という生徒は、陽泉高校において有名である。生徒会の会計と園芸部の部長を兼任。会計としての辣腕ぶりは彼女が生徒会に入った年の文化祭の収支報告がそれまでの年より二割削減された件で示された。毎年業者に頼んで作らせていた校門を飾る巨大なゲートを奉仕活動の一環として帰宅部に制作をさせたのだ。もちろん、指揮は美術部に取らせたので出来映えはプロの手には劣るが、学生としてのレベルはそれなりのいいものが仕上がった。浮いた予算は各部活へ適切に配分され、バスケ部も例に漏れず臨時収入で新しいボールを手に入れたのだ。部長を務める園芸部では、学校中の花壇の世話を一手に引き受け、四季折々目を楽しませる花々を絶やさない。特別教室棟の屋上にある温室では薔薇を育てているらしく、花が咲く時期には部員同士で茶会を開いているらしい。等々何かと話題の多い彼女であったが、彼女が『』として名を馳せる一番の要因は、その容姿である。よく手入れされた黒髪と、長い睫毛が縁取る切れ長の黒の双眸。女子にしては高めの身長だが、彼女はそれを恥じることなくいつだって背筋をまっすぐに伸ばして堂々と歩く。全校集会で壇上に立つ時、立ち姿の綺麗さが印象に残る。だが所詮は高嶺の花。平凡を自負する多くの少年がそうであるように、岡村建一もまた、の存在をどこか遠い者のように思っていたのである。つい、先日までは。
陽泉高校バスケ部の主将、岡村建一がに告白された、という噂はすぐに広まっていった。しかも告白されたのみならず、振ったという事実まで。以前からその背格好の所為で目立つ存在であった岡村であったが、今は別の意味で目立っている。即ち、『あのを振った男』という代名詞で。
「ワシが何したっていうんじゃ……」
廊下を歩くだけでも好奇の目に晒される。その中には女子の視線も少なくはない。あれだけ女子にモテたい、注目されたいと日々思っていたのだが、実際はどうだ。少なくとも彼自身はこんな注目のされ方をしたかった訳ではない。
「相手が悪かったな」
昼休みに岡村の前の席でパンを食べていた福井が、しみじみと言ってパック牛乳をストローで音を立てて飲む。「行儀が悪いぞ」と福井を嗜めて、岡村は教室の窓際、最後尾の自席で背を丸めて弁当をつついてた。クラス中の人間が、彼を振り返ってはこそこそ話をしている。十中八九、過日の告白の事だろう。
「バスケ部の連中だけなら口止めしときゃ良かったんだけどな」
あんパンを頬張りながら福井が壁にかかった時計を見上げる。昼休み終了まであと十五分。そろそろだ、と岡村に気付かれぬように呟いたその時、
「岡村クン」
教室の後ろの入り口から、凜とした鈴を転がしたような高く澄んだ声が響いた。立っていたのはだ。彼女の声が聞こえると、岡村の大きな身体がびくり、と震えた。
「よう、」
「こんにちは。福井クン」
返事をしない岡村の代わりに福井が手を挙げて彼女に応えた。律儀に挨拶を返して、は岡村と福井のクラスに入って来る。彼女が歩く。それだけで教室内はおろか、廊下にいた生徒までもがその姿に目を留める。相変わらず目立つ。
「岡村クン」
「な、何じゃ……」
全国クラスの強豪バスケ部、その主将。身長二メートルを誇るイージスの盾の一角を担う岡村だったが、たった一人の女子生徒を前にして椅子の上で縮こまっている。こんな様子を氷室はともかく、劉や紫原には見せられないな、と福井は思った。
「この間のことを考えてみたのだけれど」
「この間……?」
「岡村クンが言っていた、段階を踏むということよ」
先日、いきなり現れて「恋人になれ」と言ったに対する苦し紛れの返答を律儀に彼女は考えていたらしい。
「岡村クンが言うのならはお友達からでもいいわ」
「ほ、本当か」
「ただし、その先は必ずの恋人になること。そしてお友達の期間は一週間。これでいいかしら」
「短すぎるわいっ」
多少譲歩を見せた彼女の言葉に束の間喜色を浮かべる岡村だったが、すぐにツッコミを入れる羽目になった。友達歴一週間、のち恋人。世の中には出会ったその日に男女の間柄になってしまう人間もいるとどこからか聞くことはあるが、岡村建一にとってそれは無謀すぎる。何せまともに女子に話しかけられたことすらない男である。耐性がついていない。
「どうして。これでも十分な時間を取ったつもりよ」
対するは一足飛びに関係を築くことが何の苦でもないようだった。しかし彼女はこの間初恋だと言っていなかったか。初めての恋にしてここまで大胆になれるものなのか。
「いや、そもそも岡村に惚れること自体がありえねー」
二人の遣り取り(実際にはに言いくるめられそうになっている岡村)を眺めつつ、昼食を終えて考察モードとなっていた福井は、ふと時計を見上げた。昼休み終了まであと三分。五時間目の授業は化学で、今日は実験を行うと前回の授業の時に担当教員が言っていた。教室内はすでに半数以上が移動教室の準備を終えて特別教室棟に向かっている。バスケ部で鍛えた脚力があれば、十分に間に合うがそろそろ動いた方がいい。
「岡村、そろそろ移動しようぜ」
「そ、そうじゃな」
福井の声に助かったと言わんばかりに机の中から教科書を出して、椅子から立ち上がる。さっきまで見上げていたを見下ろして、「ええと、じゃあ」と判然としない別れの挨拶を口にする。
「ええ、また放課後に」
「放課後も来るんか」
思わずツッコミを返してしまった岡村に、は頷いた。
「部活の見学に。今日は生徒会もないから」
それともは邪魔?ほっそりとした小首を傾げて問う様は確かに美少女然としていた。傍で見ていた福井も一瞬見惚れたほどだ。例に漏れず耐性の無い岡村はその動きを止めてしまい、代わりに福井が返事をする。
「いーや、邪魔じゃないぜ。ただ、が来るとウチの奴らまともに部活できねーからな。見るなら二階で頼む。その方がゆっくり見れるだろ」
「そうね。じゃあそうさせてもらうわ」
じゃあ、岡村クン、福井クン、また放課後に。そう言い残して彼女は黒髪を翻して自分の教室に戻っていった。その背を見送りながら福井はフリーズしたまま動かない岡村の鳩尾に思いっきり肘を入れる。
「いつまで呆けてんだよ!」
「痛いっ」
岡村が悲鳴を上げると同時に予鈴が鳴り響き、二人は慌てて特別教室棟まで廊下を走り出す。途中すれ違ったシスターに「廊下は走らない!」と厳しい声で窘められ、結局遅刻をした二人であった。
化学の授業が終わり、今日は五時間目までしかないため、掃除当番ではない福井と岡村はゆっくりと教室へ戻っている途中だった。もちろん今日の部活の練習内容について主将と副主将として話し合う為でもある。そんな二人を呼び止めたのは、見覚えのない随分と小柄な少女の二人組だった。
「あ、あの、あの……」
呼び止める声に岡村が振り向けば、声を掛けた方の少女がびくりと肩を震わせて後ずさる。
「何か用か」
岡村のでかさにびびっていると判断した福井が促すと、少女達はお互いの手をぎゅっと握りしめあって、覚悟を決めた瞳で岡村を見上げた。
「先輩にひどいこと、し、しないでください……っ」
「は」
「わ、私達、先輩が毎日噂されるの、聞いてられないんです」
一体何の事だ。少女達の言葉に見当がつかずに返事ができないでいる岡村を前に、彼女達は怯えを誤魔化すために一息に自分達の主張を始めた。
「先輩があなたみたいな人を好きになったっていうだけでも私達信じられないのに」
「そ、その上振っちゃうだなんて、先輩が、かわいそう……ですっ」
震える声で少女達がぶつけてくる言葉を拾い集め、岡村より頭の回転の速い福井がようやく事態を把握する。
「あー、つまりおまえらはとこのゴリラが彼氏彼女の関係になるのも我慢できねーけど、がこのゴリラに振られ続けるのも嫌だってことか」
校内でも目立つ存在の二人だ。噂が立てば好奇の目に晒されることも少なくない。福井の噛み砕いた解説に彼女達はこくこくと物凄い勢いで頷いて、半分涙目になった状態で岡村を睨んだ。
「うっ……」
自分より遥かに小さな存在に今にも泣きそうな表情で睨まれて、岡村の中で良心がいたく傷つく。だがしかし、今のこの状況は自分から作り出した物ではない。故に自分には非はない、はずだ。恐らく。
「先輩の隣にあなたなんか似合わないんだから!」
「どうせバスケ部なら氷室先輩の方がまだマシよ!」
興奮してきたのだろう。先程よりも強い口調で、そして言うことがえげつなくなってきている。『どうせ』バスケ部なら、氷室の方がまだ『マシ』ときたか。福井は女子って怖ぇな、と思わずにはいられない。彼女達の中でという存在は一体どれほど神格化されているというのだろう。
「じゃ、じゃがのことをワシは何とも」
思ってない、そう続けようとして岡村はぎょっとした。さきほどまで涙目でこらえていた少女達の大きな瞳が、決壊寸前までに陥っていたからだ。
「な、ちょ、待っ……」
ポケットにハンカチかティッシュがなかったかと慌てて探し出す岡村の前から、少女達は走って去っていった。「わああああん」という泣き声をユニゾンで響かせながら。
「あーあ、おまえ何後輩いじめてんだよ」
「ワシ!?今のワシの所為なの!?」
「俺知らねーぞ」
「ねえ今のワシが悪いの!?」
しつこく迫る岡村を福井は半眼で睨む。
「うっせーよ黙れアゴリラ」
「酷いっ!?」
岡村建一の受難
翌日。岡村が注目される理由が一つ増えていた。曰く、後輩の女子生徒を泣かせたらしい、と。昨日よりも明らかに、特に女子からの視線が痛い。突き刺さるようだ。岡村の意外とナイーブなガラスのハートは既に傷だらけだ。彼の心は防弾仕様ではなかったのだ。
「ワシが何したっていうんじゃーっ!!!」
天を仰いで叫ぶ岡村の肩を、福井は何も言わずに黙って叩いた。
完成日
2012/10/05