陽泉高校男子バスケットボール部の主将である岡村建一はとにかく巨大である。二メートルという日本人男性の平均身長を軽く凌駕する体格に、泣く子がさらに大泣きするという強面の持ち主である。そんな彼も高校三年生。思春期真っ只中の少年である。バスケに青春すべてをかけてもいいと思っていても、やっぱりお年頃の高校生。時には異性と甘酸っぱい恋の思い出の一つや二つ経験してみたいものである。しかし前述した通り、岡村建一はでかい、ごつい、顔怖い、の女子にモテる要素から大きくかけ離れた条件の男子高校生なのである。日々、後輩である氷室辰也が女子生徒から黄色い声援を送られるのを指をくわえて羨ましそうに眺め、これまた後輩の劉から「ケツアゴリラ、気持ち悪い顔やめろアル」と辛辣な言葉を投げかけられ、副主将の福井健介からは「安心しろ。おまえが女子に声援をもらう日なんて卒業まで待ったってくるはずねえよ」と力強く励まされ、キセキの世代の大型ルーキーである紫原敦からは「ねー、お菓子買ってきていい?」と部活中にあるまじき発言を賜る。これが岡村建一の日常である。昨日までは、の話だが。
ほんの少し短い夏を終え、インターハイの余韻に浸る間もなく練習を再開させた陽泉高校バスケットボール部の部員達は、九月の半ばを迎えたその日も放課後になると体育館に集まっていた。練習開始前に監督である荒木の伝言と、いくつかの連絡事項を部員に伝えていた岡村の耳にがらがら、と体育館の扉を引く音が聞こえた。掃除で遅れた部員がやってきたのだろう、と特に気にもとめずに手元のメモを見ながら次に伝える内容を口にしようと顔を上げて、彼は初めて部員の様子がいつもと違うことに気付いた。何となく、そわそわと落ち着かないのである。隣同士で耳打ちをしたり、控えめに口笛を吹く者が居たり。何事だと彼が部員達の視線の向かう先に目を遣ると、体育館の入り口に一人の少女が立っていた。白のカッターシャツに臙脂のネクタイ、グレイのチェックのプリーツスカートは確かに陽泉高校の女子の制服である。逆光の所為で顔はよく見えないが、姿勢がいいのが目にとまった。立ち姿が綺麗だ。また氷室のファンなのだろう、と岡村は結論付けて部内連絡を再開させようと口を開くが、部員の視線が少女から一向に離れないのである。いつもなら軽くざわめいていても一応は主将である自分が話し出すとこちらを向くはずなのだが。軽く咳払いをしてみても、彼らの注意を引きつけるまでには至らなかった。何なのだ。今日に限って、一体何が起きているというのだ。困惑しだした岡村の様子に気付いたのか、さきほどから体育館の入り口に佇んでいた少女が口を開いた。
「邪魔をしたいわけじゃないの。続けて」
女子特有のやわらかな声音でそう言って、ごく自然にするりと体育館の中に入り、壁伝いに舞台の方へ歩き出した。まっすぐに伸ばされた黒髪が背中で揺れる。その後ろ姿を思わず見送っていた岡村が我に返り、同じように見惚れていた部員に一喝を入れてようやく彼はその日伝えるべき部の連絡事項をすべて伝え終わったのだった。
いつもより遅れて練習を開始したバスケ部部員達。シュート練習をする彼らの様子を舞台下から眺めている一人の少女。部員達は彼女にちらちらと視線を送ったり、時には手を振ってみたりと注意力散漫もいいところだ。さすがにこの練習風景を見たら、監督である荒木の雷が落ちかねない。
「一体なんじゃ。見学に女子が来るのは珍しいことじゃないじゃろうに」
今年の春に氷室が入部してからというもの、バスケ部には常に女子生徒の見学者がつくようになった。練習試合ともなれば他校の生徒までが応援にやってくる。落ち着いた物腰と秀麗な顔立ち。コートの上ではポーカーフェイスを崩さずに鮮やかにゴールを奪う。これで惚れない女子は世の中にいない。とは福井の談である。
「何だ、おまえ知らないのか」
岡村のぼやきに隣にいた福井がボールを抱えたまま「あれ、だぜ」と言う。その名に覚えが無かったため、首を傾げる岡村。
「福井先輩は彼女のことを知っているんですか?」
シュート練習の順番待ちをしていた氷室が話に加わってきた。
「氷室も知らないのか。だよ、。ほら、生徒会の。始業式とかで壇上に上がってるの見なかったのか?」
福井の説明によるとどうやら彼女は有名人らしい。そういえば、校内のどこかで『』という名前を見かけた気もする。見かけるばかりか聞いたことがあるような気もする。
「生徒会、三年ですか?」
「そう。結構有名人だぞ。生徒会やってるし、実家がすごい金持ちだって噂だし」
それに、と福井はそこで言葉を切って、体育館をぐるりと見回す。不思議に思った氷室も倣って同じように視線を巡らす。そこにはいつもと同じ練習風景があるはずなのだが、今日に限っては勝手が違ったようだ。部員の誰もが彼女、の方を向いている。シュート練習中のはずなのに、その成功率は恐ろしくて口に出せないほどだ。その様子に氷室が驚いて言葉を失っていると、
「すっげー美人なんだよ。何つうの?高嶺の花?とにかくこんな近くで見れてラッキー、みたいな?」
ゴールを外れて飛んできたボールを避けながら福井が続ける。
「そうみたいですね」
現状を見て氷室が苦笑し肩を竦める。強豪校であるはずの陽泉高校男子バスケットボール部は、今やたった一人の女子に見惚れて練習も儘ならない。
「これはアカンじゃろう。カントクが来たら怒られるどころの話じゃないわい」
ちょっくら行ってくるわい、と岡村が舞台の方へ足を向けた。その背を見送り、氷室はふと疑問を口にした。
「ところでそんな有名人の彼女がどうしてここに?」
「さあ?誰かに用事なんじゃねーの?」
告白とかな。と気のなさそうな声で呟いて、手にしたボールをゴールへ放る。リングに引っかからずに落ちるボールの行方を見届けて、恐らくはその相手であろう、後輩の整った横顔に視線を向けた。
「あー」
一方、その頃岡村は困り果てていた。彼はこのちょっとした騒ぎの元であるに、体育館にやって来た真意を質そうと舞台下にやって来たわけだが。いざ彼女の目の前に立つとどう切り出したらいいのか、その方法が分からずに途方に暮れていた。思えばこの容姿の所為で女子に話しかけられることは日常生活でほぼない。あったとしても「岡村君、先生が呼んでたよ」といった事務的な内容だったり、「これ、氷室君に渡してもらえないかな」といった他人の恋路関連のものだったり。要するに慣れていない。圧倒的に経験値が足りないのだ。こんなことならこういう方面に百戦錬磨であろう、氷室に行って貰えば良かったと軽く後悔し始めた時。
「邪魔?」
下の方から声がした。野郎の野太い声ではなく、鈴を転がしたような高く澄んだ声だ。思わず見下ろすと、自分を見上げる少女の視線が絡まった。
「が此処にいると邪魔かしら」
女子にとっては怖いらしい造りの岡村の顔を怖がることもなくまっすぐに見上げてくる。
「いや、いつも何人か見学する者はいるから邪魔という訳ではないんじゃが」
切れ長の瞳。目の際に影を落とすほど睫毛が長い。間近で見ると、という少女はとても綺麗な存在だった。
「あー、その、バスケ部に用事なんか」
あまりじろじろと直視するのも失礼だとようやく思い至った岡村が頬をかきつつ尋ねれば、彼女は一つ頷いた。
「じゃあ、今呼んでくる」
バスケ部に女子生徒がやって来る。その理由は一つしか思い当たらない。氷室を呼ぼうと振り返ろうとしたところ、ぎゅっとシャツの裾を捕まれた。
「どこに行くというの」
「いや、じゃから今氷室を呼んでやろうと」
「なぜ?」
裾を捕まれたまま、距離を詰められる。身長差から必然的に上目遣いになった彼女の視線が心なしか痛い気がする。
「どうして氷室クンとやらを呼びに行くの。が用事があるのは貴方よ、岡村クン」
「は?ワシ?」
目の前の可憐な美少女から思いも掛けないことを聞いた岡村は目を丸くする。と同時に聞き耳を立てていた陽泉高校男子バスケットボール部の部員達もまさかの指名に一様に驚いていた。
「ワシに何の用なんじゃ」
「単刀直入に言うわ」
一度言葉を切って、は深く息を吸い込んだ。
「は貴方に恋をしたの。岡村クン、とお付き合いしなさい」
強い光の宿った瞳で彼女は言い放つ。その言葉の意味を、誰もが理解しきれずに体育館を沈黙が支配した。無音となった室内で、誰かが落としたボールが床を跳ねる音がやけに響く。そうしてしばしの静寂の後、「「「「「「「「ええええええええええええっ!!!!???」」」」」」」」体育館をバスケ部員の絶叫が埋め尽くしたのだった。
「嘘だ!岡村主将が女子に告白されるとかっ」
「しかも相手はあのだぞ!」
「誰か夢だと言ってくれ!!!」
あとはもう、喚くばかりの部員達の中、いち早く立ち直ったのは福井だった。
「ちょ、ちょっと待て待て待て!!おい、!おまえ自分が何言ったか分かってんのか!?」
自分の耳で聞いた事が未だに信じられないといった様子で駆け寄って来た福井に、さきほどの絶叫がよほど耳に障ったのか両手で塞いでいたらしい彼女が眉根を寄せて答える。
「分かっているわ。は岡村クンに告白したのよ」
「その岡村って誰だかちゃんと分かってるのかよ!?コレだぞ、このゴリラ!こっちの奴と間違えてんじゃないだろうな!?」
コレ、で未だにフリーズしたまま動けない岡村を指し、こっちの奴、で無理矢理引っ張ってきた氷室を前に押しやる。そんな福井の行動を煩そうに睥睨するの前に立たされた氷室は、不穏な空気を感じ取って若干腰が引けている。
「失礼ね。恋する相手を間違えるほどは馬鹿ではないわ」
「俺は今夢でも見てるのか」
「いえ、きちんと現実だと思いますよ、福井先輩」
岡村への告白は間違いではないと言う少女を目の前に、福井は自身の思考が追いつかない。思わず呟いた現実逃避の文句にきっちり答えを寄越す氷室がちょっとだけ憎い。
「もういいかしら。は岡村クンから告白の返事を聞かなくちゃいけないのだけれど」
「ああ、すみません。どうぞ……と言っても、主将は固まったままですけど」
さきほどからその巨体を微動だにせず石像のようになった岡村を振り返って氷室が苦笑を漏らす。は小首を傾げてその前に立った。
「岡村クン、どうしたの」
ぴくりともしない男を見上げて、は疑問を口にする。白く細い指先で、シャツを軽く引っ張ってみてもまるで無反応だ。一体どうしたのだろう、とは傍で見ていた黒髪の少年の方を見た。
「ねえ、貴方……ええと」
「氷室辰也。二年です」
「そう、氷室クン。ねえ、岡村クンが動かないの。どうして?」
「多分、予期せぬ事態に思考回路が追いついていないのではないかと」
少し考えて氷室が答えると、は「予期せぬ事態……」と形の良い唇に細い指を宛がってしばし考え込む。
「四時から生徒会の用事があるの。もう行かなくちゃ。氷室クン、伝言をお願い出来るかしら」
「はい」
「練習が終わる頃には体育館に来るわ。岡村クンの返事を聞くために」
「分かりました。主将が元通りになったら必ず伝えます」
「お願いね」
言い置いて、彼女はその場を後にした。長い黒髪を揺らし、背をまっすぐに伸ばして。その後ろ姿を見送って、氷室は体育館を見回す。岡村を含め、バスケ部の部員一同は未だにショックから立ち直れないでいる。これは監督が来ないと無理かな、と結論付けて。用事で遅れてやってきた劉と紫原が異様な雰囲気に怪訝な表情を浮かべるのに軽く事情を説明してやったのだった。
「岡村クン、返事を聞きにきたわ」
日もとっぷり暮れた頃、練習を終えて体育館の清掃やら片付けやらをしていたバスケ部の部員の耳に再びの声が響いた。彼女は放課後来た時と同様、堂々と体育館に入り、岡村の前に仁王立ちして返事を迫っていた。
「アレか。岡村に告白したとかいう酔狂な女生徒は」
部外者だというのに荒木が追い出さないのは、練習時間はもう終わっていることと、岡村が告白されるという珍事の結末を面白がっているという面があるからだろう。逃げ腰の岡村を壁際に追い詰めていくの様子に「中々やるな」と呟き、傍で見守っていた氷室が困ったように笑みを零す。
「へ、返事」
「簡単よ。とお付き合いする気があるのか、ないのか。シンプルな二択でしょう」
口ごもる岡村に対して、は至って単純な答えを用意する。付き合うか、付き合わないか。さあ、返事を。迫る彼女に陽泉高校バスケ部主将は両手を前に出してこれ以上近づけないようにした。
「と、友達からじゃ駄目なんか」
大層弱気な発言に、彼女はきっぱりと言い切った。
「厭よ。が欲しいのは『友達の岡村クン』じゃなくて、『恋人の岡村クン』だもの」
腰に手を当てて、威風堂々と言い放つに向けて、見守っていた部員達の何人かが拍手を送った。
「うわーすごーい」と紫原が漏らし、「あんな美人、アゴリラには勿体ないアル」と劉がぼやく。
「そもそもモテたいとか毎日毎日しつこいぐらいに言ってたくせに、いざ告白されると『お友達から』とか何なんだよ」
「主将はあれで純情だったってことですよ」
福井の多少僻みが混じったぼやきに氷室が苦笑する。
「あの顔で純情とかふざけるなアル」
「っていうか練習終わりでしょー。もう帰っていいー?」
外野がわいわいと騒ぐ中、岡村建一の背中はついに壁に当たってしまった。彼の体格と運動神経をもってすれば、目の前の少女一人躱すことなど造作ないはずなのだが、何故か出来ない。射貫くようにまっすぐに注がれる視線に絡め取られて動けない。
「岡村クンはが嫌い?」
「いいいいや、嫌いも何も、ワシとアンタは今日が初対面……」
「嫌いではないのね。ならとお付き合いするのに何が問題だというの」
「じゃ、じゃからこういう事はもっとこう、段階を踏んで」
岡村は自身の中の乏しい恋愛方面の知識を引っ張り出そうと必死だった。だがその方面の経験値が圧倒的に少ない、むしろ皆無と言っていいほど乏しい彼には、今の状況を打破できるような考えなど浮かばなかった。
「が聞きたいのはイエスかノー、それだけよ」
混じり気のない黒曜の双眸が岡村を映し出すくらいに近い。ふわり、と花の香りがした。女子と、それものような美少女とこれほど接近したことは彼の中では今までにない体験だ。今や彼の脳内は大パニックを引き起こしていた。
「岡村クン」
さあ、答えなさい。の問いかけに彼は蚊の鳴くような声でこう答えたのだった。
「む、無理じゃ……」
「ったく、マジ信じらんねー!おまえ本当に何様なんだよっ」
帰り道、スポーツバッグを背負ったやたら背の高い集団。その中でも特に目立つはずの岡村は、だが今は副主将の福井に言われ放題に責められ続け、大きな体躯をしょんぼりと折り曲げるようにしてとぼとぼと最後尾を歩いていた。
「モテないおまえにあのが告白したんだぞ。陽泉一の美少女のが、だぞ?一生分のラッキー使い果たしたかもしんないつうのに、断るとかマジありえねー!」
「むしろ来世の分までラッキー使い果たしたアル」
福井に続いて辛辣な物言いをする劉を氷室が宥める。
「まあまあ、岡村主将も突然のことで気が動転していたんでしょうし」
「甘やかすなよ、氷室。コイツは一度身の程っつうのを知っといたほうがいいんだよ。つうか、何で振ったおまえがそんなに落ち込んでんだよ!」
とうとう頭に来たのか、福井の蹴りが岡村の尻を強打する。
「痛いっ!っていうか酷い!ワシだって練習時間中真剣に悩んだのに!」
練習中、心ここにあらずの岡村は今日だけでも監督である荒木に六回も怒鳴られている。
「知るか!」
あの後、岡村に「無理」と言われ彼女は僅かの間目の前の男を見上げて黙っていた。少しの沈黙も耐えられそうになかった岡村が何かを言おうと口を開こうとしたタイミングで、
「そう、分かったわ」
淡々と口にして、くるりと踵を返す。体育館の出口に向かいながら彼女はぽつり、と呟いた。
「初恋は実らない……迷信だと思っていたのに」
あまりに小さな呟きだったので、聞き取れた者は岡村を含めて数人しかいなかった。
「でも少し意外だったな」
「何が意外なの、むろちん」
氷室の独り言に反応したのはお菓子を片手に見下ろす紫原で。
「彼女、先輩が、だよ。あんな風にいきなり告白してくるような人だから、てっきり強引に突き進むのかと思っていたんだ」
まさかあっさり諦めるとは思わなかったな、と言う氷室に紫原はスナック菓子を頬張りながら夕方の岡村との様子を思い出す。
「ふーん……でも」
あの人、全然諦めたって顔してなかったけど。紫原の脳裏に体育館を出る前の彼女の横顔が浮かぶ。そこには告白を断られた、つまり失恋した少女が浮かべるような『泣き』の気配は一つも無かった。
「何か言ったか?アツシ」
「んーん、何でもない」
其れを氷室に伝えるのは面倒なので、紫原は首を振って、再び口いっぱいにお菓子を頬張った。
初恋が実らない、は嘘。
そうして紫原の考えは当たっていたのである。翌日、再びバスケ部にやって来たはこう言った。
「初恋が実らないなんて嘘ね。は自分の願いは自分で叶えるの。だから岡村クン、大人しくの恋人になりなさい!」
身長二メートルの巨漢に臆することもせず、びしぃっと指をつきつけて。かくして、岡村建一の受難の日々はここから始まるのだった。
完成日
2012/10/01