父親の単身赴任に伴い、我が家の住人は一人娘である私だけになった。母親は父親恋しさに赴任先についていってしまったので。「ちゃんは一人でも大丈夫よね?もう大きいお姉さんだものね?」と笑顔で念を押されてしまえば、反論したくとも無言で頷くしかない。三人だけでも余る部屋数だったというのに、一人きりになってしまうと余計に空間に余りが出る。だからといって、規格外の高校生男子が存在していて邪魔でないわけではない。
flag
インターホンが鳴って、白黒の映像が映し出される。あと一週間もしない内に今年が終わる、そんな時期だから夕方の六時を過ぎると外は真っ暗だ。ただでさえ不明瞭な映像。真っ黒で、境界の区別がつかない。
「寒い。早く中入れろ」
通話のために受話器を取ると、低い声で短く告げられた。声の主は青峰大輝。私の幼馴染という奴だ。
「私の記憶違いでなければ、大輝の家は三軒隣のはずだけれど」
「だから何だよ」
「いや、自分の家に帰りなさいよ」
「めんどくせー」
「いやいや、ちょっと歩くだけでしょうよ」
「いいから早く開けろ」
インターホン越しに繰り広げられる意味のないちょっとした争いに、根負けするのはいつだって私の方だった。暖房の入ったリビングから、灯りのついていない暗くて寒い廊下に出ると身震いした。今日は一段と冷え込んでいる。玄関の鍵を外して、ドアを開けると「凍え死んだらどうすんだよ」と若干不機嫌な顔の幼馴染が高い位置から睨み下ろしてきた。まあ、目つきの悪さは昔からなので、今更怖いと思うこともない。
「あれ、さつきは?」
「自分とこ帰った」
我が物顔でリビングの炬燵に陣取り、ぬくぬくと暖を取る大輝に尋ねるとそっけない返事が返って来た。今日は二人でバスケの試合を見に行くと彼女からメールを貰っていたのだ。てっきり一緒にいると思っていたのだが。大輝と違って、さつきは昔と変わらず懐いてくれる。可愛い可愛い、大事な幼馴染だ。
「あんたも自分の家に帰りなさいよ」
「いいだろ、別に。俺んとこ今日親が遅いから誰もいねーんだよ」
「だからって何でウチにくるかな」
「なー、。腹減った」
こたつでみかんを剥きながら大輝が飯を要求してきた。生憎、私はバイト帰りに食事を済ませてしまっているため、何の用意もしていない。そのことを告げると不満を顔に出す。
「腹減った。何か食わせろ」
「自分の家で食べなさいよ」
ご両親の帰りが遅いということは、夕食の用意はしてあるはずなのだ。おそらく温めればすぐに食べられるように準備されたカレーや何かが。自分で食事を用意することなど微塵も思考に浮かべることのない息子のために、大輝のおばさんはきっちりと食事の準備をしているに違いない。厚意を無駄にする気か、の意を込めて帰宅を勧めるが、「寒いから嫌だ」の一言で失敗に終わった。
「なー、ー」
炬燵の天板に頭を乗せて、こちらを見上げるのは幼馴染(ただし、可愛くない方)、もう一度自分の家に帰れと言おうとしたところで大輝の腹の虫が盛大に悲鳴を上げた。
「………」
「………」
しばし無言でお互いを見やる。その間にも大輝の腹は主張をやめない。
「……残り物でいいなら」
「…………悪い」
大輝も年頃の男の子だ。さすがに他人の前で腹が鳴ったことには恥じらいを持つらしく、珍しく謝ってきた。キッチンに移動して冷蔵庫を覗く。食材を確かめながら何が作れるか頭の中のレシピと照らし合わせる。玉ねぎ、ベーコン、ピーマン、卵。あ、人参の使いかけも発見。冷凍庫からラップに包まれたご飯を取り出してレンジに放り込む。具材をまな板の上でみじん切りにして、フライパンで炒めてゆく。解凍したご飯も一緒に炒めて、調味料で味付け。
「何作ってんだ」
「んー?何か言ったー?」
リビングの方から大輝の声がした気がする。おざなりに返事をしている間にケチャップを投入し、中身は完成。フライパンを一度洗って再度火にかける。水滴を飛ばして熱が入ったところで油を引く。卵を全体に広げて、よけておいたケチャップライスを真ん中に置く。あとは菜箸を使って卵でくるめばオムライスの完成だ。卵も破れなかったし、我ながらいい出来だ。自画自賛したところで悪戯心が芽生えて、流しの引き出しに入っていた小さな旗を立ててみた。もちろん、ケチャップで文字を書くことも忘れない。
「大輝、できたよー」
我が家では炬燵でおやつを食べてもいいけれど、食事はしない。母曰く、だらしがないとのこと。昔からウチに出入り大輝にもその習慣は身についているので、寒いと文句を言いつつもきちんとダイニングテーブルまでやってきた。椅子を引いて座ったところで、渾身の作であるオムライスとスプーンを出してやる。
「ほれ、召し上がれ」
「……なんだよ、これ」
「オムライス」
お子様ランチもどきな旗がささっている。そして『ガングロ』とトマトケチャップで豪快に書き添えてある。
「おい」
「嫌なら食べなくてよろしい」
文句を言いたげな大輝から皿を遠ざけようとする。おいしそうな湯気を立てるオムライスを目の前に、彼の葛藤はすぐに終わった。腹の虫の主張に負けた大輝はその先の言葉を飲み込んで素直に「いただきます」と手をあわせたのだった。大きめのスプーンにオムライスをすくって口に運ぶ。なんとなく向かいの椅子に座って大輝が無言で食べ進める様子を眺めた。私が大学に通っているため、今は生活の時間がだいぶ異なってしまっているが、小さい頃はさつきも含めていつも一緒にいたのだ。同じ空間にいても息詰まる空気になることもなく、お互いが空気のように自然に振る舞えてしまう。去年、いやもう少し前だったか。こいつが中学のバスケ部でレギュラーになった頃から何かに苛立っていることに気付いていた。さつきが言うにはバスケが原因らしい。あれほど好きだったはずなのに、練習に参加することもなく、受験勉強中だった私の部屋にしょっちゅう入り浸っていた。と言っても邪魔をするわけでもなく、人のベッドでごろごろと長い手足を持て余していただけだったのだが。大輝が何も言わないので、私も何も聞かなかった。ぬいぐるみに八つ当たりをするのだけは殴って止めたが。
「ごちそうさま」
早々と食べ終えた大輝が再び手を合わせる。皿の上には旗のみ。ご飯粒一つ残していない。
「お粗末さまでした」
「うまかった」
自分で使った食器を流しに持っていく大輝の、今度は大きすぎる背中を振り返って眺める。窮屈そうにしながらも食器を洗う様子が何だかおかしくて笑ってしまいそうだ。
「」
「なに」
「俺、明日から練習行く」
唐突に何を言い出すのだ。急に振られた話題に束の間考え込んで、私はバスケの事かな、と見当をつけた。というか、そもそもそれ以外大輝にはないということに先に気付けと自分にツッコミを入れたい気分だ。
「ふーん」
「そんだけかよ」
薄い反応しか返さない私に大輝が笑った。
「え、じゃあどういう反応をお望みだったの?すごい!えらい!さすが大輝!とか言って欲しかったの?」
「違えよ!つか気持ちわりーよ!!」
「失礼な。あーあ、昔はほんと可愛かったのに、何がどう間違ってこんな図体でかくて態度もでかいガングロに育っちゃったかな」
「色黒いのは昔からだろ!」
ツッコミ所、そこでいいんだ。妙な感心をもって大輝の背中を見つめる。心なしか一時期感じていた諦観のような、投げやりな空気が薄れているようだ。何があったか分からないけれど、こいつはこいつなりに自分の中の苛立ちに決着をつけたということなのだろう。
「あー、寒い寒い」
いつまでもキッチンにいても寒いだけだ。炬燵に移動するついでにお茶を入れる。熱い緑茶はこの時期の必須アイテムだ。ついでのついでに大輝の分も。皿洗いを終えた大輝もまっすぐに炬燵に戻ってきた。でかすぎて持て余し気味な身体をぎゅうぎゅうと押し込んでくる。
「ちょ、大輝足伸ばしすぎ!こっち寒いでしょうが」
「知らねーよ。この炬燵が小さいんじゃねーの」
「あんたの基準で計ってたら、規格外サイズだらけになるわ」
軽口をたたきながら、ついたままだったテレビを二人で見る。お笑いの特番だかなんだかで、そこそこに笑える。現に大輝も口の端にニヒルな笑みを浮かべている。その笑い、悪役っぽいんだけど。
「、みかんなくなった」
その悪役スマイルの持ち主は、籠に盛ってあったみかんを全てたいらげてしまったようだ。無数の皮が残骸のように散らばっている。
「廊下に箱があるから自分で出して来い」
毎年お歳暮で送られてくるのだが、如何せん一人暮らしの身。一人で五キロ箱のみかんを食べ尽くすのは無理である。幸いにもウチには、こうしてせっせとみかんを消費してくれる幼馴染がいるので助かっているのだが。
「寒い」
「じゃあ諦めろ」
「みーかーんー」
「かわいくない」
「何だよ、さつきの言うことならほいほい聞く癖に」
「だってさつきは可愛いもの」
私の可愛くない方の幼馴染は、でかくて黒くて、おまけに人の家のみかんを食い尽くす。かわいくないと言えばむくれる。そんなところが可愛いと思えてしまう、大事な幼馴染だ。