02. 鬱血にほくそ笑む




珍しく副長としての仕事を果たした彼は、たった今仕上げたばかりの書類の束を片手に、鼻歌交じりに上官の部屋を訪ねる。声をかけると同時に戸を開けて(それでは意味がない、といつも藍染に窘められているのだが市丸には直す気がない)遠慮もなしに中に入ると、訪ねた相手は不在だった。代わりに部屋の隅で寝転がって絵巻物に見入っている少女を見て口端をつり上げる。
ちゃん」
結わずに背に流れるままの栗色の髪をした少女が、名を呼ばれて緩慢な動作で翡翠色の瞳を向ける。
「こんにちは」
「……ギン」
人好きのする笑みを貼り付けたままひょろ長い上背を折って、少女の手元を覗き込む。色鮮やかな絵が並ぶ其れは、少女の為に藍染が買い与えたものだろう。
「ひとりで何しとるん?藍染隊長は何処に行ったん?」
「惣右介は、総隊長さんのところ」
「ふーん?何の用事やろ。そんでちゃんはお留守番なん?」
市丸の問いかけに頷いて、は起き上がった。相変わらず豪奢な着物を着せられている。今日の少女は桜色の地に春の花々を散らした振り袖を召している。藍染のことだから、少女の身の回りの物を揃えるのに金に糸目はつけないだろう。最近は少女を連れてよく呉服屋へ赴いているそうだ。上質な絹の上でさらさらと零れる細い髪を一房掬って、市丸は唇を寄せる。少女はそんな市丸を見上げていたが、特に反応を示さない。
「んー、相変わらずちゃんは綺麗にしてもろうとるね」
こんな風に少女に触れているところを上官に見られたら、いくら市丸といえども命はないだろう。あの人は今のところ市丸の有能さを買ってくれてはいるけれども、目の前の少女と天秤に乗せられたらどちらに傾くかは明白で。寸分の迷いもなく切り捨てられるのは自分の方だと市丸自身理解している。理解してはいるのだが。
「ギン?」
稚い声が呼ぶ。藍染が愛してやまない翡翠が自分の姿を映す。大きな瞳に映る自分の口元が笑っていることに気付いた市丸は、
「死にたないんやけどなぁ」
そう、嘯いて少女の首元に顔を埋める。幼子は甘い匂いがした。
「……っ、………?」
「ええ匂いやな」
その瞬間、腕の中のが僅かに身動ぎするのを市丸は久しくしたことの無かった満面の笑みで受け止めた。
「ギン、離して」
「ええよ」
囲いから解放された少女、その首筋に朱い痕。たった一つ、それだけで藍染の怒りを買うに値する、鬱血。危うい立場を自ら作り出したにも関わらず、市丸は其れを視界に捉えてほくそ笑んだ。