朝練の途中、ボールを持ったまま肩を落としてため息をつく陽泉高校男子バスケットボール部部長、岡村建一。ここ数日の出来事は、彼にとって非日常に等しいものだった。
まず、同じ学年の女生徒に告白された。この世に生を受けて十数年。憧れてはいたが縁遠いものだった、甘酸っぱい青春を謳歌するチャンスを天文学的な確率で手にしたのである。
しかも相手は。陽泉高校の生徒会会計にして、園芸部部長。すらりとした容姿の持ち主の、学校一の美少女だ。当然誰もが彼はその告白を受けるだろうと思っていた。
だが彼が出した答えは、『無理』というもので。一部始終を見ていた彼の部活仲間は一様に彼を激しく罵った。曰く、これ以上の幸せは今後一生望めないと思え、と。
翌日、彼は『を振った男』として一躍有名になった。しかし彼にとってはそんな二つ名など何の勲章にもならなかった。なぜなら、は彼の想像以上の少女だったのである。一度彼に振られた形となっただったが、彼女は涙に溺れるような悲劇のヒロインではなかった。
そして現在、状況はさらに悪化した。彼には『後輩女子を泣かせた』という、ありがたくない噂がついてまわっているのだ。思い返しては大きなため息をつくしかない。そんな岡村の頭を竹刀でしばき倒したのは監督である荒木だ。
「やかましい!」
「何で!?ワシ何も言ってないよっ」
「うるさい。おまえは存在自体が目障りだ」
辛辣な女監督の言葉に心を抉られた岡村は、がっくりと膝をついた。
「まったく、いつまでうじうじと悩むつもりだ」
そんな岡村を見下ろして、腕を組みながら荒木は軽く息をつく。
「邪魔だ。さっさと立って外周でも行ってこい」
「今から外周!?」
時刻は既に八時を過ぎている。朝のホームルームが始まるまで間もない。
「練習に身が入ってないからな。罰走だ。ああ、授業にはもちろん遅れるなよ」
時計を見上げて慌てる岡村に荒木は淡々と言い渡す。何を言っても無駄だと悟った岡村は「もう嫌じゃーっ!!!」と叫びながら外へ向かっていった。そんな主将の後ろ姿を見送って、副主将である福井は朝練の終了を告げるため、「集合!」と声を張り上げた。

結局、律儀に外周を走り終えた岡村がホームルームに間に合うことはなく。汗だくで戻ってきた彼を迎えたのは福井で。聞けば一限目は教師の都合で自習になったという。
「た、助かった……」
「おー、お疲れー」
机に突っ伏した岡村に福井は購買で買ったコーヒー牛乳を渡す。
「適当に切り上げて帰ってくりゃ良かったのに。おまえそういう所ホントに真面目だよな」
「いや、練習に集中しとらんかったのは事実じゃしな」
紙パックのコーヒー牛乳にストローを挿し、一息に半分近く吸い上げた岡村は頬杖をついてこちらを見ている福井にそう返した。
「で?」
「何じゃ」
福井の促しに首を傾げる岡村。その仕草に「可愛くねーっていうかキモい」と先に言ってから、
「どうすんだよ、結局。のこと」
核心に触れる。今朝もホームルーム前に彼女が訪れたという。福井が岡村はまだ来ていない旨を伝えると、彼女は短く「そう」と答えただけだった。「伝言とかあるなら伝えとくけど」尋ねた彼に首を振り、また昼休みに来ると告げて彼女は戻っていったという。
「なあ、おまえ本当に何が駄目なの」
「駄目というか、どうしたらいいのか分からんのじゃ」
途方に暮れた様子で頭を抱える岡村に、福井はそうだろうな、と思う。彼自身、人に自慢できるほど恋愛経験を積んでいる訳ではない。だからこういう時に岡村にどう助言していいか分からない。
例えば後輩の氷室であれば。帰国子女で何かと女性の扱いに慣れている節のある彼ならば、的確なアドバイスをしてくれるのだろうか。教室内ではいまだに岡村の方を見てこそこそと話をする生徒がいる。いくら岡村が鈍感な造りをしているといっても、ここ数日でさすがに勘付いたのか、居心地悪げに椅子の上で身体を揺すっている。その内に耐えられなくなったのか、彼は席を立った。
「どこ行くんだ」

「聖堂に行ってくる」
静かに考え事がしたい、そう言い残して岡村は教室を後にした。

ミッション系の高校である陽泉高校。校舎内には小さいが聖堂が設えられており、生徒の出入りは自由となっている。西洋風の建築である校舎には廊下の奥にステンドグラスがあり、秋の陽光が色ガラスを通して柔らかな影を落としている。
色とりどりの影を踏み、特別教室棟にある聖堂の扉を潜ると、授業中のためかそこには誰もいなかった。いつも笑顔を向けてくれる初老のシスターもいない。大股で聖堂内を突っ切り、中央に鎮座する聖母マリアの像をぼんやりと見つめていると、ふいに背後に人の気配がした。
「岡村クン?」
次いで呼ばれた自分の名。その声の主が誰なのか、彼には即座に理解出来た。
!?」
「どうしたの、授業中ではないの?」
軽い足音が床を滑るように近づいて来る。振り返った岡村の目に映ったのはやはり、その人で。彼女は腕に白い薔薇の束を抱えていた。近づくほどに清々しい香りが強くなる。
こそ授業はどうしたんじゃ」
のクラスは一限は選択授業なの。今日は取っていないから、温室で薔薇の手入れをしていたのよ」
「ワシのクラスも一限は自習になって」
「そう」
しどろもどろに返す岡村の様子を気にもせず、は薔薇を祭壇に置いた。
「その薔薇は」
「園芸部で育てていて、時々こうして捧げにくるの」
綺麗でしょう、とが薔薇を指してそう言う。水の満たされた花瓶に一本一本、丁寧に棘を取り除き、活けてゆく。流れるような所作に岡村が見とれていると、彼女の方から口を開いた。
は岡村クンに謝らなくてはいけないわ」
「何をじゃ」
聞き返す岡村に彼女は手元の作業を止めると、横に立っていた岡村を見上げた。
「この間、一年生の女子が二人、岡村クンの所へ行ったでしょう」
一年というところに岡村は心当たりはなかったが、女子二人というキーワードには思い当たる節がある。岡村の前で泣いて走り去っていった少女達のことだろう。しかし彼女達とに何の関係があるのか。繋がりが見えずに疑問符を浮かべる岡村には話を続ける。
「あの子達はの後輩なの」
「園芸部のか」
なるほど、と納得の様子を見せる岡村に彼女は一つ頷いた。そして細い腰を折り、深々と頭を下げる。
「本当にごめんなさい。あの子達が勝手にしたこととはいえ、後輩の短慮を諫められなかったにも責任があるわ」
「いや、いやいやいやっ、何もそんな、頭を下げんでもええじゃろう!?」
の態度に岡村が狼狽する。
の所為で岡村クンには不名誉な噂が立ってしまったわ」
「あー、いや、噂のことは気にせんでもええよ。ワシ、元々こんな顔じゃし、女子からはいっつも怖がられとったしな」
だから普段と大差ないのだ、と。何でもないと言っての顔を上げさせようとしたが、彼女は頑として頭を下げたまま動かない。
「でも岡村クン、傷ついたでしょう」
「え、ワシ?」
「嫌な思いをしたでしょう」
俯いたままの彼女の表情は分からない。目の前の小さな頭を見ながら、彼女が言わんとしていることに、岡村はようやく気付く。自分の心配をしてくれていたのだ、と。
いくら見た目が頑丈そうだからといって、心まで鋼で出来ている訳ではない。岡村だって一人の人間で、ましてやまだまだ未熟な少年である。悪意とまではいかないまでも、誰かに奇異の視線を向けられれば心がざわつく。表面上は何ともない顔をしていても、積み重なれば小さな傷でも血は流れる。
「ごめんなさい」
「ああ、うん」
このままでははいつまで経っても顔を上げないだろう。そう判断した岡村が曖昧に返事をすると、彼女はようやく顔を上げた。
「それで」
「うん?」
「岡村クンはいつになったらの恋人になってくれるのかしら」
「話が急すぎないっ!?」
つい先ほどまで殊勝に頭を垂れていた彼女の口からその言葉が出るとは思いもよらず、反射的にツッコミを入れていた岡村の前で、はどうして、と首を傾げる。
に足りないモノがあるのなら、言って。できる限り努力をするわ」
「いやいやいや、そういうんじゃなくって」
「他に好きな人がいるの?」
「いやいやいや、そういうのでもなくって」
「ではどうしたら岡村クンはの恋人になってくれるというの」
綺麗に整えられた眉を寄せ、岡村を見上げる。改めて間近に彼女の顔を見て、岡村は本当に自分と同じ人間なのかと疑いたくなる気持ちを抑えきれない。
喩えるならば、熟練の職人が自身の持てる技術のすべてを注ぎ込んで作り上げた精巧な人形。目も鼻も唇も、髪の一筋でさえも計算され尽くした絶妙なバランスでもってそこに存在している。
対して自分の方はといえば、後輩たちにゴリラとあだ名されるほど人間というよりは猿人に近い顔立ちをしているわけで。そんな自分にが言い寄っているなど誰が信じるだろうか。現に岡村自身がこれは夢か、もしくは盛大なドッキリを仕掛けられているのではないかと、ここ数日心のどこかで常に引っかかっている。彼女の告白に応じたその時に、笑いが起こるのではないかと、そればかり考えてしまう。
は、その、何でワシなんじゃ」
思いつかない。彼女が自分にそういう事を言ってくる理由が。
「ワシなんて、デカいだけでバスケやっててもモテたりしないし、後輩にはいっつもいじられとるし。みたいな女子は、氷室とか福井とかの方がええんじゃないのか。その、つり合いが取れんじゃろう」
卑屈な心情を吐露してしまうのは、此処が聖堂だからだ。マリア像の前だからだ。信仰心なんて、昨日まで持ち合わせていなかったはずだが、今だけは許して欲しい。話している間、自分の足元ばかりを見ていた視線をそろりと上げてみると、彼女は笑うでもなくじっと岡村の言葉を聞いていた。まっすぐに見上げてくる彼女の視線から逃げたくて、顔を逸らす。
「どうしても、駄目なの?」
今まで聞いたこともないような弱々しい声音に心が軋む。だが、やはり彼女を直視する自信がなくて、頷くだけで精一杯だった岡村に「そう」と短い返事が届いた。それを発した彼女の表情は見えないまま。短い沈黙の後、ぱちん、ぱちん、と聖堂に響く鋏の音がした。
岡村が逸らしていた目線をようやく隣に戻すと、数分前と同じように薔薇の棘を落とす作業を再開したがいた。長い髪が邪魔をして、彼女の表情までは伺えない。敢えて確かめる勇気もなく、所在なさげに巨体を小さくする岡村に、先ほどと違い作業の手を止めないままが言う。
「そろそろ鐘が鳴るわ」
「ああ、うん。は」
言いかけて自分でも馬鹿だと思った。先程振った(と、いうことになるのだろう)ばかりの相手に何て無神経な誘いをしているのだろう、と。一瞬にして後悔の念に駆られる岡村に、やはり表情を見せないまま彼女は返事をする。
はもう少しここにいるわ。岡村クン、遅れるわよ」
淡々とした様子にそれ以上声をかけ辛くなった。聖堂を大股で横切ると、十数歩もいかない内に出口の扉に辿りつく。重厚感のある扉を押しつつ、どうしても気になって背後を振り返る。だが彼女の意識がこちらに向くことはなかった。鋏の音だけが響く。薔薇の棘とともに、何かを断ち切るかのように。

昼休みになっても、放課後になっても、岡村の心は晴れないままだった。瞼の裏にの俯いた様子が張り付いて離れない。朝練の時以上に心ここに在らず、な状態の主将の姿に監督の荒木もさすがに閉口し、どうしたものかと頭を悩ませた。
思案している内に時は進み、そろそろ練習も終わろうかという時だった。体育館の扉が開く音がした。何人かの部員がその音に気付いてそちらの方を向く。そこにはが立っていた。抱えきれないほどの薔薇をその手にして。彼女は迷いなく歩みを進め、荒木と明日の予定について話をしていた岡村の元までたどり着く。
「岡村クン」
鈴の音のような、やわらかく響く声が自分を呼んで、岡村は振り返る。彼女の姿を岡村が視認するより前に、は抱えていた真紅の薔薇を高く振り上げた。周囲に赤い花びらが散る。何が起きたのか分からない。そんな顔をしている岡村に向かって、「続きよ」とは岡村を睨みつける。
「つり合いが取れない、そんな些末な理由でを振ることは許さないわ」
、ワシは」
薔薇で殴られた痛みはあまりない。だが、ショックで呆然とする岡村が何かを言いかけたのを彼女は強い視線で黙らせる。
「見かけが優れていること、確かにこれは生まれもっての特質ね。時には武器にだってなるわ。でも、だから何だというの。が選んだのは岡村クン、貴方よ。貴方がいいと他でもない、このが言っているのよ。これ以上何を欲するというの」
思わず呼吸すら忘れた岡村の周りをはらはらと花びらが落ちていく。
「好き。は岡村クンが好き。大好きよ」
強く、花の香りが鼻腔をくすぐる。黒曜の瞳が近く、岡村を見上げている。光の強さはそのままに、けれど少しだけ潤んで見えるのは気のせいではない。ああ、そうか。彼女はこんなにもまっすぐに気持ちをぶつけてくれているのか。対して自分の方は。周囲の反応ばかりを気にして、何一つ彼女のことを考えていなかった。
「他の誰でもない、このがあなたを好きだと言っているのよ。岡村クン、あなたは他人の目も言う事も何一つ気にする必要はないわ。だけを見ていればそれでいいの」
清々しいほどに言い切った彼女に、思わず頷いていた。
固唾を飲んで見守っていた部員達が、誰からともなく拍手をする。こうして、岡村健一の受難の日々は一応の決着をみたのである。







嗚呼、

麗しの 薔薇の女王 ( ローゼンクイーン )




「今日から岡村クンはのモノよ。勿論、も岡村クンのものだから」
生涯手放すつもりはないから覚悟することね。高らかに言い放つの迫力に押されて、かくかくと首肯する岡村の姿を横目に、陽泉高校男子バスケットボール部員の面々は体育館掃除に精を出していた。
「ったく、何で俺らがこんなこと」
「薔薇の花束で殴られるアゴリラ、愉快だったアル」
「ねー、これ食べられるー?」
「敦、拾い食いはやめような」
「おまえらさっさと掃除せんか!」



完成日
2013/12/7