「離さへん。何があったってはボクのものや。絶対誰にも渡さへん」
そう言って添えられた両の手は乾いていて冷たかった。




明日キミに言うさよなら



単純に言ってしまえば疲れたのだ。
気紛れな猫のように来たり来なかったり。
懐いたと思ったら不意に余所余所しくなったり爪を立てたり。
それでも今まで待ち続けていたのは、ホントウに心の底から好きだった所為だろう。
嘘は無かった。
傍にいて抱き合うその瞬間だけはお互いに何も疑うことなんてなかった。
満ち足りていたと、錯覚を覚えていたのだ。
それが泡沫の様に曖昧で儚くて信じることさえできないほど不確かなものだったのだと。
気付いてしまったらもう後は崩れていくだけだった。
あんなに近くに居たのに、一緒に幾夜も過ごしたというのに。
音を立てて瓦解してゆく自分の気持ちでさえも『儚い』のだと。
自覚をすれば情けなくて涙で視界が歪んだ。
だから明日言おうと思う。
『さよなら』
と、ただその一言を。


雨が降っていた。
外は霞がかったように全体的にどこか薄ぼんやりとしていて、晴れの日みたいにはっきりと全ての輪郭が目に映らない。
庭に咲いた紫陽花は青から紫、そして赤みを帯びた紫へとその色を変える過渡期にある。
グラデーションが美しい。
雨粒に濡れて何処か重たげに見えるのもこの時期ならではの風情だと思えばいい。
「綺麗やなぁ」
縁側に座ってぼんやりとそう呟いたのは市丸ギン。
護廷十三隊の五番隊副隊長を務める男だ。
飄々とした掴めない風貌を持ち、周囲を喰ったような態度で常に誰かをからかっている。
おかげで振り回される人間は数知れず。
同じ五番隊の副官補佐である三席に身を置くなどはその最たる被害者だと言っても過言ではない。
副官補佐なのをいいことに、ほとんど市丸のお守り役となってしまっている彼女の恰好は非番の今日はいつも着用する黒い衣ではなく、瓶覗の地に彼女の家の狭い庭に咲き誇る紫陽花の柄の着物を着て、 仕事時には邪魔だからときっちり結い上げられている髪はおろされて湿気など知らないかのように肩口でさらさらと揺れている。
非番で自宅にいたところを急に市丸が訪ねてきたので最初は驚いて、次には呆れ、最後には彼を家に上げて仕方なくお茶の用意をするために奥に引っ込んだのだった。
畳の上を衣擦れの音がして、振り返ると盆に二人分のお茶と菓子を載せたがやってきた。
どうぞ、と差し出されたお茶を「おおきに」と受け取って一口、その香りを楽しむようにゆっくりと味わう。
「あぁ、やっぱりの淹れたお茶が一番やな。今日の子なんか全然あかんね。温度から濃さから全部めちゃくちゃやったわ」
が休んでいる日は五番隊の誰かが市丸の世話をする。
我儘で奔放で少しも一つ処に留まってはくれない彼を何とか引き止めて仕事をさせるのは並大抵の苦労ではない。
実際過去に任された以外の者達は口を揃えて「これなら巨大虚の討伐に一人で行った方がまだマシだ」と非番明けのに訴えて、隣で共に聞いていた藍染の爆笑を誘ったのだ。
「それではこれからもうちの副隊長の世話は君に頼むとするよ」
君以外に務まりそうにないしね、とやわらかく微笑んで隊長に言われてしまえば、ため息すら出てこない。
「貴方の複雑な嗜好を理解できる人なんてそうそういませんよ。私でも把握するのに一月はかかったんですから。ところで何しにいらっしゃったんですか。市丸副隊長は今日は非番ではないはずですが」
今日一日彼の世話役に不幸にも当たってしまった部下のことを思いながら、は諌めるように縁側で足を投げ出して庭を眺める上司を見る。
今頃詰所ではいなくなった市丸を捜して大騒ぎだろう。
藍染隊長は何をしておられたのだろう。
市丸の世話を一手に引き受け、さらに三席としての仕事も抱えるの半端ではない仕事量に見かねて休みを与えてくれたのはありがたいが、肝心の市丸がこうして執務時間中にサボっていれば明日のの仕事は却って増えるだけである。
「藍染隊長やったら急な隊首会でおらへんよ」
そやからボクも抜け出せたんやもん、ところころと笑いながら市丸は渋面のの気持ちを察して先に言う。
人の気持ちを読んで行動するという能力は決して非凡ではないのだが、如何せん、市丸の場合使い方に問題が大アリだ。
「今日は私が非番ですから真面目に仕事をして下さいとあれほど言いましたのに」
こめかみを押さえながら眉根を寄せるを楽しそうに眺めて、その視線をそのまま庭へやる。
昼前から振りだした雨はしとしとと静かに音を立てて世界を濡らす。
晴天の下、陽光に煌めく市丸の銀の髪もこの天気では輝きが鈍くなる。
それでも決してささやかではない自己主張を訴えるその髪の色同様、市丸本人も強烈にの中に痕を残す。
「綺麗やなぁ」
庭を眺めながらそう言う市丸にも諦めたように息をつく。
そうして彼の視線の先を辿る。
「紫陽花ですか。大して珍しくもないでしょう」
「でもの家の紫陽花が一番綺麗に見える」
「狭い庭ですからね。本当はもっと色んな花を植えたいんですけど、場所が無いし最近は忙しくて手入れも行き届いてないんですよ」
「そうなん?忙しいん?」
視線は二人共庭の紫陽花へ向けたまま、とぼけた様に返す市丸には率直に嫌味を込める。
「ええ。忙しいんです。ウチの副隊長殿は椅子に座ってじっとしていることがお嫌いなようですので」
「そらあかんなぁ。今度会うたらいっぺん叱ってやらなあかんわ」
「その時は是非とも市丸副隊長にお叱り役を受け持って頂きたいものですね」
ぴしゃりと言ったの言葉に市丸が可笑しそうに肩を震わせくつくつと笑う。
どれだけ言っても無駄なことぐらい彼の補佐を勤め始めてから、それ以前に五番隊に配属されたその日から分かりきっていることだ。
市丸は決して彼自身を掴ませはしないのだから。
こうして時折、ふらりとの元を訪れることがあっても、彼は彼のモノを何も残さない。
それが例え真夜中に肌を重ねる行為であっても、朝がくれば夢でも見ていたのではないかと錯覚するほどに何一つ、髪の毛一本でさえ置いてゆかない。
残されるのはいつも肌に刻まれた緋色の華と彼が纏う着物に焚き染められた香の残り香と、そしてだけだ。
もう、疲れた。
いつからだったか、独りきりの夜に褥の中で思いついた言葉。
それまで言い様の無い虚無感に苛まれていたのだが、ぽつりと口から零れ出たその一言に全て合点がいった。
はもう市丸に振り回されるに飽いてしまったのだ。
「紫陽花の花言葉をご存知ですか」
不意に話しかけると、市丸はこちらを向いて「知らんなぁ」とのんびりと答える。
「紫陽花は別名『七変化』。花が色を変えてゆくことからその花言葉は」
一度言葉を切って両の瞳を伏せる。
小さく息を吸い込んで、続ける。
「移り気」
市丸が僅かに身じろいだ気がしたが、雨の気配にかき消された。
は伏せていた瞳をゆっくりと傍らに座る男へ向けると、静かに話を切り出す。
「明日言おうと思っていたのですが、思いもかけず市丸副隊長がいらっしゃったので今ここで言うことにします」
無言で先を促す市丸をひたと見つめながらは正座した膝の上に組んだ両手に知らず力を込めていた。
「もう疲れました。貴方に振り回されるのは。ですから」
言おうとした言葉は強い力で肩を掴まれ、反転した視界のおかげで喉の奥で絡まった。
押し倒されたのだ、と気付いたのは天井の木目が見えたのと、それよりも近くに銀色のやわらかそうな髪があったからだ。
「……何をするんですか」
「自分こそ、何言おうとしてたんや」
「私は」
ただ、貴方に『さよなら』と、そう言おうとしたのだと口を開く前に噛み付くような口付けを贈られる。
本能のままに貪る、という表現が一番しっくりくるような、そんな接吻だった。
唇が離れても、雨に似た、けれどそれよりも僅かに粘着質の銀糸が二人をかすかに繋ぐ。
「何があったんや?言い」
「特には何も起きてはいませんよ。強いて言うならば何も無いから、です」
「他に、好きな男でも出来たんか」
「失礼な言い草ですね。私は貴方のように器用ではありませんよ」
「そやったら何で」
話しているその瞬間でさえも少しでもお互いがその距離をつめたら唇が触れ合ってしまいそうだ。
それほど近い距離に居るのに。
心が冷えていくような気がしていた。
市丸の赤い瞳孔に射抜かれながらも平静を保っていられるのにそう自信は無い。
恐らくもうあと少しでも強く揺さぶられたらこの決心は音も無く崩れ去るだろう。
「明日、藍染隊長に異動願いを出そうと思っています。幸いにもこんな私でも使ってくださるという隊がありましたので」
「誰や。何処の隊や。を引き抜こうとしとるんは」
「六番隊ですよ。新しく隊長になられる方に補佐役が必要だからと」
「何でが行かなあかんの?他にいっぱい人はおるやろ」
市丸のその言葉には重たげに瞼を閉じる。
自ら視界を閉ざしてしまえば、紅色の強い視線に惑わされることも凌駕されることもない。
「市丸副隊長こそ、私だけではなく他にたくさん貴方を待ってる方がいらっしゃるでしょう」
それは禁忌。
今まで一度も言ったことのなかった言葉だった。
触れることが怖くて、壊れてしまうことが恐くて。
けれど。
不意に気紛れで訪れる彼を少しも期待なんかしていないような、いつも待ち侘びてなんかいないふりをするのにはもう疲れた。
だから明日言おうと思ったのだ。
さよなら、と。
もう二度と逢うことなどないだろう、と。
「離さへん。何があったってはボクのものや。絶対誰にも渡さへん」
逸れていた意識を呼び戻したのは手首に食い込む爪がもたらす痛みだった。
細い身体だと思っていたのに。
実際市丸の体型は細身で、どうやって虚を倒すなどという力仕事をしているのか見ているだけのときは不思議に思ったものだ。
だけど、引き寄せられた時、抱きしめられた時の力強さが想像以上に力強くて驚いた。
そして今も、信じられないほどの強い力での両腕を簡単に頭の上に固定してしまっている。
縫いとめられたまま動けないでいるの耳元に顔を寄せて、市丸は縋るように囁く。
「なぁ、置いていかんといて?ボクはがおらな生きていかれへんのや。他所に行くやなんて言わんといて?」
お願いやから、と泣き出しそうな声で彼はに覆いかぶさる。
腕は解放された。
だが。
「い、ちまる副隊……ちょ」
の細い首に添えられた両の手は乾いていて冷たかった。
ゆるゆると絞められてゆく感触にぞっとして背筋が粟立ち、同時にえもいわれぬ高揚感に浸ってしまう。
「言わんといて、『さよなら』やなんて。にさよなら言うんはボクがを殺す時だけやろ?」
あぁ。
彼は、市丸ギンという男は。
どうしてこうも愛しくさせるのだろう。
が言おうとしたたった一言でこんなにも動揺し、追い詰められる市丸を見ることが出来る。
それはでなければ発しても意味のない言霊。
乾いて冷たかった手にの体温が移った頃、ようやく離された首を押さえて咳き込むと、ぐったりした身体を抱きかかえられる。
「何処にも逝かんといて。離れんといて」
銀色の髪が鈍く光る。
顔の大半を覆い隠して表情が覗えない。
ぼんやりとした意識のまま、気付けば手を彼の頬に伸ばしていた。
「………ギン?」
指先が僅かに濡れたのは雨粒の所為ではない。




調子こいて市丸さん。
ギンさんは私の中でこんな感じ。
気に入ったモノは絶対失くさないように壊さないように大事に仕舞い込む。
だけど時々距離を置いてみたり、やっぱり不安になってくっついてみたり。
気難しい猫みたいな。
行き先告げずにふらっといなくなるところとか、そんな感じに。
彼自身自分の二面性を楽しむ反面、持て余してる部分もあるんじゃないかなーと。
彼が副隊長時代なのは単に私の好みです。



完成日
2005/6/18