海へる日



生命の起源は海であった、とは誰が言った言葉だろう。
進化の過程を遡れば確かにヒトは海へ辿り着く。
だからなのだろうか。
ときおり無性に海へ行きたくなるのは。


夏も盛りのある日、護廷十三隊三番隊隊長である市丸ギンは自宅に居た。
サボリではなく、れっきとした休暇、非番の日である。
庭では短い命を懸命に歌う蝉が大合唱をしており、日差しはどこまでも強い。
縁側の軒先に吊るされた風鈴は、風が無いためちり、とも鳴らない。
沓脱石の上に裸足の足を投げ出して、上半身は縁側の床に寝そべる。
銀色の細い髪は床の上に散らばって、太陽を跳ね返してきらきらと輝く。
直射日光に当たるがままでいるくせに、口から出てくる言葉は「暑い、暑い」と同じ言葉の繰り返しでしかない。
「そんなに暑いなら中に入ったらいいのに」
家の中から聞こえた声に市丸は顔だけで振り返って、
「いまさら動くのもしんどいんや」
と面倒くさそうに返した。
そうしてちょいちょい、と声の主を手招く。
日焼けしたくないんだけど、と言いながらもやってきたのは一人の女で。
藍染の浴衣に緋色の帯を締め、すらりとした容姿が美しい。
長い黒髪はうなじの上でまとめられ、後れ毛が白い肌にわずかな影を落としている。
日光に当たらない、ぎりぎりの境界線で立ち止まり、彼女はそこに腰を下ろした。
「遠いやんか」
市丸がふくれて文句を言うが、彼女は取り合わない。
「日焼けしたくないって言ったでしょ。それに暑いし」
「もうちょいこっち来てぇや。触られへんやん」
「触んなくていいよ。暑いって言ったのギンでしょ」
に触るんはええの」
彼女の名を呼んで、足をばたつかせる姿はとてもじゃないが一隊を預かる長だとは見えない。
イヅル君が見たら泣くよきっと、とは思いながらそれでも動かない。
ー」
市丸の声が拗ねたような響きを持つ。
「日焼け嫌なんだって。赤くなったらひりひりするし」
は肌弱いもんなぁ。しょうがない、ボクが動いたらええんやな」
「そうそう。ギンがこっちに来なさい」
「なんやその偉そな物言いは。そないなこと言う娘にはこうやで」
一瞬前までだらだらと寝転がっていた彼とは別人のように市丸は素早く起き上がり、そしての腰に絡みつく。
予想もしない彼の行動には「きゃあ!?」と悲鳴を上げて、バランスを崩しそうになりながらも何とか腰にまとわりついた衝撃をやり過ごした。
「もう、いきなりこんなことしたら吃驚するでしょ!」
ちょっと怒ったような彼女の声も耳の右から左へ。
市丸はの膝に顔を埋めて猫がそうするようにゴロゴロと甘えている。
そんな彼の様子にため息を吐いて「随分と大きな猫だこと」と呆れながらもその銀色の髪を優しく撫でてやる。

「暑いなぁ」
「そう思うなら離れてよ」
「いやや」
時折思い出したように膝の上で呟く市丸に律儀に返事を返す
こんな会話が既に何度も繰り返されている。
いいかげんうんざりしてきたが膝の上の市丸から目を逸らし、ふいに呟く。
視界に入った空があまりにも青かったから。
「海、行きたいなー」
彼女のそんな言葉に市丸は苦笑する。
「肌弱いんと違うん?海なんか行ったらは真っ赤になってしまうやないの。夜になってイタイイタイて泣くんは自分やで?」
ごろり、と彼女の膝の上で寝返りをうって、の顔を下から見上げる。
口の端を上げて可笑しそうに言われた言葉に先程日焼けは嫌だと散々言った手前、は少し居心地悪げに言い訳のように続ける。
「や、でもさ。夏になったら海行きたくならない?」
「うーん、そやなぁ…行きたなるわなぁ」
「でしょう?何でだろうね。不思議だよね」
澄んだ光を宿す両の瞳が眩しくて市丸は元々細い目をさらに細くする。
市丸の髪を撫でるのをやめた白い手が、その顎に添えられて悩む彼女を真剣にさせるのをぼんやりと眺めて。
そうだ、と何かを思いついたらしい彼女の声にそれまで合わなかった焦点をゆっくりと再びの眸に戻す。
「ほら、命って海から来たって言うじゃない?この世界に生きてる生物の全てはみんな海から生まれたんだって」
彼女の膝から見上げる彼女の顔は頬が紅潮していて。
ああ、いますぐ食べてしまいたいわ。
命の起源について語ろうとしているの言葉なんぞ市丸は全く聞いていない。
しかし聞いていないと後でこの愛しい想い人の機嫌を損ねてしまうのは明白だったので、適当に聞いて適当に聞き流す。
今や市丸の頭の中にはどうやってを床の上まで自然に連れて行けるか、そのことしか考えていなかった。
こんな真昼間からて嫌がるやろなぁ、は妙なところで恥ずかしがりやし。
そないなとこも可愛らしいんやけどなー嫌がるのんを無理やりっちゅうのも結構乙なことかもしれへんなぁ。
そやけどいっぺん怒らせてしもたら後が大変やなぁ。
へそ曲げたままやと絶対触らせてくれへんもんなぁそれは嫌やなー。
などとぼんやり妄想に耽っている市丸にふいにが「でね、聞いてる?ギン」と突然市丸の顔を覗き込んだので、珍しく慌てた市丸は「聞いとるで」と答える声が裏返ってしまった。
「もう、嘘つき」
は頬を膨らませ、ギンの頬を細い指先でつねった。
「いたいいたい〜堪忍してぇや」
「知らない!」
ぷん、と顔を背けてしまったは膝から市丸の頭を落としてしまう。
「あいたっ」
小さく悲鳴を上げるが彼女は取り合わない。
どうやらへそを曲げてしまったようだ。
あちゃーと落とされたままの位置で頬をかきながら市丸は恋人の機嫌を直す方法を考える。
は何の話をしていたっけ?
確か、海。
海から生まれる命の話。

「ヒトが海を恋しがるんは」
ぼんやりとした口調で市丸はに話しかける。
当然返事は返ってこない。
それにも構わずに続ける。
天井の木目を数えながら。
吊るした風鈴はまだ鳴らない。
「母親の胎の中に似とるからや、て聞いたことあるで」
「お母さんの?」
思わず、といった感じに返された声に市丸は内心ほくそ笑む。
しかしそんなことは微塵も態度に見せずに。
「そや。女の人は身篭ったら胎ん中に海造るねんて。一番あったこうて、一番安心できる水ん中にややこを浮かべて育てるんや」
「そうなの?赤ちゃん溺れたりしない?」
興味を惹かれたのか、目を丸くして問いかける彼女を寝返りを打つことでうつぶせになり、頬杖ついて見上げる。
がさっき言うたやん。命は海から来るて。ややこも母親の海の中で命の起源からヒトへの 進化までを一気にやってしまうんやで。そやからどんなに可愛え子ぉでも最初はお魚さんやねん」
「魚から両生類になって爬虫類になって、それから哺乳類?」
桃色の指先を顎に添えて考え込みながら昔どこかで誰かに教えられた知識を思い出す彼女に糸目をいっそう細くして頷く。
「そやから溺れたりせぇへんよ」
「ふぅん……じゃあギンも魚だったの?」
「そやなぁ。そないな時もあったかもしれへんなぁ」
「ふふ、じゃあ海に帰らなきゃね。みんな夏になったら海に行って、お母さんを思い出さなきゃ」
小さく笑って彼女が言うのを、機嫌が直った証拠だとみて、市丸はぐん、と身体を起こしてに近づく。
突然のことに目を丸くしている彼女の頬に長い指を添えて至近距離で囁く。
「ほんなら僕も海に還りたいわぁ」
が何か言う前にその口を塞いで。
右手をゆっくりと下腹部におろして。
『海』の上でぴたりとその手を止める。
「……ここに僕を射れさせて?」
真っ赤になったを押し倒すと、ちょうど吹いた風が弱々しくちりん、と風鈴を鳴らした。




寸止め!!(爆笑)



完成日
2005/08/18