帰ってきた、その時のために どれだけ泣いても悲観しても朝はやってくる。泣き腫らした目に眩しい朝日に殺意を抱いても、太陽はお構い無しに天頂へ昇る。ころり、と布団の上で寝返りを打って、乱菊は自分が何処にいるのかを忘れそうになっていた。 「あー……」 布団からかすかに鼻腔をすり抜ける残り香に、黒髪に桔梗色の誰よりも大切な昔馴染みの後姿を思い出す。 「生意気言ってんじゃねぇぞ」 あの時、彼は本気で怒っていた。いつも穏やかで、誰に対しても優しい十三番隊八席の、本気の怒りをその場にいた全員はほぼ初めて感じ取った。空気を震わす殺気にひくり、と喉が引き攣れ、冷や汗が背を流れ落ちる。そのリアルな感触を今でも鮮明に躰は覚えている。乱菊は思わず両腕で自分を抱きしめる。怖い、と。はじめて彼をそういう目で見たのだ。 「」 ギンが驚いてその名を呼ぶ。あの、ギンが。驚くなんて。それでも他の人に悟られるような、あからさまな驚き方はしなかった。ただ、ギンのすぐ間近で、左手をその手に掴んでいた乱菊には、かすかな衝撃が動揺なのだと知れただけの事。飄々として、平気で人を裏切るようなギンが、初めて見せたその感情の片鱗。の怒りにギンは驚き、ギンが驚いた事に乱菊は心中を掻き乱された。 「……」 それでもその動揺を瞬時に封じ込めてしまえる神経は流石だ。平然とその名を呼ぶギン。そのことにより向けられる桔梗色の双眸に、乱菊は止まりそうになった呼吸を苦労して意識的に再開させる。直接向けられたわけでもないのに、肺が空気を満たす事さえを許さぬような、殺気。 「ギン」 凍りつきそうなほどに冷たい聲。竦みそうになる足を必死で維持する。あたしにじゃない。だけど、あたしに向けられた声じゃない、って判ってても。高貴ささえ思わせる桔梗色の澄んだ双眸は、視線だけで射殺すようにギンを見遣る。屈服を是と、受け入れろと強要してくる。掴んでいたギンの腕が微かに震えだした。どれだけ動揺を隠しても、あんたもやっぱり怖いんだ。 「ギン、俺は言ったはずだ。『おまえは加減を知らないから駄目だ』ってな」 冷え冷えとした声と共にが一歩、踏み出す。迸る霊気、霊圧は無理に抑えているかのようにの背後で渦巻いては消える。 「一つ、訊いておいてやる」 「……なんやの」 「おまえが今から行こうとする途は、おまえが選んだものなのか?」 風が強く吹いて、の髪を揺らした。漆黒の髪がはためく向こうで、藍染隊長が薄く微笑んでいる。ギンも一瞬そちらに注意を向け、そうしてわざとおどけたように答えた。 「そうや?何か文句でもあるん?」 その答えに、はゆっくりと両の瞼を下ろす。苛烈な虹彩を浮かべる桔梗色の瞳から一瞬でも逃れられた隙に慌てて息を吸い込む。肺にしみこむ酸素は久しぶりにその機能を思い出し、全身の血が通いだす。冷えてしびれていたような感覚さえ覚えていた腕に改めて力を込める。そうしてギンの肩越しに見た彼の貌に、見なければ良かったと後悔するのはすぐ後のこと。 「そうか」 短く言って眉間の皺を深くし、漏れた吐息は明らかに希望に満ちたものじゃなかった。疲れたように肩を落としたは緩慢な動作で利き腕である右腕を前に突き出した。何をする気なのかと、その場の誰もが彼の行動に注目する。 「なら俺はおまえを斬らなきゃならない」 躰の前に出されたの右腕。白く繊細な、それでも男の人の骨っぽさのある指先。黒い死覇装の袖がふわりとはためく。霊気が集まるのが目に見えた。清廉な、それでいて誰も寄せ付けない苛烈さを秘めたの霊気が意思を持つ風のようにの右腕を取り巻く。がその腕を軽く振った。するとその場にあったのは一振りの刀。鞘はない。むき出しの刃が鈍く光る。柄に巻かれた緋色の組み紐が揺れる。 「ほぅ……」 今まで何が起ころうとも薄く微笑んでいるだけだった藍染惣右介がさすがに声をあげた。 「驚いたな。どこからそんな刀を出してきたんだい」 「煩えよ」 「酷いな。僕はただ聞いているだけなのに」 「黙ってろボケが。ギンをやったら次はてめぇだ。辞世の句でも考えながら大人しく待ってろ」 びりびりと空気を震わす聲。これは本当にの聲? 「尸魂界を裏切るっていうなら、それなりの覚悟があるんだろうな」 まっすぐに刃先をギンに向けたが静かに問う。静か過ぎて怖いぐらいに落ち着いた、その態度。ギンが震えている。分かるよ。怖いんでしょう。あたしも、こわい。が怖い。今までで一度だって、をこんな風に思うことなんてなかった。 「なんではボクにこないなことするん」 口を開いたギンの問いかけは心底不思議がっているようだった。そしてあまりにも幼すぎだ。 「おまえの選んだ途が俺の役目を邪魔するからだよ」 表情を一切消したまま、が答える。 「の役目って、なに?」 「仕置、だ」 「しおき」 鸚鵡のように繰り返すギン。その場にいたほとんどが言葉の意味を図りかねている。数人、事情を知っている者もいたようだ。浮竹が「」と小さくその名を呼び、京楽は黙って目を伏せ、山本総隊長は微動だにしない。 「俺の役目はおまえみたいな裏切り者の始末だよ」 が刀を構える。腰を低くして、狙いを定めた。きぃん、と刀が唸る。迸る霊圧にあてられたのか、既に地に膝をついている者さえいる。 「召しませ、陵王」 告げた言の葉に呼応するように、具象化する。陵王と呼ばれたのは人型をしていた。豪奢な文様が織り込まれた緋色の袍を纏い、金色の桴を右手に持ち、顔を恐ろしい龍の仮面で覆っている。ゆらり、と具象化したの斬魄刀が主であるを振り返る。 「なあ、知ってるか」 が問いかける。黒髪に隠された下の表情は窺い知れない。 「陵王はな、同胞喰いの刀なんだよ」 「ともぐいの、それってどういうこと……」 思わず声を上げたあたしには淋しそうに微笑む。 「言葉の通り」 やめて。そんなに哀しそうな顔しないでよ。そんなに苦しそうな聲出さないでよ。 「俺の役目は裏切り者の始末だよ」 「起きたのか」 ごろごろとしつこく布団に横たわる乱菊を様子を見に来たが呆れたように見下ろした。 「いつまで寝てんだよ。もう昼だぞ」 「だってー」 「だってとか言わない。ほれ、飯できてんだからいいかげん顔洗って着替えろ」 くしゃっと乱菊の金色の髪を撫でて、は部屋を出て行った。 「……っ」 思わずその背を呼び止める。 「なんだ?」 振り返るやわらかな微笑に、言葉が喉の奥で詰まった。何を、聞くつもりだったのだろう。昨日の事?ギンのこと?それとものことを? 「う、ううん。何でもない」 結局何も言い出せずに頭を降る乱菊をは黙って見ていた。 「また戻ってくるかしら」 「さあ、な」 乱菊の問いかけには「でも」と続けてこう言った。 「帰ってきたら尻百叩きの上飯抜きだ」 それは昔からの決まりごと。約束を破った、言いつけを守らなかったギンとあたしにが必ずするおしおき。ああ、彼はいつまででも待っているんだろう。そのことを確信してしまったあたしはほっとして、そして泣きたくなった。 「……ぷ、ギンのやつ絶対泣くわ」 泣きそうになりながらも笑う。眦から少しだけ零れ落ちてしまったけれど、ちゃんとうまく笑えたはず。 「当たり前だろう。泣かすつもりなんだからな」 軽い調子で言って、も笑う。ねえギン。あたしあんたのしようとしてること全然わかんない。だけど、ねえ。ここで待ってるわ。あたしも、も。ここでずっと待ってる。だからあんたはさっさと帰ってきて、におしおきされたらいいのよ。その時あたしはざまあみろ、ってあんたを思いっきり笑ってやるわ。 原作177〜178話辺りですかね。 完成日 2006/07/07 |