという間柄で。こうして大人になった今でも、互いにたまに連絡を取り合うくらいはする。最近では映画だドラマだとメディアへの露出が増えているし、今日も元気なんだなぁ、とテレビ画面の向こう側で笑顔を振りまく幽くんを見て単純にそう思っていた。幼馴染みがこうして遠い存在になってしまった件について、少しだけ淋しさを覚えないでもなかったが、私は私でそれなりに自分の仕事に忙しくしていたため、今日こうして直に会うのは久しぶりのことなのだ。
「にー」
いつの間にか互いに見つめ合っていた幽くんと私。その間で独尊丸がかまって欲しいとばかりに鳴き声を上げる。そんな可愛らしい鳴き声を幽くんは無視して、手を伸ばす。私の頬へ。
「か、すか……くん……?」
するり、と頬を撫でると手はそのまま頬に宛がわれる。目前に迫る整った顔に鼓動が早まる。痛いくらいに大きな音を立てる心臓。
は」
私の名を呼び、幽くんは言いかけの唇で空気を食んで、音とすることなく閉じられる。至近距離で其れを見せられて。今まで意識したことのなかったその仕草に頬がかっと熱くなるのが分かった。何というか、色っぽいのだ。その唇の動きそのものが。
「か、幽くん、ちょ、近すぎやしませんか、ね?」
赤くなった頬を隠そうにも、相手に固定されたままなので身動きが取れない。せめてもの抵抗に視線を逸らしてみるも、幽くんは逸らした方向へ自分の顔を寄せる。結果、さらに近くなった距離に私はさきほどよりももっとパニックに陥ることとなった。
「好きだよ」
「え」
が好き」
突然の告白。頭が真っ白になって、そして自分の顔が音を立てて一気に紅潮するのが分かった。
「え、えと、私も幽くんのことは」
「幼馴染みとして好き、じゃ足りないくらい好き」
とにかく何か言わなければ、と口を開けば先手を打たれてしまう。どうやら幽くんは私が発しようとした逃げの口上がお気に召さなかったようだ。真摯に見つめる深い色の双眸に吸い込まれそうな錯覚を覚える。
、聞きたいのはひとつだけなんだけど」
いやに強引な台詞回しで迫る幽くん。逃れようと無駄な足掻きをする私は後ろ手に手をついて、上半身を必死に仰け反らせる。学生じゃなくなってからまともに運動していなかった私の身体は柔軟性に欠けているため、すぐに背筋が悲鳴を上げた。対して役者としてあらゆる努力を惜しまない幽くんは、平気な顔をして私に覆い被さってくる。
「……わっ」
ついには背中からフローリングに倒れてしまい、咄嗟に見上げた幽くんの表情が微笑んでいるのを見て、二重に衝撃を受ける。そんな顔、テレビの向こうや映画のスクリーンでも見たこと無い。ずるいよ、幽くん。そんな顔されたら、私の答えなんて一つしかないじゃない。

「す、すきです……幼馴染みとして、以上に幽くんが、好き」
「うん」
私の告白に幽くんはさっきよりもっと綺麗に微笑んで、そうしてそのまま唇を落として。恥ずかしくて途中で目を瞑ってしまったけれど、触れあった瞬間何だかとても心があったかくなった。ふんわりと、触れるだけの口づけはすぐに離れて、恐る恐る目を開けた私に幽くんは至近距離で笑った。
「にー……」
放っておかれた独尊丸が淋しげに鳴き声をあげたけれど、
「だめ。は俺のだから」
ぎゅっと私を抱きしめて幽くんが独尊丸を睨むから、私は思わず吹き出してしまったのだった。



完成日
2012/07/29