東京、池袋。高層ビルが建ち並び、様々な人が行き交う都心に、不似合いな程緑に覆われた一角がある。古く趣のある門柱に掛けられた檜の一枚板にはこう記されている。『万屋懐古堂』と。
夏越月の午睡
六月に入り、日に日に太陽の日差しが強くなってきた。昼中は夏日となることが多くなり、初夏の爽やかな空気とともに湿り気の混じった匂いも徐々に濃くなってきている。梅雨が近いのだと思わせる、そんなある日。折原臨也は池袋のとある『店』の中にいた。正確にはその店の、店主が住まう居住部分に。
「ここはいつでも涼しいなぁ」
午後を回ったばかりのこの時間帯は太陽が真上から差すので、日光は部屋の中まで入ってこない。庭の梢を揺らす風が、開け放たれた広縁を通って家中を巡るので、この家は冷房が無くても涼しい。勿論、真夏でも。畳の香りは普段の彼には馴染みがない物で、とても心地よい。和室の一つでも作ろうか、と。彼は自分の住む新宿の高級マンションのリフォーム計画をぼんやりと考えたが、数秒で取りやめた。畳の匂いが安心できるのは、曲がりなりにも彼に日本人の心が残っているからだろうが、彼がそれを心地よいと思うのは『此処』だけだ。その事実に満足して、臨也は口の端に笑みを浮かべる。それはいつも彼が人間に対して愛を語るときのように歪な笑みではなく、幼子のように無垢であどけない笑みだった。
「眠いの?」
うとうとと微睡みだした臨也の耳に、くすり、と笑いを含んだ声が落ちてきた。
「さあ?どうだろう」
曖昧に答えれば、声の主は細い指先で、その膝の上にある黒髪をゆっくりと撫でる。短い髪を丁寧に梳くように、優しい手つきは、臨也を余計に眠りの淵へ追いやろうとする。
「寝るなら布団を敷くけれど」
「いいや、ここでいい」
半分眠ったまま答えて、臨也は深く息を吸い込む。頬の下にある絹の肌触りが気持ち良い。かすかに香るのは着物に焚きしめられた香。風が吹いてさやさやと葉擦れの音がする。一歩でもこの家の敷地を越えれば、街は喧噪に溢れているというのに。此処は静寂に満ちている。まるで此処の主人である彼女のように。
「少し眠るよ」
「そう。……おやすみ、臨也」
その主人のやわらかな膝を枕に、新宿の情報屋は無防備に人前で寝顔を晒す。彼を少しでも知る者がこの光景を眼にしたら、どれだけ驚愕の表情を浮かべるだろう。だがこの場にそのような些末な出来事に思いを馳せる人物は一人もいない。誰にも邪魔されない、贅沢な静寂を独り占めする喜びに笑みを浮かべるより先に、臨也の意識は本格的に夢の中へと誘われてゆく。
「おやすみ……」
かすれた声で呟かれた自分の名に、彼女は静かに微笑む。そうして、またゆっくりと膝の上の黒髪を撫でる。
「猫みたい」
気紛れに訪れる、客人をそう喩えて、少しだけ首を傾げる。
「困ったな、動けなくなっちゃった」
彼女の小さな声は、風の音にかき消されていった。
完成日
2010/06/07