Home sweet home 結局、いつだって戻ってきてしまうのだ。 この場所に。 ため息が出る。馬鹿馬鹿しい、と呟けば隣の男の耳に届いてしまったようだ。目を剥いて唾を飛ばしながら猛烈な勢いで男は何かを言っているが、乱菊には届かない。全て雑音となってその場を抜けていく。うるさい、と今度は思ったが口には出さなかった。代わりに深い深い、ため息を。 ぼんやりと夜の道を歩いていたら、見覚えのある屋敷の前まで来ていた。年中葉を落とす事がない常緑の木々に囲まれた大きな屋敷。広さだけなら四大貴族である朽木家にも相当するという話を聞いたことがある。家主である彼は留守だ。というより、彼がこの家で過ごす日など一年で数えるほどしかない。定期的に屋敷の掃除には来ているらしいが、この家はいつも無人だ。門をくぐって飛び石を渡り玄関に辿り着く。けれど灯りは燈っていない。冷たい月明かりだけが乱菊の肌を照らす。 この家にいた頃は、まぎれもなく自分にとって幸福であった。地を這いずるようなどん底の生活から救ってくれた二人の恩人。きっかけを与えてくれたのはギンだったが、帰る場所を乱菊にくれたのはだった。日が暮れて遊びつかれて泥んこになってギンと一緒に帰ると、彼は怒るでもなくただ笑って、 「おかえり」 の一言を。そのままそれぞれ腕に抱え上げられて、沸かしたての風呂に放り込まれ、いいにおいのする石鹸で身体を洗って湯につかって火照った肌を洗い立ての着物で包んで脱衣所から出れば、鼻腔をくすぐる夕餉の香り。炊き立てのご飯の湯気につられるように走っていってしまう銀色の髪の少年。その背を追いかけて慌てて居間に飛び込めば、きちんと用意された三人分の食卓。 「こーら、家の中で走るな」 嗜める声はだけど笑っていた。ギンと隣り合わせ、とは向かい合わせに席につくと、ぱちんと両手を合わせて「いただきます」と声を揃える。話し声の絶えない食事の時間は楽しかった。ギンが喋ってが笑ったり怒ったり呆れたりする様子を傍で見ているのが好きだった。食事が済めば三人で後片付けをして、そして三人並んで床についた。を挟んで右と左で、自分の布団があるのにわざわざ彼の布団に両側から潜り込んで。 「この甘えっこ共が」 頭上から聞こえる声にくすぐったさを感じながら、ぎゅっとくっついて朝まで眠った。 この家は乱菊にとってかけがえのない、帰る場所だ。それはきっとギンも同じ。だから今、この家に誰もいないことが哀しい。勝手に飛び出していったのはギンや乱菊の方だけれど。それでも灯りのつかない家はからっぽで、さびしくて、泣きたくなる。玄関先の冷たい石の上に座り込んで膝を抱える。鍵のかけられた引き戸は開かない。開くはずがない。灯りの燈らない家の中からは、人の気配がしない。は、ここにはいない。泣きたくなって、いっそ大声で泣いてしまおうか、と乱菊は考える。敷地だけはやたらと広いこの家は、四方を鬱蒼とした木々に囲まれているおかげで人目につかない。外聞を憚らずに思う存分泣く事が出来る。だけど。 「……泣けるわけないじゃないの」 乾いた笑いが口の端から零れ落ちる。今更どうして泣く事がある?ある日突然ふらりと姿を消したギンを追いかけて勝手に家を出たのは乱菊自身だ。死神になったギンを追いかけて、真央霊術院に入ると言った時。は少しだけ黙って、困ったように、今にも泣き出しそうな顔を刹那に垣間見せ、そうしてくしゃりと乱菊の頭を撫でた。 「おまえが自分で決めたんならいいさ。ただし後悔だけはするなよ」 そう言って、いってらっしゃい、と優しく背中を押してくれた。いつだっては優しい。優しすぎる。その優しさが切なくて、狂おしくなるほどに。あの時、乱菊がギンを追いかけようと決めたのは、ギンがいなくなることで壊れてしまったあの家での生活を取り戻したかったからだ。誰が欠けてもいけない。ギンと乱菊と、そしてと。三人いればそれでよかった。ささやかな願いだ。祈りに託すのは小さな幸せだ。一度壊れてしまったものが、もう二度と元には戻らないと知ったのはそれから数年もしない内だったが。 「松本か?どうした、こんな夜更けに他隊に来るなんて」 雨乾堂の庭先にふらりと現れた乱菊を十三番隊の隊長は驚いて迎えた。縁側に酒肴があるのを見ると、どうやら一人で月見酒を愉しんでいたらしい。彼は現れてから一言も発さない乱菊に特に気分を害した様子もなく、逆にその様を心配してきた。 「どうした?気分でも悪いのか?」 尚も続けて問うが、俯いたままの乱菊は答える素振りすら見せない。そうして人は好いが少し鈍い節のある浮竹は、ようやく彼女が何を求めてここまでやってきたのかを思い当たり、奥に向けて声をかける。いくらもしない内にやってきたはまるで抜け殻のようにぼんやりと佇む乱菊に僅かに眉を顰めた。 「一体どうしたんだよ、こんな夜中に。隊長に失礼なことしてないだろうな?」 浮竹の配慮で乱菊を屋敷の中に招きいれ、灯りの落とされた廊下を歩きながらは後ろをついてくる乱菊に問う。しかし返事はない。 「もしもーし、乱菊ちゃーん?お返事してくれないとお兄さん君の事よく分からないんだけど」 「………は、…っと…………てた」 ぼそぼそと返る声に立ち止まって振り向く。 「何?何が言いたいの?」 「……………」 「黙ってちゃ分かんないだろ。言いたいことがあるならちゃんと言えって」 強くなる彼の口調に泣きたくなる。昔はそんな言い方しなかった。だってはいつも優しくて、いつだって分かってくれていたのに。感情が昂ぶり、癇癪を起こした子どものように、ぼろぼろと涙が出る。知らない。こんなの知らない。あたしは泣いてなんかいない! 「昔はもっと分かってくれてた!何にも言わなくてもはあたしのこと判ってくれたじゃない!」 まるで子どもだ。違うのに。こんなことを言いたいんじゃない。目の前にあるの綺麗な顔は静かに乱菊の子供じみた感情の発露を受け止める。桔梗色の双眸に月影が映りこみ、銀色の虹彩が夢の風景のようだ。 「ギンもも、みんな何処か行ってしまうじゃない!あたしは、あたしはいつだって置いていかれるばっかり……」 「乱菊……」 「ギンはいつも何も言わない、も自分のことは何一つ教えてくれないじゃない。ねえ、あたしこんなに大人になったのよ?それでも駄目なの?どうして何も言ってくれないの?ねえ、どうしたら昔みたいに三人で暮らせるの?」 「……………乱菊」 「帰りたい……帰りたいのよ、あの家に」 立っていられなくなってその場に崩れ落ちる乱菊の濃い金色の頭を見下ろすの瞳は一つの波も立たない静寂の湖面だった。 「乱菊」 耳に心地良い聲が名を呼ぶが、乱菊は両手で自らの耳を塞いでいやいやと子どものように首を振る。そんな彼女に呆れるでもなく、膝をついて彼女の頭をそっと抱え込む。他人の体温に触れた乱菊が一瞬身体を震わせるが、かまわずに右手で頭を撫でてやる。其れは昔、乱菊が、ギンが、まだ幼かった頃によくやった。怖い夢を見たと言っては泣くこどもを抱えて、月明かりの差し込む静かな部屋で、安心させるように体温を分け与え、何度も何度も頭を撫でた。泣くな、とは言わずに。むしろ泣いてしまえ、とは言った。泣けるうちに好きなだけ泣いてしまえと。 「だから言っただろうが。後悔だけはするなって」 頭のてっぺんから聞こえる声には苦笑が混じっていた。 「あのな、おまえがどれだけあの家での時間を大事にしてくれてたのか俺は知ってるよ。ギンがあそこを出た時におまえが追いかけていった理由もちゃんと判ってる。だからこそ、俺もあの家を出られたんだ」 乱菊がギンと一緒に、と共に暮らした時間は短い。寿命という概念のない魂だけの存在にあってそれは本当に僅かな時だ。そうしては長い間ずっと一人だったと。あの広い屋敷にたったひとりきりでいたのだと。思い出して乱菊はの腕に抱かれながら瞠目する。 「俺は正直いってあの家が好きじゃなかった。格子のない牢獄と同義なんだよ、俺にとっては。でもギンを拾って、そのギンがおまえを連れて来て。毎日毎日うるさく過ごして、おまえらの面倒みてる内に」 一度言葉を切ったはしばらく黙った。見上げることが出来ない乱菊にはその表情が皆目見当つかない。不安になって身動ぐと、大きく吐かれた息。 「そんなに悪いものじゃないな、って思うようになった。あの家は俺にとって大切な場所だけど、辛い思いをした場所でもあるんだよ。ひとりでいる時は哀しいことばかり思い出すだろう?だからギンや乱菊が来てくれて良かった」 きっと、あの桔梗色は、乱菊の大好きな色の瞳は笑っている。この世で一番綺麗な笑い顔で。悔しくなるくらいに美しい表情で。哀しくなるぐらいに、いとおしくてたまらなくなるほど深い色の双眸は、優しく微笑んでいる。 「ありがとう、な。あの家を大事に思ってくれて」 耳朶をくすぐる声の響きは昔とちっとも変わらない。暗闇に怯えて泣いていた乱菊をあやしていたあの頃と変わらない。だからこそ余計に涙が溢れてきて。止める術を知らない熱い雫は頬を伝って彼の着物にしみ込む。声をあげて子どもの様に泣く乱菊を、はいつまでも抱いていた。 「ところで一体どうしたんだよ。ただの情緒不安定にしちゃあ様子がおかしかったぞ」 ひとしきり泣いて、腫れぼったい目をしょぼしょぼさせながら顔を洗う為に洗面室へ案内されていた乱菊は「ああ」と、事も無げにその理由を述べた。 「付き合ってやってた男がね、とのことを疑いだして」 「はあ?」 「あんまりしつこく聞いてくるから馬鹿馬鹿しいって言ったら喧嘩になって」 その時のことを思い出した乱菊はため息をつく。 「面倒になって飛び出してきたの。ああ、ちゃんと勝ったから安心して」 灯りの下、ようやく色を帯びた乱菊の死覇装には裾に赤黒い染みが付着していた。 「勝った、っておまっ!?んぎゃー血!返り血!?」 「殴り合いで負けるわけないじゃないの。言っとくけど刀抜かなかっただけ誉めてほしいわよ」 「そういう問題じゃない!」 涙声で説教を始めるに乱菊はようやく安心した気分になる。結局、いつだって帰る場所は此処なのだ。あの家ではない。入れ物だけでは意味がないのだ。手を伸ばせば届く位置にいてくれなくては。への気持ちは恋ではない。きっと、違う。ただ彼を思うとひどく胸が苦しくなるだけなのだ。それは懐かしさに似た、もっと大切な、言葉では言い表せないぐらいにいとおしい親愛の情。 完成日 2006/06/14 |