如月十四日目。この日尺魂界はある意味で異様な空気に覆われていた。数年前に尺魂界の上層部は冬場の経済が落ち込みがちになるのをどうにか打開しようと現世の祭を取り入れてみた。それがバレンタインであり、しかも模倣した先が現代日本だったため、この日はチョコレート菓子のやり取りをしてついでに愛の告白もするのだという本来の意味からは全くかけ離れた認識が定着してしまっている。もっともバレンタインデーの本来の意味などキリスト教の教義すら知らない死神には理解しようもないし、元々経済活性が目的だったのだから誰も文句は言い出さなかった。 しかし、である。祭の雰囲気と言うものは人を酔わせる。普段出来ないことも思い切って出来てしまえそうな空気を孕むものである。決意をするにはもってこいの舞台だ。お誂え向きにバレンタインという日は秘めた思いを告白してもいい日だというではないか。結果、あちこちで微笑ましい男女の組が誕生する。ついでに護廷十三隊中最も人に好かれている十三番隊八席のにも募り募った思いをぶつけにやってくる人間が後を絶たない。それが可憐な乙女であればまだいい。しかしむくつけき男であれば話は別だ。の安全を確保するために結成される女性死神協会の有志の手により、彼らは憐れにも思いを伝える前に人知れず闇に葬られてしまう。そんな彼女らの陰の努力のおかげか、は安全に日常をおくることができていたのである。




チョコレート・ホリック本戦




「おはようございますさん」
「はいどうぞ」
朝、が隊舎に顔を出すと最初に隊員の女の子達から大きな包みを受け取った。中身が何であるのか知っていたので、にっこりと笑って礼を言う。
「ありがと。毎年毎年悪いなー」
その笑顔に何人かの女性死神がのぼせて倒れそうになったり、至福を味わいながら別世界へ旅立とうとしたりしたが、乙女達は気合で踏みとどまった。憧れの人の前では失態は許されないからだ。
「今年はすごいんですよ?みんなで手作りしたんです」
清音が誇らしげにそう言うと、は驚いたように彼女を見返した。
「手作り?清音もしたのか?」
「もちろんですよ!」
「うわぁ、それは何だか不安が醸し出される…烈さんに胃薬調合してもらった方がいいかな」
「何でですかっ酷いですさん!!」
「あはは、冗談だって」
どっと笑い声が起き、その場は和やかな雰囲気に包まれる。二月十四日、十三番隊ではいつもと変わらず親しげな空気の中でその日を迎えたのだった。

「なあ、イヅルー」
所変わって三番隊詰所。隊首室では隊長である市丸ギンが机の上にへたりと片頬をのっけてつまらなさそうに副官の名を呼んでいた。しかしイヅルの方はそれどころではない。三月、つまり一年の総決算である月が間近に迫っているのだ。怠惰な隊長のおかげで山のように積み上げられた未処理の書類を片付けない事には、清々しく新年度をはじめる事など出来るはずもない。
「隊長、お願いですから仕事してください……」
寝不足で青褪めた顔をしつつも健気に己の上官を宥めようとする。何とか今日中にここまではやってもらわないと、と既に遅れ気味の計画を練り直すべく頭を働かせる薄幸の青年をよそに、市丸は窓の外をほけらっと見ている。
はボクの贈り物受け取ってくれるやろか……」
「そんな乙女みたいな発言してないで仕事してください」
きりきりと痛みはじめた胃に、気のせいだと暗示をかけることでごまかしてイヅルは上官に視線もくれずに書類に没頭する。本当なら無視してしまいたいところなのだが、ただでさえ気分屋の三番隊隊長には、一度機嫌をそこねると後々大変苦労させられる事になる。だから適当でも何でもいいからとりあえず返事だけしとけ、というありがたい忠告は実を言うと先ほど市丸の口から出たからのアドバイスだ。
「毎日毎日一所懸命編んだこのセーター着てくれるやろか」
「て、手編みですか……隊長、まさか年が明けてから残業せずに毎日定時でお帰りになってたのって……」
「うん。への手作りプレゼントの為やで」
衝撃の発言に思わず聞き返してしまい、さらに反動の大きな事実を知る事となった。正月から今まで、どれだけ仕事が積み上がっていても五時を過ぎれば「ほな又明日な〜」と笑顔で去っていった隊長を一度も引き止められないまま今日まで来てしまった。この溜まりに溜まった仕事の山は、へプレゼントを渡すためだったのか。がっくりと項垂れたイヅルをよそに、市丸は再び窓の外を眺める。
「いつ渡しにいこかなー」
能天気な隊長の発言に、副隊長の怒りが爆発するまでそう長くはかからなかった。

「勇音」
廊下を走っていこうとしたところを尊敬する隊長の声に呼び止められて、虎徹勇音は真っ赤になりつつも急ブレーキをかけてその場に立ち止まった。そんな勇音にはしたないなどと一言の小言も言うことなく、楚々とした歩みでやってきた四番隊隊長、卯ノ花烈はびしりと背筋を伸ばしたまま直立する勇音に笑いかける。
「準備は万端、のようですね」
死覇装の襟元に忍ばせてある、薄桃色の包みの端をちらりと見て、卯ノ花が言うものだから、勇音は茹蛸のように赤くなってうろたえる。
「あ、あのこれは、その、いつもお世話になってて、そのお礼で、だからその」
「勇音」
しどろもどろに言い訳をし始めた部下に優しく微笑みかけて、四番隊隊長はそっとその背を押す。
「頑張っていらっしゃい」
「は、はいっ」
隊の長に後押しを受けた勇音は先程よりもさらに早く駆けていく。その背をおっとりと見つめていた卯ノ花の元に部下が一人、焦げ茶色の包みに淡い桃色のリボンがかけられた小ぶりの箱を差し出す。
「隊長、お届けものです」
「ご苦労様」
包みを受け取ると、かすかに薫る芳しい香り。その正体が何であるか、すぐに察した彼女は甘く微笑む。送り主の青年、その瞳の色と同じ桔梗色のカードに添えられた短い言葉を大事に読むと、カードを懐にそっとしまったのだった。

朽木邸では朝から当主とその妹が険しい顔で悩んでいた。
「やはり兄様、ここは世間に倣って無難に砂糖菓子でいくべきかと思うのですが」
そう妹が口を開けば、兄は眉間の皺を一つ増やして渋い表情になる。
「甘いものは好かぬ」
「兄様の好みではなく、この祭の主旨が“ちょこれーと”なるものを贈るものなのです」
「しかしそれでは他の者と区別がつかぬではないか。朽木の名を背負うのであれば、それなりの格というものがあろう」
格、とその言葉を出されてはルキアは喉元まで出かけた言葉を押し込めるしかない。しかし、だ。この兄の趣向に合わせた贈り物をすると多分とんでもなく大変なことになる予感だけはしていた。五感全てで感じ取っていた。普段はあまり働かない(それでは死神として困るのだが)第六感も必死になって白哉を止めろと訴えている。この天然気質のある兄は恐らく祭の方向性を完璧には捉えてはいないものの、ある程度は理解し、その上で自分の好みを盛り込ませようとするに違いない。そこが厄介なのだ。何せ朽木白哉は大の辛党。どれだけ辛い料理を口にしても眉一つ動かさないほど舌が麻痺している。そんな彼が選ぶ品など想像に難くない。ルキアが想う相手の青年が特別辛いものが駄目だという噂は聞かないものの、この兄と比べたら誰もが甘党に感じられてしまうだろう。そんな劇物を渡すわけにはいかない。脳裏にの優しい笑顔を思い出し、ルキアは正座したまま細く息を吸い込んだ。そして挑む。もう何度目か知れない、兄との果てしない攻防へ。

「隊長ーお届け物ですよー」
十番隊の隊首室では護廷十三隊一小さな隊長に、護廷十三隊一自由奔放に生きている副隊長がたった今届けられたばかりの包みをかざしてみせる。しかし仕事の溜まっている日番谷はそれどころではなく、眉間に皺を寄せながら筆を止め、ちらりと乱菊の方を見ただけで再び仕事に没頭してしまった。
「いらないんですかぁ?折角が手作りのチョコレートを届けてくれたのに」
浅葱色の包み紙に青竹色の紐がかけられた小さな箱。大きさと重さから言ってこれはケーキかな、と勝手に算段をつけた乱菊は、「いらないならもらっちゃいますよーいいんですかー?」と大きな机にすっぽり埋まっている自分の上司を挑発する。彼は最年少で責任ある隊長格に登りつめた麒麟児だが、その所為で常に周囲に気を張っており、中々素直にならない部分が多々ある。それをほぐしてたまには歳相応に振舞わせてやるのも部下としての自分の役目だ、と乱菊は思うのだ。
「手作りなのに。しかもお菓子ですよ!の作るご飯美味しいって隊長も思ってるくせに」
わざとらしくため息をついて見せれば、日番谷のこめかみがひくり、と動いた。その様子を横目で確認し、あともう一押しかしら、と乱菊はこっそり思う。
は隊長のことお気に入りだからきっと特別なものだと思うのに。いらないんですか?ならあたしが食べちゃってもいいですよねー?」
言いながら見せ付けるように包装を解こうとする。と、そこに待ったがかかる。
「……松本」
ほーら、きたきた。乱菊は予想通りに日番谷が反応を示したことが内心嬉しくって仕方がない。にこりと笑って「何ですか?」と惚けてみせる。
「後で食う。……から、そこに置いとけ」
「はーい」
存外簡単にいったわね、と乱菊は一人思う。素直にならない日番谷をそれとなく軌道修正させてやるのが彼女の役目だ。しかし実際は、その途中の過程で年下の上司を思いっきりからかえることが楽しくって仕方がない、だから乱菊は何時まで経ってもこの役目だけは譲れない、と豪語するのだ。こんな宣言をしてまわっていることが目の前で浅葱色の包み紙を気にする上司に知れたらとんでもないことになるのだが。

五番隊では副隊長である雛森がうっとりと桃色のリボンがかかった箱を見つめていた。と、そこにやってきたのは彼女の尊敬する上司である藍染。彼はお茶のお代わりを頼もうと思いやってきたのだが、部屋に入った途端にいつもと違うにおいがかすかにすることに気付いた。注意深く息を吸ってみれば、確かに甘い香りがする。
「雛森くん」
机上に置いた箱を熱心に見つめる部下に優しげに微笑みながら声をかけると、気配に気付いていなかったのか、雛森は必要以上に驚いて飛び上がった。
「きゃわぁっ!あああ藍染隊長ですか!?び、びっくりしたぁ」
「驚かせてすまないね。でも僕は霊圧を隠して近付いた訳じゃないから気付けたはずだけれど」
「すみません…」
彼女に注意力が足りなかったことをやんわりと叱り、それから今初めて気付いたかのように机の上の小ぶりの箱を視界に入れた。香りの元がこの箱だということにはとうに気付いていたし、今朝から周囲の空気が何やらいつもと違って少し浮かれた雰囲気を纏っている。行事ごとにさして興味も抱かない性格ゆえか、しばし考える羽目になったが、そういえば今日は現世の祭を模倣する日だったような気がした。そして所用で向かった十番隊の隊舎付近で、腕に大小様々な箱をいくつも抱えて小走りになっているを見かけた。彼はすれ違う人ほとんどに声をかけられ、少しの会話の後に相手の女の子が差し出す綺麗なリボンがかかった箱を笑顔で受け取っていた。渡した方はぽぅっと赤くなって先を急ぐを見送る。その後も行く先々ですれ違う彼の行動を見る限り、どうやらは貰うだけではなく、親しい相手に自分からチョコレート菓子を配って歩いているらしかった。
「おいしそうなにおいがするね」
「あ、はい!さんにいただいたんです」
少しだけ朱に染まった頬ではにかむように笑い、雛森が答える。彼女がにほのかな思いを抱いていることに藍染は随分前から気付いていた。あどけないように見えて意外と積極的な雛森の恋愛を興味深げに眺めていたのだが、どうやら彼女はからチョコレートを貰うほど親密度を上げていたらしい。いつのまに、と思いつつもそういえば自分はに何も貰っていないことを思い出す。まあ嫌われているしなあ、と藍染はひとり考える。
「雛森くん」
「はい、何ですか?」
自らが抱き込む望みのために嫌われてしまっているのだが、藍染もの作る菓子を食してみたい気持ちはある。しかし自分は直接彼から菓子を受け取るような間柄ではない。残念ながら。けれど今目の前にそのチョコレートがあるではないか。しかも所有者は自分に心酔しきっている部下だ。全部とは言わないが、小腹の空いたこの時間帯、少しぐらいなら口にしてもいいだろう。そこまで考えて藍染は穏やかな笑みのまま彼女の名を呼ぶ。
「お茶を一杯もらえるかな」
「お茶ですね。分かりました」
直球に言う事はしない。欲しいものがあるならまず外堀を埋める。五番隊隊長の性格はこうだった。雛森が言われるままにお茶を淹れようと立ち上がったところにすかさず一言、
「できれば甘いものも一緒に欲しいな」
と言ってみる。
「甘いものですか?確か頂き物の羊羹があったはずですけど」
藍染の言葉を素直に受けて記憶を探り出す彼女に、そうじゃないんだよ、と笑ってみせる。
「そのお菓子を」
「駄目ですよ」
言外にの作った菓子を望んでいることを伝えようとしたのだが、言い終わらない内ににっこりと笑う部下に遮られてしまう。
「雛森くん」
「はい、何ですか。藍染隊長」
「僕もひとつぐらい味わってみたいんだけれど」
「駄目ですって」
「どうしてだい」
「駄目なものは駄目です」
「僕は君の上司だよ?」
「藍染隊長が偉いのは分かりますけど、でも駄目です」
にこにこと笑いあいながら同じ問答を繰り返す。いつの間にかチョコレートの箱は雛森の腕に抱かれ、大切そうに守られている。
「あはは、意外に強情だね、雛森くんは」
「藍染隊長こそ。案外意地汚いんですね」
うふふあはは、と五番隊の主従は笑いあう。しかし傍を通った同隊の死神達は後にこう語る。曰く「隊長も副隊長も目が笑ってなかった」と。さんにもらったものは例え藍染隊長でもお譲りできません!と、宣言した雛森をいつか刺してやろうと、藍染は春日のように穏やかに微笑みながら胎の内で考える。何時の時代、どの世界でも食べ物の恨みは怖いのだ。



完成日
2007/03/30