拒んだのは、己の方だ。




『さよならは云えない』



ぽろぽろと、意思に反して両の瞳から零れ落ちた雫に。
驚いたのは喜助本人ではなく、傍で飛行機の模型を手で飛ばしていたジン太だった。
唐突に涙を流し始めた喜助の姿に、最初はぎょっとして、それから数秒あるいは数十秒固まり、 次に状況を把握すべく彼なりに頭を使い、最後には「テッサイ!店長が壊れたーっ!!」と大声で叫んだ。
何事かと台所から急いでやって来たテッサイは、火鉢を前に煙管を右手に持ったまま呆然と動かない喜助の姿にどうしたことか、 と思案する。
珍しく帽子を脱いでいる。
そのことで露になった彼の両目から止め処も無く溢れて流れ落ちているのは紛れも無く涙だ。
「どうしよう店長が壊れた!明日の天気はきっと空からメノスグランデが落ちてくるぞっ」
動揺して騒ぎ立てるジン太をとりあえず宥めて、テッサイは同じように傍にいたはずのウルルに視線を向けて何があったのか問おうとするが、ふるふると首を左右に振られて無駄に終わった。
仕方なくここは本人に直接訊くしかない、とテッサイが心を決めた時。
茫然としたままの喜助の唇が力なく動き、ある人物の名を音にした。



その名一つで、全てとは言わずとも大方のことを察することが出来た。
テッサイはジン太とウルルを促し部屋から出て行く。
襖を閉める直前に、悼むように深く頭を下げて。
喜助はそんな三人の様子に気付かずに、焦点の合わない目でずっと何処か遠くを見ていた。


どうしてだか知れない。
だが突然瞳に溢れた涙が意味する所を、何の根拠も無く、それでもソウなのだと確信したのは今でも彼女を心に住まわせていたからであろう。
遠い遠い過去に、遥か彼方の世界に置き去りにした彼女を。
弱く儚く、そしてなによりも気高く美しい一輪の花だった。
咲かせたのは喜助だ。
そうして直接ではないけれど、恐らく散らせたのも喜助だ。
「逝ってしまったんですね……」
呟きは音になり、音は不確定な憶測を真実へと変えた。
約束を、何一つ果たさせてくれないまま彼女は儚くなった。

彼女を迎えに行くという約束と。
死した折には彼女の元へ還るというヤクソクと。

思えば彼女が自分から我儘を言ったのはその二度だけではなかったか、と思い出す間にも涙は止まらない。
いつもいつも、困ったように自分との距離を計り続けていた少女。
何処までなら近付いてもいいのか、何処まで距離を置けばお互い負担にならずに済むのか。
いつもいつも、そんな彼女を強引に引き寄せていたのは喜助だ。
何処まででも近付いて欲しい、いっそ溶けて一つになればいいとさえ、あの頃は本気で思っていた。
自分の方が遙かに年嵩であるにも関わらず、子供じみた事を彼女に押し付けていた。
そんな時、は決まって弱々しく微笑むのだ。
まるで今にもその影が薄くなってしまうのではないのかと本気で心配するほどに淡く儚い笑顔だった。
ただ、知って欲しかっただけなのに。
そんなことは気にしなくてもいいのだということを。
好きなだけ我儘を言ってもいいのだということを。
そんなことは全然苦にはならないということを。
アナタを心から愛しているのだということを。


与えられてばかりいた気がする。
あの時は、自分が彼女を救っているのだという傲慢に浸れていたが、今となっては全て逆だということに気付いた。
誰かを思い遣る気持ちだとか、触れ合うだけで満たされる想いだとか。
そうした当たり前の感情をひとつひとつ、彼女と共に見つけていくことが何より嬉しくて。
心の奥底からじんわりとあたたかさが溢れ出してくるような、そんなシアワセを彼女は教えてくれた。
では自分は。
彼女に何を与えられたのだろう、何を残せたのだろう。
あの日、旅立つ直前に訪れた時でさえ、彼女は『約束』をくれた。
離れることを望んだのは己の方であるというのに、離れてこんなにも辛い想いをしている。
彼女をどんな形であれ拒んだのは、己の方だ。
今更どんな謝罪をすればいい?
きっとどれほど言葉を尽くしても赦されることなど生涯訪れない。
訪れては、ならない。

……どうして、どうして」
はらはらと頬を伝い落ちてゆく涙には、何の感慨も無かった。
ただ流れるだけの液体だ。
むしろ涙を流すということで、まるで自分が贖罪を請うているかのようで自身に激しく嫌悪感を覚えさえもした。
………」
何度呼んでも応えてくれる声などない。
全てを置いてきてしまった、その愚かな選択に喜助はようやく気付いたのだった。


流れる雲をぼんやり見上げていた。
ちょっとした用事で外に出た帰り道、下駄を鳴らして気だるそうに歩きながら喜助は風に煽られて次々と形を変えてゆく雲に魅入っていた。
現世へ降りてから百年が経とうとしている。
そうしてが逝ってから十数年の月日が流れた。
彼女が住んでいた心の片隅は今も大きな穴があいたままだ。
ぽっかりと空いたままのその場所を埋めるだけの何かを未だ持ち合わせていない。
何かしてみようか、と偶に重い腰を上げてみても結局形にならない内に飽きてしまう。
酷い顔をしている、と気紛れに訪れる夜一にも言われた。
そう簡単に忘れることなどできない、と応えれば彼女は苦く微笑んだ。
今日当たりまた来るだろうか。
昔馴染みのあの猫は。
ミルクでも買って帰った方がいいのだろうか、とそんなことをつらつらと考えながら歩いていたら、曲がり角で飛び込んできた小柄な影に気付かなかった。
「きゃ」
「うわっ……!?」
軽くぶつかって、バランスを崩したが、何とか踏みとどまって相手のほうを見ると、そちらも少したたらを踏んだぐらいで済んだようだ。
セーラー服を着た、黒髪の少女だった。
「大丈夫っスか?すみませんねぇ、余所見していたもんですから」
とりあえず謝ろうと声をかけると、少女はいきなり頭を下げた。
「こちらこそすみません!急いでたから」
「ああ、いえ、怪我がないなら」
「はい!ありません!あ、もう絹枝ちゃん来てる!」
顔を上げた少女の視線の先には確かに彼女と同じセーラー服姿の少女がいて、こちらに気付いて手を振っている。
それに軽く応えて、少女はもう一度深く頭を下げた。
「本当にごめんなさい!」
「いいえ、こちらこそすみませんね」
もう一度お互いに謝罪をし合って、それから少女は会釈一つ残して走り去っていった。
その背を何となく眺めて、彼女が友達の下へ辿り着くのを見届けるとゆっくりと家路につく。

「ごめ〜ん絹枝ちゃん」
背に、少女の謝る声が風に乗って切れ切れに聞こえる。
なんて事無い、世の中にありふれた風景の一部だ。
「もう、遅いー今日はのおごりね!」
その名を聞いて、反射的に振り返った喜助は先程の少女を捉えるが。
「ええー?ごめん見逃してよ〜今月やばいんだって」
「だーめー」
思い描く少女とは似ても似つかない。
唯一共通点があるとすれば、それは髪の色と、その名だけで。
自分が今歩いてきた方向へ二人連れ立って遠くなるその背をしばらく茫然と眺めていたが。
やがて泣き出したいような、笑ってしまいたいような気分になって、被っていた帽子の端を指で引っ張る。

「はは、馬鹿みたいだ。はもう何処にもいないのに」
顔面に宛がった手の隙間から、零れる雫に吐き気がする。
何もかもを捨てて、拒んで。
だというのに都合のいい甘い想像に浸って。
顔を上げないまま、空に向かって小さく誓う。
「ねえ、。時間はかかるかもしれないけど、絶対にアタシもアナタのところへ行くから。そうしたら、今度こそアタシの首を切ってくださいね」


じゃないと馬鹿なアタシはまた何処かへ行きたくなってしまうだろうから。








多分これでおしまい。
他所ではこういう場合「生まれ変わってハッピーエンド」みたいなのが多いので、どうせなら最後まで悲恋にしてやろうという捻くれ根性から生まれました。
や、最初は本当に『首』は読みきり一本だけのはずだったんです。




完成日
2005/11/17