あなたの傍にいると。
どうしたらいいのか、わからなくなるんです。




夕化粧



「あれ、七緒ちゃん?」
本日分の業務を終えて隊舎を出たら声をかけられた。
顔を上げれば桔梗色の双眸、黒髪の。
護廷十三隊十三番隊所属第八席、
彼が八番隊副隊長の伊勢七緒の前に立っていた。
瞬間沸騰しそうな顔をどうにか堪えて。
さん、は、八番隊に御用でしょうか」
何とかそれだけ口にする。
しかし彼は丁寧な造りの顔を緩めて笑う。
「京楽隊長にウチの隊長から今度の合同鍛錬について言伝を預かってきたんだけど」
「あ、申し訳ありません。京楽隊長は今日は早めに上がっています」
酒の飲みすぎで二日酔いになっていた己の上司を思い浮かべる。
「吐く〜吐いちゃう〜」とあまりにも一日中鬱陶しいものだから、七緒は早々に彼を隊舎から追い出したのだった。
最近は大きな事件もなく、副隊長の自分でも処理できる仕事がほとんどだったから出来たことである。
しかしこんなことになるなら、死体になるまでその辺に転がしておけば良かった。
わざわざが尋ねてきてくれたのに、仕事が進まないのでは申し訳ない。
「すみません。今すぐ隊長に連絡を」
「あ、いいって。急ぎの用事じゃないし、浮竹隊長も明日でもいいって言ってくれてたから」
「ですが」
「七緒ちゃんも仕事終わったんだろ?ならタダ働きすることないよ。明日また来るから」
な、と親しく微笑んでくれる彼にどうしようもなく胸が高鳴る。
二度も彼の手を煩わせることになるのは恐縮だったが、しかし明日もが八番隊を訪れてくれるということに心はどうしてだって嬉しいと思ってしまう。

十三番隊と八番隊は決して遠くはないけれど。
いや、隊長同士が同期で気安い関係であるから他の隊よりは親しかったりするけれど。
それでも同じ隊ではないから距離は遠い。
時折見かける十三番隊の面々は皆、を慕っていて、そして彼のほうもあたたかくそれを受け止めている。
羨ましいと、思ってしまったのはいつだったろう。
ずっと、遠くから眺めることしかできなかった。
いいかげんでだらしのない上司に文句を言ったり嗜めたり、そんなことばかり上手になっていくのに。
憧れている彼に声すらかけられない。
副隊長の地位にまで登りつめたけれど、こと、恋愛に関してはまだまだ平隊員と大差無かった。

「七緒ちゃん今から帰り?」
「はい」
「なら送ってくよ」
「えっ、でもそれではさんの御迷惑になります」
本心は嬉しいくせに、素直に「はい」と言えない自分。
可愛くない、と思う。
京楽隊長は自分のことをしょっちゅう「可愛い可愛い七緒ちゃ〜ん」と呼ぶが、あれは生真面目で堅物でしかない自分の性格をからかっているのだろう。
こんな時に他の誰か。
例えば五番隊のあの子とかならきっともっと素直に「ありがとうございます」とはにかんで言えるのだろう。
きっとそうだろう。
だけどは。
「いいからいいから。真夏の夕暮れにちょっと俺と散歩しませんか、伊勢副隊長?」
だなどと、自分よりも整った顔で茶目っ気たっぷりに言うものだから。
悪戯っぽくウインクまでされてしまえばもう「はい」と頷くしか道はない。


沈み始めた夕陽が辺りを一斉に朱色に染めていることが唯一の救いだった。
こんな風に赤くなった顔を見られてしまわなくて本当に良かった。
並んで歩き、他愛のない仕事中の世間話をしながらゆっくりと家路につく。
それだけで幸せすぎてどうにかなりそうで。
ともすれば挙動不審になりそうなぐらい緊張している心の内を押さえつけるのに必死だった。
「でさ、その後ギンが俺が作った弁当食べられなかったって散々駄々こねてさ。あの時はもうほんとにどうしようかと思った。 あいつでかいくせに中身子供みたいだからさ、いや、まだ子供の方が素直でいいかも」
だってギンは子供っぽいことですぐに拗ねたり怒ったりするくせに肝心なところは全然表にださねーからなーあー何か段々腹たってきたちくしょうムカつく。
言いながらくるくると表情を変えるを見上げると、口元が緩み、思わずくすり、と笑みがこぼれてしまった。
「あ」
「え?な、何ですか」
ふいにが自分を見下ろすから。
戸惑いながらも訊くと、は嬉しそうに笑った。
「今、七緒ちゃん笑っただろ」
「え……」
もしや先程の堪え切れなかった笑いを聞かれてしまったのだろうか。
「す、すみません」
謝るとは不思議そうに首を傾げる。
「何で謝るの?」
さんのお話中に笑うだなどと、失礼なことをしてしまいました」
「失礼?何で?」
「なんで、と申されましても……」
「失礼さのレベルなら俺の方が断然上だろ。たかだか八席風情のぺーぺーが副隊長にタメ語だし」
「でもさんの方が年長者ですし!」
「あーそうなんだよねー俺って結構年くってんだよねーなのにまだ八席なんかにいんのかってみんな言うんだよねー酷いよなー」
意気込んで言った言葉にが目に見えて落ち込んだものだからさらに慌てる羽目になった。
「あ!す、すみません!!そんなつもりでは……っ」
何だか口を開く度に失言を重ねている気がする。
こんな時、いつもはどうしていただろう?
京楽隊長を叱る時にはもっとたくさんうまく話せているのに。
どうして今は何も口から出てこないのだろう。
「本当にごめんなさいさん」
立ち止まり深々と頭を下げることしかできない。
すると下げた頭にぽんぽん、と軽い衝撃。
驚いて顔を上げるとレンズ越しに優しい顔が自分を見つめていた。
「お互い様ってことでどうでしょう、副隊長殿?」
一方的に「七緒ちゃんは悪くないよ」と言われても素直に引き下がらないこの性格を知った上で出してくれる譲歩案。
その言葉の選び方の端々にも彼の心の細やかさが伝わってきて。
本当に素敵な人だ、と改めて思う。



近づきたい。
傍に居たい。
だけど。



「さ、日も暮れてきたしさっさと帰ろうか。ウチの隊長のご飯の用意もしなきゃなんないしな」
そう言って、先に歩き出す
だが数歩歩いて立ち止まったままの自分を必ず振り返ってくれる。
ちゃんとついてきているかどうか、確めてくれる。
小走りに近寄って、見上げるとまた笑う。
宵闇に照らされた横顔は驚くほど美しく、ともすればそれは魔的な美であるが、纏う空気のやわらかさの前には何の問題でもなくなる。
それがこの人の、の魅力なのだ、と京楽春水は前に一度言っていた。
近づきすぎると呑みこまれちゃうよ、と。
その通りだ、と今思う。
彼の傍に居ることをあんなに望んでいたのに、いざその機会が巡ってくるとどうしたらいいのか分からなくなる。
虚や鬼道、そういった知識を詰め込み理解し、実践に移すことは容易い。
だがこればっかりは、どうしようもならない。
苦笑を先を行くの背で隠しながら。
小さく、小さく息をついた。
「あ、七緒ちゃん見て」
「はい?」
細い影が立ち止まって、振り返り、ほら、と右手で道端を指差す。
視線を投じればそこには濃いピンク色の小ぶりな花が暮れかけた夕闇に存在を主張していた。
「おしろい花、ですね」
「綺麗だなー可愛いなー暑いのに頑張ってるよなー」
しゃがんで花を指先でつつきながらは花を褒める。
羨ましい、と花にまで嫉妬してしまう自分にもう一度苦笑いをした。
「七緒ちゃんみたいだよな」
「は?」
聞こえた言葉に自分の名が入っていたことに驚き、思わず声をあげたら眼鏡が少しずれた。
「可愛くて頑張り屋さんなとこ。暑苦しい春水さんとこで毎日頑張ってるところ、白粉花みたいだな」

どうしよう、どうすればいい?
頬が熱くなる。
夜目にも分かってしまうほど今の自分の顔は赤いだろう。
こんなことを言われておかしくならない方が変だ。
せめてもの救いは依然が花の前に座ったままでこちらを見ていないということだろう。
だがそれも時間の問題。
今振り向かれたら、知られてしまう。
彼に傾く己の気持ちを。

「暑苦しいは酷いよー、く〜ん?」
「きょ、京楽隊長!?」
突然聞こえた声に吃驚してそちらを向くと、酒瓶を片手にふらふらした足取りで上司が立っていた。
その隣には。
「乱菊?おまえ何やってんだよ」
が京楽に縋るようにして立っている、というより凭れかかっている十番隊の副隊長を見て呆れたように顔をしかめた。
「七緒ちゃんに早く帰っていいよーって言われたから行きつけのお店で飲んでたのよ。そしたら乱菊ちゃんが来てね〜。一緒に一杯やってたってわけ」
んふ〜と酒臭い息で笑いながら京楽がそう言うのを拳を握ることで耐えた。
二日酔いが原因で追い返したというのに、当の本人はまたもや酒を摂取していたというのか。
怒りのあまり言葉が出ない。
「おぉーい乱菊〜?あーダメだこりゃ。完璧に酔っ払ってる」
未だ京楽の肩にぶら下がったままの同期に声をかける
そんな彼に乱菊はあははと普段より高い笑い声を発しながら覚束ない足取りでの方へ歩み寄ってくる。
「酔っ払ってないわよぉ〜失礼ね〜」
「いや、べろんべろんじゃないの。あーもう若い……ってもうそんなに若くないけど妙齢の娘さんがこんなになるまで酒飲んで」
「うーるーさーいー。何よぅなんかいつまで経ってもずっと若いままでムカつくー」
「はいはいごめんねー若作りで。乱菊やっぱ飲みすぎ。お嫁に行けなくなっちゃうぞ」
彼女から繰り出されるへろへろの拳を受け止めて、ついでにくたりと力を抜いた乱菊の身体も受け止めて。
しょうがないなーとそれでもは笑う。
「いいのーそうなったらに貰ってもらうもん」
普段は凛としてかっこよく、あの新任の小さな隊長を完璧にサポートしているあの松本乱菊が。
駄々っ子のようにの腕の中で喚いている。
今の彼女は普段の姿からはとても想像できない。
「俺がー?ギンはどうするんだよ。あいつ絶対拗ねるぞ」
「いいのよギンなんか!いっつもいっつも一人でどっか行っちゃうんだから。あんな馬鹿やろーは放っておくの!」
「あーそう。っておいおい寝るなよ乱菊。ここはまだ家じゃないぞ」
慌てて声をかけて肩を揺さぶっても既に遅く。
くぅくぅと寝息を立てる乱菊を見ては困った、と呟いた。
「七緒ちゃん、ごめん。送ってくって言ったけどこいつ家に戻さなきゃなんないから」
「あ、いえ!お気になさらないでください!私なら平気ですから」
「本当にごめんな!じゃあまた明日。春水さんあんまり七緒ちゃん困らせないでくださいよ」
よいしょ、と軽々と乱菊を背負いながらその場を後にするをしばらく見送って。
正直ほっとしている自分がいることに意気地が無い、と自嘲の笑みを浮かべたところで。
「あーらら、七緒ちゃんふられちゃったね〜」
すぐ隣から降ってくる声に再び上司の存在を確認させられた。
途端思い出し、こみ上げてくる怒り。
「京楽隊長」
「ん〜なぁに〜七緒ちゃ〜ん?」
「私は昼間貴方に早く家に帰るように言いました」
「うん。言ったねぇ」
「それは何の為だとお思いですか。何処のどなたが二日酔いで早退してさらに酒浸りになるなどという愚行をなさるんですかお答えください京楽隊長」
との時間を邪魔されたことは勿論、だらしのない上司の姿を見られてしまったという恥ずかしさが怒りに拍車をかけている。
さあ、と詰め寄ると京楽は視線を泳がせて明後日の方を見る。
「京楽隊長!」
「七緒ちゃんさっきまでと全然態度違うじゃないのー君には優しいのに僕には厳しい……」
「な、何を言っているんですか!」
「恋する女の子な七緒ちゃんも可愛いよ〜。うん、できれば応援してあげたいなぁ」
「ふざけるのも大概にしてくださいっ」
「また明日って君言ってたねぇ。じゃあ明日も僕はいない方がいいのかなぁ」
「京楽隊長!!」
日が沈み、太陽の余韻だけが空に残る中、八番隊の隊長と副隊長の声が木霊する。
それは当たり前の日常で。
だけどたまには女の子としての自分も見て欲しい。
不特定多数ではなくたった一人に。
秘めた想いを伝えられる日がいつくるのかなんて分からないけれど。
今はこの飲んだくれの上司を何とかする方が先だ、とそう思ってまずは隊長の手にある酒瓶を取り上げた。




恋する乙女全開の伊勢七緒八番隊副隊長です。
私は彼女を激しく勘違いしている気がします。
18巻巻末のキャラクター資料にあった京楽さんと乱菊さんの素敵な関係にうはんとなってこの話を思いつきましたが。
ほとんど関係ないですね(笑)



完成日
2005/08/10