血濡れた無垢な子供と、

明日しか見えない大人の話




ぺたり、と。裸足の足が冷たい床で音を立てる。そのまま数歩、ぺたぺたと前に進む。やわらかな幼子の小さい足はすぐに冷えて赤くなる。だけど少女は構わずに進む。目指すのは、先頃増えた新しい気配の持ち主。今まで少女の周りにはいなかったとても珍しい気を身に纏っている。優しさと、決意と、そしてわずかな諦め。そういったモノがぐちゃぐちゃに混ざり合って、けれど表面上は静かに凪いでいる。そう、周囲に見えるように必死に努力している若い魂。惣右介が、ここに連れてきた。だから自分は会わねばならないと、少女は思った。
「あらら、どないしたん?ちゃん」
背後からかけられた声にゆるりと振り返れば、白い装束に身を包んだ市丸が懐手をしながらいつものように感情の読めない表情で立っていた。
「そないな格好でこんなとこまで来てもうて。風邪でも引いたらあの人むっちゃ怒るやないの」
ボクに、という言葉は呑み込んで。市丸はすぐ傍まで近寄って、少女を見下ろす。栗色の髪は起きたばかりなのか、寝乱れた跡がそのままで、着ている物も薄い夜着一枚だ。白い襟から覗く透きとおった幼い肌を上から眺めて、思わず邪な想像をしそうになる自分を律した。他の誰でもなく、目の前の少女だけは駄目だ。手を出したら最後、あの人は何の躊躇いも無く自分を消すだろう。片腕として、懐刀として、永い間共に尺魂界を欺き続けた、腹心の部下である自分を。きっと何のためらいもなく殺すだろう。そうしてそのことに対して何の感慨も持たないのだろう。あの人にとって唯一の執着は、この目の前に立つ深く澄んだ翡翠の眼を持つ少女だけだ。
「ギン、あの人どこ?」
真っ直ぐに純粋な視線を受け止めて、市丸は常に笑んだ口元でさらに妖しく笑みを刻んだ。

ことり、と。物音がした。
「だ、誰!?」
気配に気付いて僅かに強張らせた表情は、次いで相手がまだ頑是無い少女だと分かると目に見えて氷解した。
「こ、子供……?」
代わりに唇から零れるのはそんな疑問で。白い夜着の上にどう見ても彼女の丈に合っていない白い上着を引きずって、少女はほどなく近付いてくると小首を傾げて問うてきた。
「井上織姫?」
自分の名を呼ばれたことに驚いて、一瞬反応が遅れたが、織姫は先程失った警戒心を再びその胸に抱く。忘れようもない。ここは敵地なのだ。
「そう、だけど。あなたは誰なの」

織姫の言葉に短く名を告げると、はゆっくりと織姫を上から順に眺める。その視線には他意はなく、本当にただ『眺めている』といった風だ。
「あの」
戸惑う織姫の声にゆっくりと首をもたげて見上げた。その吸い込まれそうに清らかな双眸には何の他意も見当たらず、また敵意すらない。ここにいるのは己以外皆、敵だとばかり思っていた。だが目の前の少女は違うようだ。背は織姫の肩ほどまでしかなく、不自然なほどぶかぶかな着衣から伸びるのは白く細い手足。永く伸びた栗色の髪と、その下の翡翠の瞳、幼く色付いた唇以外には驚くほど無色の少女だった。
、ちゃん?あなたはどうしてこんな所にいるの?」
膝を軽く曲げて、少女の顔を覗き込みながら問う。問いかけの言葉を口にしながら織姫はもしかしたら、目の前のこの少女も自分と同じように無理やりここに連れてこられたのではないか、と思った。そうであるならば助けなければいけない。
「お父さんとか、お母さんとか心配してない?お家に帰りたいよね」
「おとうさん、おかあさん……家?」
織姫の言葉を順に辿って呟きながら、は僅かに首を傾げる。
「ないよ」
「え」
首を傾げたまま、翡翠の双眸が織姫を見上げて言った。思わず聞き返す織姫には淡々と続ける。
「おとうさんも、おかあさんもいない。家もない」
「それって」
殺されたのだろうか。この子の両親は。そして家も、帰る場所もなくなってしまったのだろうか。そうだとすれば、目の前の子供にしてはあまりに表情乏しい様子にも納得できる。きっとその時の強いショックで、心がどうにかなってしまったのだろう。痛ましい想像に織姫は顔を泣きそうに歪め、床に膝をついてそっと少女を抱きしめる。
「織姫?」
「怖かったよね。一人は辛い、よね」
「ひとり?あたし、一人?違うよ織姫」
大人しく織姫に抱かれていただが、小さく、きっぱりと否定する。
「あたしは一人じゃない。だって惣右介がいるもの。惣右介があたしの帰る場所だもの」
ちゃん……?」
「織姫は、どうしてここにいるの?ここにいたくないって、いっぱいいっぱい思ってるのに。どうしてここにいるの?」
「……っ」
息が詰まった。見透かされて。自分の心の底を。隠していたはずの、隠せていたはずの、大事な心を。彼の役に立ちたいから。足手纏いになりたくないから。だから、自分で決めたことなのに。迷いなど、捨て去ったはずなのに。
「織姫は、待ってるの?」
そっと、指が伸ばされた。薄い皮膚の、幼い指先。それが濡れた頬に触れる。流れた涙はすぐに冷えて、しかしそれでも溢れる熱い想いを冷ますことはできない。
ちゃん」
「待ってるんだね」
「…うん。でも、行かないよ。あたしにはやることが、あるから」
「ふうん」
指先についた涙を小さな舌でぺろり、と舐めて、はくるりとその場で反転する。急に背を向けたに戸惑いがちな視線を向ける織姫に、少女は抑揚の欠けた声で告げる。
「でもね、織姫。惣右介の邪魔はしちゃだめだよ」
「邪魔、って」
「邪魔したら、ゆるさないから」
死を告げる、天使のように気高く声は響く。そのまま衣を翻して駆け去る少女の背を織姫は呆然と見送る。幼い少女の向こう側に、どうしてか血塗れた黄泉路が見えた気がして、戦慄が背筋を這い上がる。震える唇が、名を刻む。そして小さく零れる、たすけて、の言葉。

「おかえり」
織姫の部屋を出て、何故か待っていたウルキオラがを促して藍染の元へと連れて行くと、白と黒の冷たい壁の前で養い親が待っていた。ウルキオラの腕に抱きかかえられていたを見て、彼はゆっくりと目を細める。裸足の爪先が冷えて赤くなっているのと見ると、
「また靴を履かずに出歩いたのかい。駄目だよ、ほら足がこんなに冷えてしまっている」
ウルキオラの腕から少女の体を受け取り、冷たくなった足先を撫でると、くすぐったかったのかはきゅっと両の瞳を閉じた。
「これはギンの上着だね。途中で会ったのか」
「うん。会ったよ」
「ギンにしては、まあ、気がついた方か」
「藍染様」
「ああ、ウルキオラ。ご苦労だったね。、ちゃんとお礼を言いなさい」
「ありがとう」
「いえ、ではこれで」
一礼と共に部下が去ると、藍染はを膝に乗せて椅子に腰掛ける。背に垂らされたままの髪をゆっくりと撫でながら、少女の翡翠の双眸を見つめると、ふいにぎゅっと抱きつかれた。
「どうしたんだい?」
優しく訊く藍染の声にただ首を左右に振って何もないことを示すが、首に細い腕をまわしてますます強くしがみついてくる。その様子に何事かを察したが敢えて言わず、藍染は変わらずゆっくりと栗色の髪を手で梳く。
、明日は一緒に過ごそうか」
その言葉にかすかに頷いた少女は、気配を感じて緩慢に後ろを振り返る。
「来た」
「ああ、そのようだね。さあ、子供はもう寝る時間だ。寝付くまで傍にいるからゆっくりとおやすみ」
「……うん」
再び抱き上げられたは侵入者の気配を辿ろうとした。けれど途中でやめた。ここには藍染がいる。自分はこの養い親の庇護の内で何もせずともよい。それがに与えられた役割。だからはただ自分を守るこのあたたかな腕の中でまどろんでいればいい。
「おやすみ、。いい夢を」
優しい声音が、子守唄のように脳内に響く。



完成日
2007/10/08